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償い  作者: カピバラ子
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生きるということ

何もかもがいい方向に進んでいるように思えた。長野での新しい生活‥子供が欲しいという妻の希望を、間接的ながらも叶えられそうなこと‥仕事は厳しいだろうが、新しい生活に希望を見出だし和範は少し楽観的になりかけていた。だが現実はそう甘くなかった。和範が出した遠藤の母親への手紙の返事は、予想していた通り一週間経っても十日経っても一向に来なかったのである。和範はすぐにでも母親に会いに行きたかったが、それよりも大切なことがあった。名村の息子の周君は、既に退院して今施設で暮らしている。償いは償いで和範にはやらなければならない大切なことだったが、それでも今の夫婦には先に済ませなければならないことがあった。自宅を引き払い長野へ引っ越す作業‥そして里親になる為の手続き‥様々なことを二人で一つ一つこなしていきながらも、和範の心には遠藤の母親から返事が来ないことに次第に焦りが生じていた。

(もう待てない。これ以上‥周君のことも疎かに出来ないが、一度行きたい。勿論すぐには会ってくれないだろうが‥とにかく行かなければ‥)

そう思っていた時、ふと正代が早く周君を迎えに行ってあげたいと呟いた。先ず顔を覚えさせて、傷付いた幼い心を癒す為の段階を踏まなければならない。正代は新しい生活が始まるまで施設にいる周君に出来るだけ会いに行こうと思っていると夫に告げた。和範は思った。自分がこれから移り住もうと思っているのは奇しくも遠藤の母親が暮らしている同じ長野‥和範は妻の言う通り何か不思議な因縁というか、確かにそんな糸で繋がっているような気がした。そして彼は、遠藤の母親に会いに長野へ行くことを決心したのだった。同じ長野へ向かうということで、従兄弟と会って仕事や住む所を決める為に長野へ行く正代が心配なのか和範に同行したいと申し出た。和範は妻の言葉に感謝しつつ長野までは一緒に行くが、その後のことは自分の問題なので自分一人で向き合いたいと真剣な口調で答え、正代は不安そうな表情ながらも夫の意志を尊重し頷いてくれたのだった。

同じ電車でこれから新天地となる長野へ向かった二人だが、和範は駅で妻と別れると浪川先生の夫が教えてくれた住所を頼りに、遠藤の母親が住むその家をやっと探し当てた。そこは長野の県北の村で、人家の疎らな寂れた集落だった。住んでいる人々も殆ど高齢者らしく、遠藤の母親が住む家はその中の古びた一軒家だった。家の前に立ち表札を確認すると自然に足が震えてきた和範だが、勇気を奮い起こして呼び鈴を押した。「はあーい!」

和範の予想とは裏腹にすぐに元気のいい声が聞こえて、奥から出てきたのは身なりがきちんとした初老の男性だった。「あっ‥あの‥」

母親一人で暮らしているとばかり思っていた和範は、その男性の登場に少し戸惑って言葉に詰まった。するとその男は、頭をかきながら口を開く。

「あっ‥いや、私はこの村の民生委員をしている者で、一人暮らしのここのおばあちゃんの様子を時々見に来てるんです。崎本といいます。おばあちゃんに何か‥?」

「あっ‥すみません、いきなり‥僕は原田和範といいます。この家の‥遠藤さんの亡くなった息子さんと中学の時同級生だった者です。」

「原田‥和範‥」取り敢えず名乗らなければと口を開いた和範だったが、崎本というその男は和範の名前を聞いた途端、何故か怪訝な表情をして眉をひそめた。

「あっあの‥」戸惑って口を開いた和範に、民生委員だというその男は今度は思いがけず少し険しい表情で厳しい言葉を放つのだった。

「いや、他人にきた手紙を読むのはどうかと思われるかもしれないがね、私はハルさんとは十年来の付き合いで、ハルさんも私のことを信頼してくれとる。何日か前に私はハルさんに見せられたんだ。確か君からの手紙だった。迷ったがね‥ハルさんが是非読んでくれと言うもんだから目を通したんだよ。書かれていた通りだとすれば、君も随分ひどい人間だね。エリートか何か知らないが‥ハルさんの息子さんが凍死しかねないような寒い場所に閉じ込められているのを知っていながら、黙って帰ってしまうなんて‥いくら中学生だったからって、君のしたことは許されることじゃないと思うよ。それで?今日は何しに来たの?直接謝りに来たの?」

いきなりの説教となったが、和範は躊躇することなく崎本の言葉をしっかり受け止め今の自分の思いを口にするのだった。今更遅すぎると非難されても自分は過去の過ちを後悔し、謝りに来たこと‥その上で、自分はこれから同じ長野の蓼科で新しい生活を始めることにしていて、一度の謝罪で許されるとは勿論思っていないが、これからは何度も謝りに来ようと考えていることなどを告げた。和範の言葉を崎本というその男性は険しい表情のまま黙って聞いていたが、話している途中で不意に奥から声がした。声は小さくて和範に聞き取れるものではなかったが、崎本にはわかるらしくその声に応じている様子が見てとれた。

「はい、あっ‥ハルさん、何だって?帰ってもらってくれ‥?そう‥そうだよね。」

崎本は奥に引っ込んでハルという名の遠藤の母親と話していたようだが、すぐに出て来て和範に帰るように告げた。

「折角来てくれたが、ハルさんは会いたくないそうだ。済まんが‥帰ってくれないか。」

「あっあの‥会うだけでも‥責められる覚悟は十分して来ました。何としてもお会いして謝りたいんです。」

なおも食い下がる和範に、崎本は困ったような表情を見せて今度は少し柔らかな口調で口を開いた。

「確かに君の手紙はハルさんにはかなり衝撃的な内容だったそうだ。それでも‥君はその時まだ子供だった。ハルさんはなあ、ショックだったけど君のことを怒ってる訳じゃない。十年以上付き合いのある私には彼女の気持ちがよくわかるんだ。とにかく、ハルさんはもう忘れたいんだよ。君に会えば、嫌でも亡くなった息子さんのことを思い出さなければならなくなる。それが怖いんだと思うわ。もう昔のことは忘れて心静かに暮らしているんだから、そっとしといてくれってそういうことだと思うわ。」

「はあ‥」

そういうふうに言われると、さすがに何も言えなくなる和範だった。寧ろ面と向かって罵倒された方が、よっぽど気持ちが楽だったのかもしれない。だが一度の訪問で彼の謝罪を受け入れてくれる筈もないのだ。和範は彼女が会ってくれるまでここに通い続けることになるだろうとこれからの日々を思い巡らすのだった。するとまだ家の前から帰ろうとしない和範に崎本は今度は強硬に言い放つ。

「さっ、わかったらとっとと帰ってくれ!君に会うことはハルさんにとって苦痛でしかないんだ!今の君にハルさんを苦しめる権利などないんだから。とにかく、彼女をそっとしといてくれ。」

「でっ、でも‥」

「そもそも君が謝りに来たのも、結局は自分の為じゃないのかい?今までのエリートとしての生き方を捨てて奥さんと新しい生活を始めるそうだが、その新しい生活を始めるにあたって自分の気持ちを切り換える為‥所詮は自己満足の為じゃないのかい?」

「いっ、いいえ‥それは違います。」

崎本の厳しい言葉を強く否定する和範‥必死に首を振る和範の悲痛な表情を見て、崎本は心が少し疼いたのか今度は柔らかな口調で続けるのだった。

「少々厳しいことを言い過ぎたのかもしれん、君はその時まだ子供だったんだよね。人の命の重みは、子供だった君にはよくわかっていなかったんだろう。ましてや君が閉じ込めた訳でもないしね。でもだからと言って、ハルさんを困らせるようなことはしないでくれ。ハルさんは佳人君があの日体調が悪かったことに気付かずに学校に行かせたことで、ずっと自分を責めて生きてきたんだ。息子の死を受け入れることが出来るようになるまで、どれ程の時間がかかったと思う?何年もの歳月を経て、ハルさんはやっと心穏やかに暮らせるようになったんだ‥そんなハルさんの心を今の生活を今更掻き乱すような真似は頼むからしないでくれ‥。」

そこまで言われると、さすがに今の和範には返す言葉がなかった。

「わかりました‥」

頭を下げてその場を去ろうとした和範だが、やはりこのまま帰る訳にもいかないと思い直しせめて遠藤の墓に参ることだけでも許してくれないかと、もう一度崎本に‥そしてその奥にいると思われるハルに向かって頼み込んだ。

「でもなあ‥」

「お願いします!」

必死に頭を下げる和範に根負けしたらしく、今度は崎本が渋っているらしいハルを説得してくれたのだった。

「ハルさん、あんたの気持ちは晴れないだろうが墓参りぐらいさせてあげようよ、折角来てくれたんだから。私が場所を教えてやる、あんたはそこにいていいから‥私が案内するから‥なあ、いいだろう?」

崎本は奥にいるハルを説得しようと言葉をかけているようだが、はきはきした崎本の声とは対照的にハルという名の遠藤の母親の声は小さくて聞き取りにくく、和範には何と言っているのか全くわからなかった。待つことしか出来ない和範がそれでも辛抱強く待っていると、やっとハルの了解が出たらしく崎本はそのまま即座に和範を外に連れ出した。そしてすぐ近所にあるハルの息子が眠る墓所へと和範を連れて行ってくれたのだった。そこはいくつかの墓石が並んでいる墓所の一角であり、和範は崎本が教えてくれた墓石に遠藤佳人享年十五歳と刻まれているのを確かに目にした。ここだ‥和範はひざまずくと静かに手をつき、そして頭を地に擦り付けた。体が自然に震えてくる。自分はこの時を待っていたのだ。たとえ許されなくても、自分の償いは先ずこの土下座から始めなければならない。自分は温かい血の通った人間としての生まれ変わる為に、今この場所にいるのだ。そう自覚した時和範は、不意に遠藤がまだ生きていた頃彼に一度だけ見せたことのある、はにかむような笑顔が何故か鮮やかに思い出されて和範自身の心を締め付けるのだった。あの時遠藤は、和範が陰で自分のことをストレス解消のターゲットとして陰湿な目で見ていることなど全く気づいていなかった。あの笑顔は何よりも彼が純粋無垢な人間であり、素直な心で和範を見ていた証拠‥それなのに自分は、自分という人間は何ということを‥取り返しのつかないことを自分はしてしまったんだ‥そこまで考えた時、堪らなくなって和範の目から涙が零れた。

「ごめんな‥ごめんな‥本当にごめんな‥謝るのにこんなに時間がかかったけど、俺‥今更償いようがないけど、謝るしかないんだ。本当にごめんな‥」

土下座したまま、和範は涙声で今は亡き遠藤に詫び続ける。そのまま彼の懺悔は、暫くいや永遠に続くかと思われた。だがそのうちに、和範にこの場所を教えて一旦立ち去った筈の崎本が気になって戻って来たらしく、墓の前で土下座して泣いて詫びる和範の肩に手をかけ、今度は優しく声をかけてくれた。

「さあ、もういいから‥君の気持ちはわかったから泣くのはもうやめ。あんたが自分のしたことをどれだけ後悔して息子さんに詫びていたか、私がしっかり見届けた。あんたの気持ちに嘘はないと思う。私が見たことをハルさんにちゃんと話すから‥あんたの気持ちは十分わかったから‥ハルさんの息子さんにもしっかり伝わったと思うよ。だからもう泣くのは止めて‥なあ‥」

「はい、すみません‥」

崎本に優しく声をかけられて、和範はやっと落ち着きを取り戻した。そして涙を拭いて墓まで案内してくれたことを素直に崎本に感謝する。それに答えて崎本が口を開いた。

「もう忘れよ、なあ‥あんたも自分の生活があるんだし、勿論家族もおられるんだろう?あんたはあんたの人生を、これから間違いなく正しく生きていくこと‥それがハルさんや息子さんに対する、何よりの償いになると思うよ。わかったらもう帰りなさい。君の気持ちは私がハルさんに必ず伝えておくから。」

崎本に穏やかな口調で帰るように優しく促され、和範の心はまだ空白のままだったがその日はそのまま帰途についた。今はまだ、何も考えられない心境だった。それでも帰りの列車の中で、和範はこれからのことを少しずつ考え始めていた。自分と妻は、これからハルさんが住んでいる同じ長野の蓼科で新しい生活を始めることになるのだ。しかも今までのような二人だけの生活ではなく、いずれ実子ではないが子供を迎えることになる。妻の正代は一人で奔走し、周君の里親になる為の手続きをほぼ済ませていた。田尻の話では、現在禁固十一ヶ月の刑が確定し服役している名村は、周君を里親として引き取って親子で新しい暮らしが始められるようになるまで面倒を見るという正代の申し出に全く異存はなく、和範夫婦には大変感謝しているという。そう聞かされた和範は、自分の償いも大切だが幼い周君の里親としてしっかり生活を築いていくことも、決して疎かに出来ない大切なことなのだと改めて思い知らされるのだった。

そしてその夜、帰宅した和範に妻の正代は長野での新しい住まいを決めてきたことを報告した。

「家‥決めてきたの?」

「ええ‥ごめんなさい、勝手に決めちやって‥でも急がなきゃいけなかったもんだから。候補は前もってあなたに見せておいたんだけど、その中の‥ここに決めたわ。」

正代はそう言って、手にしていた家の間取りが書いてある紙を夫に渡した。更に彼女の話は続く。

「従兄弟の話ではペンションにも畑にも近いし、どちらの行き来にもここが一番便利がいいらしいの。3DKでまあまあの広さだし、周君が来ても大丈夫なように庭が結構広いのよ。思いっきり遊べるわ。あとはこの家を売ってローンがどれだけ減らせるかってことだけど‥」

夫を励まそうとわざと明るく話す正代に、和範は優しく微笑んで口を開いた。和範が遠藤の母親に会いに行ったことについて、どうだったのかその様子を訊きたい気持ちを懸命に堪えている妻に、和範はあくまで優しく話しかけるのだった。

「家はこれでいいと思うよ。一人で大変だったろう、君は君で色々大変なのに気を使わせてしまって済まない。だからじゃないけど、今日のこと有りのままに話すよ。家には行ったんだけど、遠藤君の母親には結局会えなかった。会ってくれなかった‥民生委員の崎本さんという人の口添えで、遠藤君のお墓には参ることが出来たけど‥」

「顔を出してくれなかったのね、やっぱり怒って?会いたくないって?」

心配そうな表情を見せる妻に、和範はそれでも笑顔を崩さずに答えた。

「怒るっていうより、僕と会うと辛いことをどうしても思い出さなければならなくなってしまう‥それが嫌だから会いたくないって‥丁度民生委員の崎本さんて方が来てらしてね、彼がハルさんの意志を仲介して僕に伝えてくれたんだ。」

「ハルさん‥?」

「遠藤君のお母さんの名前だよ、その民生委員の崎本さんに言われたんだ。ハルさんが息子さんの死を受け入れられるようになるまでどれだけの時間がかかったと思う?やっと事実として受け入れて心静かに暮らせるようになったんだから、今更ハルさんに会って彼女の心をかき乱すようなことはしないでくれってね。つまり結果はどうあれ僕に会うこと自体が、亡くなった遠藤君を思い出すことに繋がってしまう‥それが嫌だから会いたくないって、そう言われると僕も何も言えなくなってしまって‥」

話を聞いた正代は、頷きながらも何とも言えぬ表情を見せた。そんな妻に和範は、暗い雰囲気を吹き飛ばすように元気に声をかける。

「まあ、人を介してだけど話が出来た。それだけでも貴重な一歩だよ。焦っちゃ駄目だと思う。時間はかかるだろうが、僕は諦めない。君は心配しなくていいよ。今の僕にとっては、新しい生活を築いていくことも同じくらい大切なことだ。家族である君とこれから預かることになる周君、そして周君以外にもこの先預かることになるだろう子供達への責任がある。里親なんて中途半端な気持ちでとてもやれることじゃない。仕事の面でも僕はまだまだ素人だ。だから死に物狂いで頑張るよ、頑張るしかないからね。だけど楽しいこともきついことと同じくらいある筈だ。素晴らしい大自然の中で汗水流して働くことが、いつしか喜びに変わっていけばいいと思っている。そして働きながら、ハルさんにも毎年会いに行こうと思っている。一度や二度会いに行ったからってすぐにどうこうなるもんじゃない。大切なのは誠意を見せることだ。それを続けることだ。だから、自分が行ける範囲で行こうと思っている。とにかく‥そんな日々を積み重ねるしかないんだ。

「毎年‥行くの?」

「ああ、思えば同じ長野へ移り住むことになったのも、何かの縁かもしれない。時には自分が作った野菜を持って行きながら、ひたすら会ってくれるのを待とうと思う。ハルさんが息子の死を受け入れることが出来るようになるまで、何十年もかかったそうだ。だから僕の謝罪を受け入れてくれるようになるまで、同じくらい時間がかかってもそれは当然だろう。焦っては駄目だ。大丈夫だよ、仕事そして家族‥君と周君‥里親として預かることになる子供達のことを疎かにするつもりは毛頭ない。だけど僕の償いにはどうしても時間がかかる。こればっかりはどうすることも出来ないんだ。わかってくれるね?」

「ええ‥」最初は少し戸惑いの表情を見せていた正代だったが、夫の堅い決意を聞いてどうやら迷いも吹き飛んだらしい。彼女は和範の目を見ながらしっかり頷いた。そしていつものように夫を優しく励ましてくれるのだった。

「あなたを信じてる。これからまだまだ色々大変なことがあるだろうけど、二人で頑張って乗り越えていきましょう。今のあなたなら大丈夫、あなた本当に変わったもの‥本来のあなたにやっとなれたのかもしれない。人として逞しくなったというか‥立派になったと思うわ。」

「おいおい、おだてても何も出ないぞ。」

「本当よ、世の中には人を踏みにじり傷つけておいて、何とも思わず平気で生きている人間がまだまだ沢山いるわ。人を殺しておいて罪を償おうとしない人もいる。あなたが子供の頃したことは確かに人を傷つける悪いことだったと思う。でも、人はそれでもやり直すことが出来るのよ。犯した罪を悔い改め立ち直ることが出来るのよ。あなたはその最たる実践者だと思うわ。あなたはあなたの信じる道を進めばいい、私はあなたを信じてる。」

「有り難う‥」

自分を励ましてくれる妻の力強い言葉を得て、和範の心には今までの何倍もの勇気が湧いてくるようだった。考えてみれば勿論正代にも迷いがあった筈、だがそれでも、自分を信じついて来てくれたのだ。和範は今、エリートとして競争社会を生きてきた自分から別の新たな人生を歩んでいく自分になったのをしっかり自覚していた。

二人の心は揺るぎない決意に満ちたものとなり、その絆は何物にも変えがたいくらい強固なものとなったが、二人が横浜を離れ長野へ引っ越して新しい生活を始めることについて、理解を得なければならない人物がまだ二人いた。それは他ならぬ和範の両親だった。一応正代の従兄弟が脱サラをして長野の蓼科でペンションを始めるので、それを手伝いながら畑仕事もこなして長野で暮らしていくつもりだという意向を和範は手紙では伝えていたのだが、まだ両親からは何の返事も返って来てはいなかった。やっぱり反対してるんだろうな‥和範は両親のことを考えると、気が重くなってしまうのをどうすることも出来なかった。

そうこうしているうちにも、引っ越しの準備は着実に進んでいく。準備に追われて多忙な毎日を送っていた和範だが、それでも正代と相談してこの日に必ずといった日を決め両親を訪ねることにしていた。返事が来なくてもその日には必ず親に会い、自分達の気持ちを伝え二人を説得する。わかってくれなくても、今の自分の決意はしっかり話すつもりだった。だがそんなある日、諦めていた親からの手紙が来た。それは父からのものだった。封を切る和範は、やはり緊張するのをどうすることも出来なかった。

父からの手紙には先ず新しい生活を始める息子夫婦への激励の言葉が綴られており、そして同時に複雑な親の心情も所々に吐露されていた。良かった‥賛成とまではいかないまでも、決して反対という訳ではないらしい。その事についてはホッとした和範だが、母について書かれてある部分はやはり彼にとって気が重くなる内容だった。和範の母貴美子は仕事を辞めエリートとしての人生を捨てて、その上自分達の側から離れようとしている息子の心がまだなかなか理解出来ないらしく、父知範に暇さえあればこんな筈ではなかったと愚痴っているという。だがそんな母親に反して父はあくまで冷静だった。前に会いに来てくれた時言ってくれた言葉‥お前のやろうとしていることは人として正しい道だと思う。そして自分の信じる道を歩むようにと言ってくれた時の父と何ら変わりなく、長野へ移り住み新しい生活を始めることについても、寂しがってはいるものの応援してくれているようだった。ただ母の貴美子については、和範が今直接会って話すのは却って母の心をかき乱し態度を硬化させる恐れがある。自分がじっくり説得するので今少し時間をくれるようにと、父は手紙に記していた。その上で引っ越しの挨拶をしにこちらに来ようと思っているかもしれないが、今は自分達に会わずに旅立った方がいいと、手紙にはそこまで記してあった。和範はここまで書いてくれた父の心情を思うと、有り難く思うと同時に申し訳なく思えて切ないまでに胸が締め付けられるのだった。

(ごめんよ、父さん‥ )

和範は、心の中で父にしっかり詫びた。そして新しい生活をしっかり構築して、畑仕事で日焼けして逞しくなった体で作った野菜などを手土産に必ず笑顔で会いに行こう。父の不安も母の苛立ちも全て払拭出来るようなとてつもない笑顔を満面にたたえて必ず両親に会いに行こうと、そう堅く心に誓うのだった。

一方弟の久範はやはり和範達が長野へ引っ越すことには強く反対しているらしく、引っ越しを思いとどまり今まで通り両親の近くで暮らすようにと説得する電話が、毎日必ずかかってくる程だった。然し勿論和範夫婦の決意を翻らせることなど出来る筈もなく、母貴美子の愚痴は今度は主に夫ではなく弟の所に及んでいるらしい。弟の執拗な反対はそんな母親の意志を反映するものであり、久範からの電話は和範にとって頭の痛いものだった。それでも今は、どんなに反対されても説得するしかないのだ。そしてこの日も弟から電話があり、受話器を取った和範は久範からの電話だと知ると、心ならずも親の面倒を押し付ける形になってしまうことに最初から頭を下げ低姿勢で臨んだ。だがこの日の久範の口調は、思いがけず今までにない程穏やかなものだった。

「引っ越しは来月の五日だったね、もうすぐじゃない。準備万端なの?」

「ああ、あと十日もないからな。ごめんよ、お前にも京子さんや子供達にも挨拶にいかなきゃと思ってるんだが忙しくて‥」

「僕達のことはいいよ、潤や初音なんか却って喜んでるんだから。」

「ええ、そうなのかい?」

「うん、長野に親戚が出来るなんてこれから遊びに行けるようになるから嬉しいって、二人共厳禁なこと言ってるよ。京子だって自然豊かな所に住めて羨ましいって‥」

「そんなことを‥そう言えば潤も初音も大きくなっただろうな。幾つになった?」

ずっと会っていなかった甥や姪に思いを馳せて、ふと和範が尋ねる。そんな兄の問いかけに、久範は和範が戸惑う程の明るい声で答えてくれた。

「潤は六歳、初音は四つ‥潤は来年小学生だよ。」

「そうか‥この前宮参りだったような気がしたが、子供の成長は早いもんだな。二人にはいつでも遊びに来るようにと、僕と正代が言ってたってそう伝えてくれ。京子さんにも宜しく言っといて‥」

「うん、わかった‥」

「それで‥?」

「それでって‥?」

「お前は相変わらず、僕達が長野へ移り住むことについては反対なんだろう?何か、今日はやけに物静かな言い方だから却って怖いんだが‥」

和範は茶化すことなく今の心境を有りの儘に伝えたのだが、返ってきたのは弟久範の意外な言葉だった。

「心配しなくてもいい、もう反対はしないよ。兄さん達が決めたことだから、兄さん達でしっかりやっていけばいいと思う。大丈夫だよ、父さん達は僕がちゃんと面倒見るから‥」

「久範‥?」

弟の意外な言葉を聞いて少なからず戸惑う兄に、久範は静かに口を開いた。

「実は‥父さんに言われたんだ。兄さん達が歩こうとしている道は決して平坦ではないけど、人として正しい道だ。だからお前もわかって応援してやってくれないかってね。それで僕は僕なりに考えたんだ。母さんの愚痴を何度も聞かされたせいもあるけど、何故僕が兄さん達の長野行きにあんなに反対していたか‥やっぱり歯痒い気持ちが強かったのかもしれないね。小さい頃から何をやらせても素晴らしいと誉められ続けて育った兄さんが、当然のように歩く筈だったエリート街道を捨てて全く別の‥素人の分野に飛び込んでいく‥何でそうなるんだという忸怩たる思いを抱いたのも事実だし、そんな兄さんの弟として育ちエリートの兄を持つ地味な弟という立場が、一転して自分が親を見なければならないんだという責任感‥幼い頃から比較されながら育ち、時には嫉妬に駆られた時もあった。そんな利口な兄を持った弟が、それでも自分の将来をエリートである兄貴になら託せるからとそんな思いで生きてきたのに、その強力な後ろ楯が突然なくなってしまうんだという言い様のない不安感‥こんなことを言っても兄貴にはぴんとこないだろうな。」

「久範‥」

そんな風に思っていたのか‥和範は今まで考えてもみなかった弟久範の本音を聞かされて、驚くと同時に少し意外な気がした。何でも出来る優秀な兄を持った、平均よりも少し出来のいい弟‥あまり比較されて育ったという感覚は和範にはなかったが、弟は弟なりに複雑な思いを抱いて生きてきたのだ。それでも弟はそんな複雑な思いを殆ど表に出すことなく、いつでも自分を頼りそして理解してくれる良き弟でいてくれた。今度も最初は反対したものの、結局父の言葉を受け入れて長野で新しい生活を始める兄夫婦を理解し応援しようとしてくれている。和範はそんな久範の気持ちを有り難く思い、優しく語りかけるのだった。

「ごめんな、でも心配しなくてもいい。離れてはしまうけど、父さん達のことは僕もちゃんと見るから。といっても生活が安定するまではどうしても迷惑かけてしまうけど、それでも出来る限りのことはするから‥」

「兄貴‥」

「それに、今はお前の方が先輩だよ。これから親になる僕にとって、既に親であるお前の方が先輩だ。学校の成績なんて関係ない。これから先子育てについては、わからないことを色々尋ねることになるかもしれないがその時は宜しくな。」

「子育て‥?兄さんも里親になる覚悟が出来たんだね。義姉さんに聞いたんだけど、そういえば兄貴が引き取ることになっている男の子、周君といったっけ?引っ越した翌日には迎えに行くんだろう?」

里親として恵まれない子供達の面倒を見る話は、当然久範の耳にも入っていた。久範はその事についても当初は反対していたのだが、兄夫婦‥特に正代の強い熱意に押し切られて渋々賛成した経緯があった。和範はそんな弟の問にしっかり頷く。

「うん、里親になることについては、ペンションのオーナーである佐伯夫婦も理解してくれてる。色々配慮してくれるそうだ。これは正代からの受け売りだけどな。」

「本当に無茶するよ、二人共‥親の経験も無いくせに、いきなり恵まれない子供の里親だなんて‥まあ義姉さんらしいといえば義姉さんらしいけどね。まあそれでも頼りになる人がすぐ近くにいるらしいから心配はしていない。佐伯さんっていったっけ?その佐伯さんのご主人が義姉さんの従兄弟にあたる人なんでしょう?」

「ああ、そうだよ。子供が三人いるんだが、みんなアレルギーがあってね。特に下の二人のアレルギーがひどいらしいんだ。」

「アレルギー?アトピーなの?」

「それはよく知らないが、食べ物が原因だと正代が言ってた。だから随分食べ物には気をつけていたそうだが、都会に住んでいてはなかなか‥それで自然豊かな所で無農薬の野菜を作って、自給自足で暮らしていきたいという希望は前々から抱いていたそうだ。で‥やっと資金が貯まったんで脱サラして思い切って‥」

「本当に思い切ったよね、そのご主人も‥勿論兄さん達もそうだけど。まあこれからが大変だけど、二人で助け合って頑張っていってよ。特に企業戦士だった兄さんにとっては、これからは頭よりも体力勝負になるからね。呉々も体だけは大切にね。そして義姉さんにも宜しく言っといて‥」

「わかった、有り難う。お前もみんなも元気でな。」

弟との長い会話を終えて受話器を置いた和範は、心からホッとした。父も弟も今は自分のことを心から理解して、応援してくれている。さすがに母親だけはまだまだ息子が選んだ道が納得出来ず、こんな筈ではなかったと愚痴っているらしいが‥それでもそんな母の理解を得るのは、これからの自分の生き方にかかっているのだ。頑張らなければ‥和範は新しい生活に新たな人生をかけることを堅く心に誓うのだった。

それから二人は慌ただしい日々を過ごし、やっと引っ越しの日を迎えた。電話では何度か話していたが、荷物の整理を終え挨拶に行った先で初めて会った佐伯夫婦の印象は何とも豪快なものだった。小学六年の長男、四年生の長女、二年生の次男と二つずつ違う三人の子供達も活発そのもので、騒ぎまくる子供達を怒鳴り声一つで静かにさせる夫婦の姿に、和範も正代も親の逞しさを改めて見せつけられたような気がした。夢のような時間‥でもこれが現実、この先自分達の日常となるのだ。和範は自然に気が引き締まるのを感じた。ペンションのオーナーである佐伯夫婦の夫卓朗は百八十五センチの長身で、しかもがっちりとした体格の巨漢であり妻の美佐子も夫に負けず劣らずのふくよかな体型だった。その二人が和範達の前に立つと何かそれだけで圧倒されてしまいそうだが、その二人が喋り出すとすぐにその緊張感や更に彼等の体型からくる圧迫感も吹き飛んでしまう。とにかくよく笑う、明る過ぎる程明るい豪快な家族だった。長男の卓也長女の佳那子次男の智也もそんな両親に育てられたせいか、落ち込むということを知らず、小さい頃からアトピーや色々なアレルギーからくる様々な症状を苦痛に感じている様子は思った程なかった。だがそれでも下の二人には首や手足など目に見える部分に発疹があり、本人や両親がそれを気にする様子は時々見受けられたものである。だがその暗い雰囲気を補って余りある明るさが、この家族には確かにあった。

和範が仕事を辞めエリートとしての道を捨ててまで人生をやり直すことにした経緯は、既に正代の口から卓朗に伝えてあったが、夫婦共に和範に会ってもその事については全く触れようとしなかった。

「まあとにかく、頑張って!今はそれしか言えないっていうか‥みんなに頼っていいからね。僕はここのスタッフは一つの家族だと思っているから。」

「有り難うございます。まだまだ慣れるまで時間がかかると思いますが、とにかく頑張ります。」

多少なりとも緊張している夫と違って、子供の頃から付き合いのある正代は気軽に卓朗に話しかけるのだった。

「里親になることについては、卓朗さん達にも迷惑をかけることになるかもしれない。悪いと思ってるわ。でもやりたいの、里親になりたいのよ。」

「全然迷惑だなんて思ってないよ、正ちゃんの気持ちは素晴らしいと思ってる。大丈夫、うちには腕白盛りの子供達がいるし頼りになるスタッフもいる。みんなで育てていけばいいから。」

夫の言葉に妻の美佐子も相槌を打つ。

「そうよ、子供は子供同士通じるものよ。いいお兄ちゃんとお姉ちゃんがいるから‥私達みんなで親になればいい。そうやってやっていこう、ねえ!」

「有り難う、美佐子さん‥」

緊張の時が過ぎ佐伯夫婦との対面を終え帰宅した和範夫婦は、次の日から新たな生活が始まるというその夜、二人でワインを開け新たな人生の門出を静かに祝った。

「乾杯‥でいいのかな?」

遠藤の母親であるハルさんのことを思いつい躊躇ってしまう和範に、正代は力強く答える。

「乾杯でいいのよ。私達の為にも‥卓朗さん家族の為にも‥そして私達がこれから育てることになる、周君や未来の子供達の為にも‥」

「そう、そうだな‥」

頷く夫に、正代はオーナー夫婦の印象を早速尋ねた。

「ところで卓朗さん家族をどう思った?明るい家族でしょう?」

「確かに親の逞しさを見せつけられた気がしたな。豪快な人達だ。圧倒されたというか‥」

「それは内面的にも外面的にも‥?」

「そう‥失礼かとも思ったが‥」

思わず苦笑する和範‥つられて正代も笑顔を見せる。妻の存在‥そして励ましが、今の和範には何よりも頼もしかった 。そして翌日には早速、何よりも大切な里親としての最初の仕事が待っていた。名村の息子である周を里子として引き取るのだ。二人は、周君が暮らしている施設へ彼を引き取りに向かった。里親になる手続きは、正代が奔走し殆ど一人で済ませていた。和範達は、職員に案内されて周君に対面する。

「周君、元気だった?」

正代は何度も面会に来ていたので、対面時も緊張はなく対応も慣れたものだったが、周君に会うのが初めての和範には、当然のごとく緊張の連続だった。正代に促されて幼い子供に手を差し伸べたものの、恐怖の表情を見せ泣き声を上げる幼子を、和範は戸惑って見つめるしかなかった。するとそんな和範の不安を察したのか職員がおもむろに口を開く。

「心配しなくてもいいですよ。奥さんはよくご存知ですが、この子は特に大人の男性を怖がるんです。何ヵ月も共に暮らしている我々職員でさえ未だに怖がるんですから、初対面のあなたを怖がるのは仕方のないことなんです。」

「やはり‥虐待された後遺症ですか?」

こんなに幼い子供が既に誰にも癒せない程の傷を心に深く負っている。そう感じた和範は、自分を見て泣き出す子供に心を痛めると共に、今まで感じたことのない程の愛しさを募らせて尋ねた。

「そうよ。」

職員に変わって正代が即答する。母になったことのない彼女だが、まるで周君の母親であるかのような錯覚を和範が覚えるような雰囲気を持っていた。そして彼女の言葉は続く。

「ここに来た時かろうじて女性の職員には反応してくれたそうだけど、男性には全く駄目だったそうよ。多分父親からは暴力、母親は最初は自分を庇ってくれてたんだろうけど次第に庇ってくれなくなり、そのうち母親からも育児放棄という虐待を受けるようになっていったんでしょうね。あの子の目には、大人の男の人は自分に暴力を振るうだけの存在‥そんな風にしか映らなくなったんだと思うわ。ここ数日で私にもやっと心を開いてくれるようになったけど、それでもまだまだみたい。脅すつもりはないけど、道はなかなか険しいわよ。でも私達ならやれると思うわ。」

妻の冷静な言葉は、かえって和範の心に火をつける結果となった。

「大丈夫、僕も前しか向かない。何事にも逃げることなく真っ正面から向き合おうと心に誓ってる。仕事にも‥子育てにも‥」

「あなた‥」

周君との対面に戸惑いはあったが、和範の心には今までにない強い決意がみなぎっていた。和範は幼い子供を初めて見た時の自分の心情を、妻に余すところなく吐露する。

「周君に泣かれて困ったけど、自分でも驚く程この子が愛しく思えてね。昔君が子供を欲しがった時、子供なんて煩わしいだけどこが可愛いんだろうって思っていたあの頃とは大違いだ。今は、この子の為なら何でもしてあげたいし笑顔を取り戻してあげたい。本当に‥昔の僕とは大違いだね。」

「有り難う‥あなた‥」

思わず苦笑する夫を妻は優しく見つめた。確かに今の和範には、この先どんな困難が待ち構えていたとしてもそれを跳ね返して余りある強い信念があった。然し里親としてのスタートは、実は二人が考えていた程大変なものではなかったのである。

「子供は、子供同士が一番ってことか‥」

周君を連れて帰り長野の新居での新しい生活が始まってから一月近く経ち、正代に周君のことを頼み慣れない農作業に精を出していた和範は、佐伯夫婦の三人の子供達が周君を実の弟のように可愛がって面倒を見てくれているのを彼女から聞かされて、改めて強くそう感じた。家では里親ではあるが和範夫婦が精一杯の愛情で接し、近くにはいつも遊んでくれる優しいお兄ちゃんやお姉ちゃんがいる。オープンしたペンションのスタッフも同様で、三人暮らしというより大所帯で生活しみんなで子供達を育てながら暮らしているという感じだった。和範はペンション所有の畑でオーナー夫婦や他のスタッフと共に、特に無農薬の野菜作りを手掛け更にスタッフとしてペンションの接客業もこなす。仕事には慣れたもののさすがに最初の数日間は慣れない畑仕事で体が痛くなり、湿布が手離せなくなったものだった。だがその時期も過ぎると次第に体も慣れてきて、畑仕事もペンションでの接客業もそつなくこなすことが出来るようになってきた。とはいっても無農薬で野菜を作るというのはなかなか難しいもので、他のスタッフと共に試行錯誤を重ねながら悪戦苦闘する毎日だった。そんな中でも周君が少しずつ和範にも懐いてくれるようになり、可愛らしい笑顔を和範夫婦や周囲の人々に見せてくれるようになったのは、彼にとって最も嬉しく癒されることだった。何よりも年が近い子供達がすぐ近くにいるというのが周君の心のリハビリに最適だったらしく、子供達と接しているうちに強張っていた表情も少しずつ緩み、子供らしい可愛い笑顔が少しずつ見られるようになったのだった。周君が笑顔を見せるようになって心からホッとしている正代は、それが自分達だけの力ではなくこの環境のなせるわざだということをしっかり自覚して、佐伯夫人に頭を下げるのだった。

「すみません、里親になるって決めたのは私達なのに子供のことではずっとお世話になりっぱなしで‥」

ひたすら恐縮する正代に、夫人は優しく答える。

「気にしないで、正代さん。子供はみんなで育てた方がいいの。みんなで面倒を見てみんなで可愛がってみんなで叱った方がいいのよ。昔は何処でもそうだったんだから‥今の社会は閉鎖的な家庭環境だから、色々問題も起こるんじゃないかって私は思ってるわ。まあ様々な事情もあるから一概には言えないかもしれないけどね。」

「そうですね‥」

近くで夫人の言葉を聞いていた和範は、みんなで育てるという彼女の言葉に正に子育ての真髄を見た思いがした。共同生活の中で培われる協調性や責任感など、ここは確かに大切な事を教える場所としては最適な空間なのだ。和範はここで里親としてずっと頑張っていこうと改めて心に堅く誓うのだった。周君は、最近やっと和範や他の大人の男性にも泣かずに抱かれるようになってきていた。初めて周君を抱いた時、涙を堪えながら腕の中で自分を見つめる幼い瞳‥そして胸の上で息づく幼い命を和範はたとえようもなくいとおしいと感じた。それは彼が今まで一度も味わったことのなかった不思議な感情‥多分これが親心というものなのだろう。と同時に、同じ命を自分は何年も何十年も軽く考えてきたのだというその現実が、今更ながら身にしみて重く感じられて和範は自分の罪深さを改めて思い知るのだった。

(謝るしかない、何年かかっても‥ハルさんが許してくれるその日まで‥)

和範はしっかり覚悟を決め、新しい生活の中で毎日汗水流して頑張るのだった。畑で農作物を作りながらペンションのスタッフとしても働き、周君をはじめ恵まれない子供達の里親となって子供達を幸せな環境の元で育てていく。ハルさんの所には年に数回目の回るような忙しさの中何とか時間を作っては訪ねて行ったが、やはり会ってはもらえなかった。他のスタッフに迷惑をかけるわけにはいかないのでしょっちゅう出掛けることは出来なかったが、それでもオーナー夫婦には事情を話しているのでハルさんの元には足しげく通った。居留守を使われたり本当に出掛けていたり会えない理由はどちらかだったが、それでもハルさんらしき女性を外で何度か見かけたことがある。和範は思い切って声をかけたが、そのハルさんではないかと思える人物は何も答えずに彼の前から去った。だがそれでも和範は焦ることなく、黙々と彼女の所に通い続け時には自分で作った農作物を家の玄関にそっと置いて帰ったりもしていた。

そんな生活が続き、和範夫婦が長野へ移住して一年ちょっと過ぎた頃だった。周君の父親である名村が刑期を終え出所した。名村の弁護士である田尻から予め出所の日時は知らされていたのだが、和範は喜ぶべきことと歓迎する一方、複雑な気持ちになるのをどうすることも出来なかった。やっとここでの生活にも慣れて笑顔を取り戻してくれた周君が、今父親の顔を見たら昔の記憶が蘇ってしまうのではないか‥辛い思いをするのではないか‥正しく現在の周君の父親そのものである和範はついそう考えてしまい、不安な気持ちになるのをどうすることも出来なかった。だが妻の正代は、そんな不安がる夫を叱りつけるようにしっかり声をかける。

「そんなことじゃ駄目よ、あなた‥しっかりしなきゃ駄目。周君だけじゃない。私達は里親として、これから不幸な環境にある子供達を引き取って育てていくって決めたんじゃない。だったら名村君とこのような親子の対面は、多分これから何度も目にしていくことなのよ。修羅場だって目にすることになるかもしれない。でも親子がうまく暮らしていけるようにしっかりサポートしていくのが、里親である私達の役目なの。わかるわね?」

「うん、わかってる‥わかってるけど‥」

口ごもる和範に、正代は今度は少し口調を緩めて優しく続けた。

「あなたが不安がるのも無理ないと思うわ。あなたがどれだけ周のことを思っているか‥今のあなたは本当に周の父親だもの。でも私は、今の名村君のことも信じるべきだと思うの。」

「名村のことを‥?」

「ええ、聞いたわよ。田尻さんが太鼓判を押してたじゃない。名村君は心を入れ替えて出てくる、絶対に大丈夫だって‥これからは周の父親としてしっかり頑張って生きていくって、そう約束してくれたって‥」

「うん、そうだな‥」

正代の言うことは最もだった。和範も名村を信じようと思った。然しいざ名村が出所して息子である周君に会いに来る日が近づくと、思いがけない事態が和範夫婦を待っていた。それは実は和範自信のふとした働きかけによるものであったが、夫婦に喜ぶべき結果をもたらしてくれたのだった。

妻には勿論親族にも見放されていた名村が、いくら本人がやる気を出したとしても、幼い息子を抱えて一からやり直すのはそう容易なことではなかった。和範から彼が新しくオープンするペンションのスタッフとして働くことを聞かされていた田尻は、名村が出所する時期に合わせて独断でオーナーである佐伯夫婦に手紙を書き、周の父親をペンションで働かせてくれないかと頼み込んだのである。田尻がそういう行動をとった背景には、実は名村がもし一からやり直す為に頑張って働く気持ちがあるのならここでもいいのではないかという、そんな和範の一言があったからだった。田尻の手紙を読んだ佐伯夫婦は、面接を兼ねて直接名村と手紙のやり取りをし、決して楽な仕事ではないが精一杯頑張る気持ちがあるのならそこを出た後長野へ来るようにと告げた。その手紙を読んだ名村は勿論一から頑張ってやり直すことを誓い、オーナー夫婦の快諾を得たのだった。その経緯を田尻から聞いた和範は、意外な事の成り行きに驚いたがそれでも名村の気持ちに些かの迷いもないことをオーナー夫婦に進言した。かくして名村は、和範と同じようにペンションのスタッフとして畑仕事にも従事して働きながら、長野で息子と共に暮らすことになったのである。

(これで周と別れずに済む‥あの子の側にいてあの子の成長を見守っていられる。)

名村が自分達と共に働くことになったのを知った和範は、驚くよりもこれで周と離れずに済んだことの方が嬉しくホッとしたというのが本心だった。

「本当にいいんですか?僕達だけじゃなく名村までお世話になって‥」

名村がいよいよ長野へ来るという前日、和範はオーナーの佐伯氏を訪ね頭を下げて尋ねた。すると気さくなオーナーは明るい声で答える。だがその言葉には優しさだけでなく、当然厳しさも含まれていた。

「いいよ、彼の意欲は十分感じたから。でも勿論頑張るのは最低条件、仕事の上では甘えは許さない。頑張らなかったら容赦なく追い出すからね。勿論お父さんだけだけど‥」

「大丈夫です。名村からは今まで手紙が何通も来てるけど、どれも周と早く一緒にやり直したいやり直すんだという気概に満ち溢れたものばかりでした。彼は必ず立ち直ってくれます。ここで‥父親としても‥」

「ああ、期待してるよ‥君にも‥名村君にも‥」

口では厳しいことを言いながらも、佐伯氏の和範を見つめる眼差しは、どこまでも温かく優しさに溢れたものだった。

そして翌日、出所したその足で長野へやって来た名村と周の久々の親子の対面は、皆が案じた通り周の大泣きによって一分ともたなかった。泣きながら正代の腕にしがみつき離れようとしない息子を、戸惑いつつ見つめる名村の様子には、それでも以前と違う父親としての決意が感じられ和範は二人が親子の絆を取り戻すことは出来るし、その日はそう遠くないだろうと確信したのだった。

名村は暫くペンションに住み込みという形で働き、周はこれまで通り和範夫婦の自宅とペンションを行き来しながら暮らすという形になったが、そのうち周が父親に慣れてもう大丈夫だと思えるようになったら、父親と共に二人で家を借りて暮らすことになるだろう。その日は必ず来る。和範は思った。大丈夫、このペンションで働くみんなが一つのファミリーなのだ。そして名村もそのファミリーの一員となる。働き始めた名村の頑張りは素晴らしく、和範も正代も名村親子についてはもうそんなに心配する必要はないだろうと、そう思えるようになっていた。だが、初めての子育ての余韻に浸っている時間は二人にはなかった。和範達には、周君はいるものの次の子供を預かってくれないかという依頼がきていたのである。正代は和範の了解を得ると承諾の返事をした。そして五歳になる女の子を預かることになった。何でも聞けば今度は家業の倒産で一家離散し、両親は幼い一人娘を残して共に行方不明だという。面倒を見るつもりの母方の祖父母は、今祖父が入院していてどうしても孫を引き取れない状況にあった。それで同じ長野県内で里親として登録している和範夫婦の元へ、祖父母が孫の面倒を見れるようになるまで預かってくれないかという依頼がきたのである。

「女の子か‥周が男で今度は女の子‥両親の行方はやっぱりわからないの‥?」

「ええ‥」

「まさか、自殺ってことは‥?」

「それはないと思うわ。担当の職員の方から聞いたけど、結構若い今時の親御さんでね、そこまで深刻に考えている風でもなかったようなことを言ってたわ。結局何もかも捨ててやり直したかったんじゃないかって、そういう人もいたそうよ。」

「子供まで捨てて‥?」

「わからないけどこれ以上は私達が考えることじゃないわ。今私達がやるべきことは、これから預かる女の子を最高の環境で育てることよ!」

「うん、そうだね‥その通りだね‥」

妻の言葉に強く頷く和範‥二人は里親としての自覚に芽生え、誰よりもしっかりした親らしい親にいつの間にか成長していたのである。そして明日はその女の子がやって来るという前日の夜、思いがけなく名村が和範宅へやって来た。和範は不意に訪ねて来た名村に驚いたが、久々に酒を酌み交わしながら言葉を交わした。彼と話すのは彼が初めてここにやって来た時以来で、その時は歓迎会を兼ねてスタッフみんなでお酒は飲んだのだが、二人だけで酒を酌み交わすのは初めてだった。

「おう、どうした?」

思いがけない名村の来訪に驚く和範‥すると名村はビール数本を手にして、少し照れながら口を開いた。

「いや、明日は遅番の仕事でそう早く起きなくていいもんだから、今夜は原田君と飲みたくて‥迷惑かな?」

遠慮がちに口を開く名村に、和範は相手を包み込むような大きな声で優しく答える。

「原田君か‥呼び捨てでいいよ。今は一緒に働いている仲間だし、君は何より可愛い周の父親だ。僕も今まで通り呼び捨てでいくから、君もそうしてくれ。」

「わかった‥」

「さあさあ、そうと決まったら飲もう。僕も君と話したい‥」

和範の言葉に静かに笑みを浮かべる名村‥そして二人は、少しのつまみとビール瓶とコップをテーブルに置くと名村がおもむろに口を開いた。

「周のことについては、本当に感謝している。あの子が子供らしい笑顔を見せられるようになったのも、みんな君達やここのスタッフの方々のお陰だ。その上、前科者である僕まで受け入れてくれた。みんなにも戸惑いがあっただろうに‥」

「いや、みんな汗を流して働く人間に白い目を向けるようなそういう連中じゃない。君のことをしっかり受け入れてくれてるよ。」

「有り難う、そのうちに二人で住むようになると思うが、それでも周は僕だけの子じゃない、君や正代さんの子でもあり、ここのスタッフ全員の子なんだとあの子の姿を見てそう痛感したよ。」

名村のしみじみとした言葉に和範も頷き口を開く。

「そうだよ。何せ周は僕達が里親になる切っ掛けになった子だし、里親になって初めて面倒を見た子だ。だが実際は僕達だけで育てたんじゃない。みんなで面倒を見てみんなで育ててきた子だ。そして今度来ることになった子もその後面倒を見ることになる子も、みんなここのペンションで育ったスタッフみんなの子になるんだ。」

和範の言葉に、名村は頷きながら感心したように答える。

「みんなの子か‥子供の成長にとっては、確かにここは最適な環境といえるのかもしれないな。それにしても君も変わったなあ‥あのいつも颯爽としていたエリートが、今や汗にまみれて毎日土と格闘しているなんて‥」

名村の言葉に和範は思わず苦笑し、そして穏やかに答えるのだった。

「大部慣れたよ、そしてあの頃より随分逞しくなった‥」

「オーナーが君のこと誉めてたよ、さすがに頭がいいって‥経営のノウハウも知ってるから、随分助かってるって。無農薬野菜を作ることについても、かなり勉強してるそうじゃないか‥」

「いや、農業については僕はまだまだ素人だよ。」

謙遜する和範に、名村は今度は真剣な表情で問い掛けた。

「こんなこと訊くべきじゃないかもしれないけど、後悔は‥してないのかい?」

「えっ‥?」

不意に思いがけないことを訊かれて、和範は名村を見る。すると名村は、何ともいえない複雑な表情で話を続けた。

「遠藤が亡くなったのはショックだったけど、君が直接彼を閉じ込めた訳じゃない。責められるべきは、閉じ込めた張本人である僕達だ。だのにその‥償いの為に仕事を辞め、出世まで棒に振って人生をやり直すなんて‥ストレートに訊くけど後悔はしてないの?」

「していない。」

和範は名村の問いを、即座にきっぱり否定した。今の和範に迷いなどある筈もなかった。そして彼は、しっかりした口調で続ける。

「僕は、今のこの生活に十分満足してるよ。朝起きてからお日さまの下で汗だくになって働き、夜は晩酌を楽しみつつ家族と寛いで、休みには子供や仲間達と大自然を大いに満喫して過ごす。自分はこの上ない幸せ者だと思えてね。ただ遠藤君の母親であるハルさんには、まだ会えてない。償いは終わった訳ではないんだ。」

「ハルさん‥遠藤君の母親はハルさんていうのか‥彼の遺族に君はまだ会いに行ってるんだ。」

和範が遠藤の遺族に謝罪するために相手の家に通っていることを知り、名村の表情にはやはり戸惑いの色が浮かんだ。それはそうだろう、名村達悪がき四人組が遠藤を閉じ込めた張本人なのだから‥すぐに鍵を開けたが、不運が重なり彼は結果的に亡くなってしまった。その事が切っ掛けで彼は精神的に不安定になり、道を踏み外してしまったといえる。名村が精神的に完全に立ち直れているのか不安がある以上触れてはいけない話題かもしれなかったが、それでも和範は敢えて話を続けた。

「ハルさんの家には、年に数回自分で作った野菜を持って行ってるがなかなか会ってくれない。でも、それは仕方のないことだと思ってる。ハルさんが息子の死を受け入れられるようになるまで、十数年もかかったそうだ。だから彼女が僕の謝罪を受け入れ会ってくれるようになるまで、同じくらい時間がかかるのは当然のことだと思う。僕は、ハルさんが許してくれるまで決して諦めない。僕は僕の信じる道を歩こうと思う。実際そうしてる。ハルさん対しても仕事についても、里親としてこれから預かることになる子供達に対しても、責任を持って行動するつもりだ。」

和範の決意を聞いて、名村は複雑な表情を見せた。

「立派だよ、君は‥でも僕は‥僕はどうすればいいんだろう?」

名村は自分の取るべき道に迷い、堪らなくなったのか思わず和範に問い掛ける。然し和範は動じることなくそんな名村に対し自分の思いをしっかり口にするのだった。

「僕と同じようにハルさんに謝罪すべきだと思ったら、僕と同じようにハルさんの所へ時間を作って通うしかないよ。それは誰でもない、君が決めることだ。」

「うん‥」

まだ戸惑いの色が消えない名村に、和範は更に諭すように続ける。

「周の父親として新たな気持ちでやり直すと決めたのなら、君自信がしっかり考え自分で判断し、そして成すべきことを成す。大事なのは君が君の人生を悔いのないように誠実に歩くことだ。僕はそう思うしそれしか言えない。」

和範の助言に名村は暫く考え込んでいたが、やがてゆっくり頷いた。

「決めた!僕も行くよ、謝りに‥今は仕事を覚えるのに精一杯で余裕がないけど、そのうちに時間を作って君に住所を教えてもらって‥」

「ああ、わかった。」

名村の言葉に安堵して頷く和範に名村は笑顔を見せると、遠藤に対する思いを静かに口にした。それは当時エリートで名村達の立場とは程遠かった和範にとっては少し意外なものだった。

「僕は遠藤をどうして僕達がいじめたのか、ずっと考えていた。君が警察に来て、僕が立ち直る切っ掛けを与えてくれてからずっとね。僕達は大人しくてあまりみんなの中に入っていけないあいつに、或いはジレンマを覚えていたのかもしれない。」

「ジレンマ‥?」

「ああ、あいつは俺達落ちこぼれと違ってもっとみんなの中に入って楽しくやれる人間の筈なのに、どうしてあそこまで大人しくて鈍いんだって‥いじめといて今更何をと思うかもしれないけど、僕達はそんなあいつに何というか‥別の意味で苛立ちを覚えていたのかもしれない。悔しかったら反抗してみろよ!俺達みたいな落ちこぼれじゃなかったら、やり返してみろよってね‥」

「そうなのか‥」

自分とは全く違ういじめた当事者としての感情‥和範はその頃の名村達の真意を聞かされて、驚きを禁じ得なかった。更に名村の話は続く。

「僕達は、あいつを死なせたというその現実から目を背けようとした。僕も‥他の三人も‥あの時遠藤を閉じ込めた事実を記憶から消し去ろうとしていた。でもその後の人生は決して幸せなものではなかった。周を怪我させて刑務所に入ってから、僕はやっと心の底からやり直したいと思ったんだ。先ずは周の心を取り戻すことが先決だ。そして仕事先に迷惑をかけないように、一生懸命働くこと。償いはどうしてもその後になってしまうが、今はひたすら頑張るしかない。頑張るよ。」

その言葉を聞いて優しく頷く和範に、名村は笑顔を見せた。

(それでこそ周の父親だ‥)

彼の笑顔を見ながら、今はすっかり明るさを取り戻し外見上は普通の子供と殆ど変わらなくなった周と、今自分の前にいる名村を思いこの親子の未来に幸多かれと祈らずにはおれない和範だった。

それから一年近く過ぎ、和範夫婦は周君の次に預かった幼い女の子光希ちゃんと三人で暮らしていた。周はやっと父親と二人で暮らせるようになったが、それでもしょっちゅう和範宅やペンションを行き来して過ごしておりペンションで働くスタッフ全員が一つのファミリーのような共同体で、周やオーナー夫婦の子供達はその中ですくすくと成長していた。和範は周とは異なるおませで活発な光希ちゃんとの生活にも慣れ、益々活気がみなぎる充実した毎日を送っていた。そしてそんな和範に、待ちに待ったその日がやっと訪れたのだった。

その日、和範は久し振りにハルさん宅を訪れていた。三月の下旬とはいえ春はまだ遠く、和範は例年になく寒さが厳しかったその年珍しく三月に入ってから風邪をひいてしまい、三日程寝込んでしまっていた。やっと起きれるようになった彼は、たまっていた仕事を済ませた後手作りの野菜を持って、久し振りにハルさん宅へ向かった。いつもと同じように玄関先に野菜を置いて帰ることになるだろうとそう思っていた和範だが、その日は違った。誰もいない筈の玄関先に白髪の婦人が立っているのを見て、彼は思わずはっとした。

(ハルさんだ‥)

ハルさんに会うのは初めてだったが、その女性がハルさん本人だということは和範にもすぐにわかった。遠藤を彷彿させるような優しそうな面差し‥彼女は玄関先に立って、穏やかな表情で和範が来るのを待っていてくれたのだった。ただただ驚き呆然と佇んでいる和範に、ハルさんは優しく声をかける。

「今日あなたが来るのは、何となくだけど私にはわかっていた。だからはっきり言おうと思ってたの。あなたは、もう十分償ってる‥私はもう既にあなたを許してるって‥」

一言一言区切るようにはっきり口にするその初老の婦人の表情は、どこまでも穏やかで優しさに満ち溢れていた。

「あっ‥」

何か言おうとしても言葉にならない。言葉の代わりに、和範の目にはただ涙が溢れる。そんな和範に、ハルさんは優しく言葉を続けるのだった。

「私は前々から、あなたのことをもっと知りたいと思っていた。あなたが同じ長野に住んでいるのを知って、どんな暮らしをしているのか‥最近はあなたのことばかり思っていた。それでも会う勇気がなかった。あなたに会えば嫌でも佳人のことを思い出してしまう‥それが怖かった。でも佳人が言ってるような気がしたの、母さん、会うべきだよと‥それでも迷った。すると崎本さんがそんな私の気持ちを察してね、あなたの様子を見に行ってくれたのよ。そして私に教えてくれた。今のあなたがどれだけ人として誠実に生きているか‥一生懸命働きながら、里親として恵まれない子供を引き取って育てているそうね。立派だと思う‥素晴らしい生き方をしていると思う‥佳人だってきっと今のあなたを許してくれてるわ。だから夢の中で私に会うべきだと言ったのよ。そして息子も今のあなたの姿に満足し、きっと応援してくれてると思うわ。だからお願いよ、これからは自分の為に‥そしてあなたが守るべきものの為だけに生きて‥あなたはもう償ったわ、償いは終わったのよ。私はもうあなたを許してる‥許してるんだから‥」

ハルさんの優しさに溢れた言葉を耳にして和範は何か言わなければと思うのだが、涙で言葉が出ない。思わずひざまずいた和範の頭を、ハルさんは包み込むように優しく抱き寄せるとただ静かに頷いてみせた。するとその時不思議なことが起きた。和範はまるで母親の胎内にいるような錯覚を覚え、同時に間違いなく生まれたばかりの赤ん坊の泣き声を耳にしたのである。それは一瞬だったが確かに聞こえた。

(自分は‥本当に許された‥これは‥生まれ変わることが出来たということなのか‥?)

和範は、やっと会うことが出来て尚且つ自分を許すと言ってくれたハルさんの腕の中で、言葉もなく感涙に咽びながら、或いはあの声は再出発する自分への遠藤や浪川先生からの祝福の意味を込めたメッセージではなかったかと、そんな風にも考えていた。それはあらゆる意味で、人としてしっかり生きていくようにとの厳しさと優しさを込めたあの世からの伝言‥

「考え過ぎかな‥?」

ハルさんとの涙の対面を果たし、彼女の思い通りこれからは自分が守るべき者の為に生きていくことを彼女に誓って帰宅した和範は、正代にハルに抱かれた時耳にした赤ん坊の泣き声について、自分が思ったことを口にした後思わず苦笑した。だが妻は夫の言葉に首を振り、涙ぐみながらもその声が間違いなく和範の再出発を祝福するあの世からの声だと力説するのだった。

「ううん考え過ぎじゃないわ、あなたの感じた通りだと思う。あなたはハルさんだけじゃなく、遠藤君からも浪川先生からも許してもらえたということなのよ、きっと‥」

正代は夫の言葉に静かにそう答えた。今日の出来事を夫から聞いて、最後のその不思議な体験について正代は、それが亡くなった二人からのメッセージだと信じて疑わない様子だった。希望的観測だと言われるかもしれない。でも、それはそれで構わないと和範は思った。ハルさんに許してもらえて、新しく生まれ変わることが本当に出来たのだ。

「ハルさんに感謝して、そして生きているからこそ味わえるあらゆる出来事にこれからしっかり向き合って、頑張って生きていこう!そして幸せになろうね、幸せになるぞ!」

「なるぞ!」

ふと気が付けば、拳を振り上げる和範の傍らで、幼い光希ちゃんが同じような動作をしている。その可愛らしい仕草に夫婦共に吹き出しながら和範は今、生きる喜びをこれ以上ない程強く感じていた。そして‥ふと両親のことが頭に浮かぶ。今こそ会いに行こう!かつて誓った通りすっかり日焼けして逞しくなった姿でとてつもない笑顔を見せに行こう!自分が今、この上なく幸せだとそう両親に伝えて安心させてやろうと、今和範は心からそう思うのだった。(了)

この小説は私が数年前に書いたもので、なかなか日の目を見なかった作品ですが、やっと人様に読んでもらえる機会が出来て喜んでおります。作品自体は私の創作でフィクションですが、主人公についてはモデルになる人物がいました。いましたと過去形なのは、彼が病気で亡くなってからもう数十年になるからです。子供の頃いじめられっ子だった私は、毎日学校に泣かされに行くようなものでしたが、中でも特に嫌だったのが彼の表に出ない陰湿ないじめでした。彼はこの作品の主人公の中学時代と同様で、非の打ち所のないハンサムで勉強も出来て誰からも信頼される生徒でしたが、陰では私のようないじめられっ子や気の弱い小心者に表に出ない形で嫌がらせを繰り返していました。それはたとえ私が勇気を出して訴えても言い訳の出来る嫌がらせといったもので、私はすっかり人間不信になりその後ハンサムな人には必ず警戒心を抱くようになった程です。中学に上がる時彼は当然のように皆と同じ学校には進まず、他の進学校に進みましたが別れの挨拶を何事もなかったかのように私に言った時、私はこれでやっとこの人の嫌がらせを受けずに済むとその事にただほっとしたのを覚えています。そして何十年も経ったその後、小学校の同窓会の時私は思いもよらない事実を知らされました。彼のことは忘れてはいませんでしたが、彼の名前は忘れていました。同窓会で故人となった二人の名前を幹事の人が上げ皆で黙祷したのですが、その一人が彼でした。名前すら忘れていた私は、もしやと思い彼の死の経緯を他の出席者にそれとなく尋ねてみたのですが、聞けば彼は高校二年生の時病気で亡くなったとのこと、そんな事実など露程も知らなかった私は驚くばかりで複雑な心境でした。私はただの平凡な主婦で偉そうなことを言える立場ではありません。ただ上から目線ではなくて冷静な目で言わせてもらえば、彼は私にしてきたことをその後も続けていたかもしれない。だとすれば、彼は体より先に心の方が壊れてしまっていたのではないかとそう思うのです。こういう経験をしたからこそ私はこの小説を書こうと思ったし書けたのだと思います。本音を言えば、私は現実の世界でも彼に立ち直って欲しかった。私はこの小説で良心の大切さ、そして人を傷つけることが絶対に許されないことを伝えたかった‥今いじめをしている人にいじめを止めて欲しかったのです。

山あり谷あり波乱含みの人生でしたが、五十代後半になった今私はとても幸せに暮らしています。この作品でいじめについて人生について色々思いを新たにされたら幸いです。最後まで読んで頂いて有り難うございました。

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