転機
そして浪川先生の夫に手紙を出し、色々手を尽くして遠藤の母親の消息を捜している最中のことだった。和範はある朝いつものように目を通している新聞記事の中に、思いがけずあの悪がき達の中の一人の名前を見つけ愕然としたのである。(名村太一‥名村太一‥この名前は確か‥)忘れもしない。確かに悪がき達の中の一人の名前だ。見ると彼は、わが子を虐待して妻と共に逮捕されたとその記事は伝えている。驚いた和範が正代にその記事を見せると、正代も驚いて息を飲んだ。
「名村君って確か当時の不良グループの中の一人なんでしょう?遠藤君を閉じ込めた中の一人ってこと?子供を虐待して奥さんと共に逮捕されたって、まあ何てこと…]
[記事には、三歳の長男を虐待して重傷を負わせたとあるが…]
[三歳って可愛い盛りじゃない、ひどいことするのね。でも一体何があったのかしら。]
[彼が僕達の知っている名村だったら…]
[気になるんでしょう?]
[ならないって言ったら嘘になるだろうな。ううん…よし、決めた!彼に会えるかどうかわからないが、とにかく彼の所へ行ってみよう!]
和範の突然の言葉に、正代はびっくりして振り返った。
[いきなり何を…?名村君に会いに行ってどうするつもり?第一会える訳ないでしょう?逮捕されて拘留されてるのよ。]
妻の最もな指摘だったが、和範はそれでも会いに行きたいと思い落ち着いた口調で答えた。
[うん、それはわかってる。でも何とか…僕は、彼が僕と同じように過去の過ちで苦しんでいるんじゃないか…そう思えてならないんだ。もしそうなら、僕は今の気持ちを洗いざらい彼に話した上で、彼の力になりたい。勿論子供を虐待した罪は、親としてしっかり償うべきだ。僕はその点では彼を擁護するつもりはない。ただ、彼が遠藤君のことで心に迷いがあるなら、僕の過ちをそして今の僕の思いを話し、彼と共に償いたい。他の三人のことも気になるけどね。]
[あなた…]
何ともいえない表情を見せる妻に、和範は力強い笑みを見せ言葉を続けた。
[会えるかどうかわからないけど、一応行ってみる。当たって砕けろってところかな…君は田舎で野菜を作って暮らす…大自然の中で自給自足しながら暮らしたいというのが夢だったよね、勿論それはそれで大変だろうけど、君は君自身の夢を実現させるために頑張ればいい。その夢の為にも僕はしっかり頑張る。約束するよ。]
[私の夢を応援してくれるの?]
[ああ、だがその夢の実現にはまだまだ時間はかかるだろうけどな。]
[わかったわ、あなた…]
夫の強い決意に満ちた言葉を聞き、正代は最初は不安げな表情を見せたものの、やがて優しく頷いて夫を送り出してくれたのだった。
[気をつけてね。」
その日の午後外出の支度を整えた夫に静かにそれだけ言うと、正代は何ともいえない味わい深い表情を見せてくれた。勿論名村に会える見込みなど皆無に等しいことは二人ともわかっている。それでも送り出してくれた妻の為にも、和範は何とか結果を出したいと願わずにはいられなかった。(ごめんな…)その表情には妻の様々な思いが含まれることを痛い程感じ取った和範だが、今はただそんな正代に心の中で詫びるしか出来なかった。そして和範は、その足で名村が拘留されている所轄署へと向かった。勿論名村が起こした事件と今の和範とは無関係で、和範が彼に会える確率は殆どなかった。然し、彼がもし苦しんでいるのなら少しでも力になりたい。自分と同じように良心の呵責に苛まされているかもしれないのだ。そんな言い知れぬ思いに突き動かされるように、和範は遙々足を運んだのだった。だが目的地に着いてみると、さすがにどのような形で接触すればいいのか和範にとってそれは当然戸惑うものだった。学生時代のクラスメートで心配して来たといっても、逮捕されている彼に簡単に会える筈などない。それはわかりきったことだった。和範は入り口でどうすべきか暫く考えあぐねていたが、幸か不幸かその時、和範は思いがけず名村の母親に接触することが出来たのである。それは警察署の玄関口近くで心労の為に倒れてしまった彼女を、偶然和範が介抱し救急車で運ばれる彼女に付き添うという、劇的な関わり方をしたことによるものだった。その初老の婦人は覚束ない足取りで建物から出てくると、わずか数段の階段をゆっくり時間をかけて降り始めた。何ということなしに彼女に目がいった和範は、何か呆然として虚ろな目をしているその表情に危なっかしいものを感じて、彼女から目を離すことが出来なくなった。すると和範の不安は的中し、彼女は階段を降りたと同時にその場に崩れるように倒れてしまったのである。
「どうしました?大丈夫ですか?」
慌てて和範が駆け寄ると、その女性はうっすらと目を開けた。意識はあるようだが、ぐったりして起き上がろうとしない。どうやら起き上がる気力もないようだ。近くにいた警察官が異変に気付きすぐに救急車を呼んでくれたので、和範はその警察官と言葉を交わすことが出来たのだが、その時偶然彼はその女性が逮捕された名村の母親だと知ったのである。警官の話では、息子夫婦が逮捕されて慌てて警察署へ来たものの結局息子には会えず、病院の孫の所へ行こうとしたが体調が悪く倒れてしまったらしいのだ。
[どうしたものかな…一人で来たらしいし、誰に連絡すればいいのか…]
困っている警官を見て、和範は自分が名村の同級生であり記事を見て心配してここまで来たこと、そして名村の母親の様子が気になるので、自分が救急車に同乗して病院まで付き添い、彼女の親族が来るまで面倒を見ようと思うとそう警官に告げた。するとその警官は、感心して頭を下げながら和範のことを誉めちぎるのだった。
[原田さんって仰るんですね。それにしても…中学時代の同級生だったってことでそこまで心配されるとは…あなたって本当にお優しい方なんですね。それではお頼みします。お手数ですが…]
[いえ、それであいつはどんな様子なんですか?名村は…]
警官が教えてくれるかわからなかったが、和範は少しでも名村の様子が知りたくて口を開いた。すると警官は、家族関で起きたこのデリケートな事件について人間味溢れる言葉で答えてくれたのだった。
[うっううん、大部参っているようです。反省している様子ですよ。でも、子供にあんな暴力を振るうような親には見えないんだけどな。大人しそうな優しそうなお父さんだって近所の人も言ってましたし…お母さんも普通の親御さんですしね、一体全体何故あんな真似をしたのかな…?]
[会いたいんですが駄目ですか?]
[それは私の判断では…まあとにかく、反省してもう二度としないと誓ってくれれば…本当に立ち直ってくれればいいのですが…]
無論名村との面会が叶う筈はなく、それだけ言うと彼は救急車を誘導するために表に出向いていった。憔悴しきったその女性と共に生まれて初めて救急車に乗った和範は、慌ただしく対応する救急隊員の近くで落ち着かない時間を過ごしたが、やがて車が病院に到着し名村の母親が診察を終え病室に運ばれると、やっと落ち着くことが出来た。名村の母の病状は心労からくる疲れによるものだろうということだったが、和範は彼女の親族ではないので、彼に対してはそれくらいの簡単な説明しかなかった。それでも彼は、急を聞いて駆けつけた名村の母親の妹から、彼女が心臓に重い持病を持っており、あまり無理の出来ない体だということを後で知らされたのである。
[太一の同級生だった方だそうで、心配して来て下さった上に姉の介抱までして頂いて…本当に何とお礼を申し上げればいいのか…有り難うございました。]
病院まで付き添ってくれた和範に対してひたすら恐縮するその女性は、その反面ベッドに横になる姉を見つめながら、甥夫婦に対する苛立ちを隠そうとしなかった。
[病気の姉にこんな思いをさせて、本音を言えば私はあの子達には相当頭にきてるんです。姉夫婦は、あの子を幼い頃から手塩にかけて懸命に育てたのに…何故あんな風になってしまったのか…確かに姉は体が弱くて入退院を繰り返しましたが、それでも子供達には淋しい思いはさせたくないと本当に頑張ってきたんです。それなのに…私は近くでそんな姉をずっと見てきました。それだけに太一のことが余計許せなくて…]
彼女のこんな事件を起こしてしまった名村に対する怒りは相当大きいようだったが、和範は和範で同じ加害者として名村に接しようとしていただけに思いは複雑だった。
[あの…それで…]
赤の他人である自分が聞くことではないと思ったが、それでも和範は敢えて口を開いた。
[お母さんは…これから…?]
[あっああ…状態が落ち着いたらこのまま入院先の病院まで運んでもらうことになると思います。]
[入院…?お母さん入院してらしたんですか?]
びっくりして和範が尋ねると、女性は溜め息をつきながら静かに頷いた。
[外出願いは出してたらしいんですが、それが受理される前に入院していた病院を抜け出してここに来たらしいんです。本当に無茶なことをします。事件のことは姉には知らせないようにしてたんですけど、テレビや新聞を見せないようには出来なくて…多分そちらの方で知ったんでしょうね。それでも私は、あの子のことは私に任せて今は自分の体のことだけ考えるようにと、口を酸っぱくして姉に言い聞かせてきたんですが…やっぱり親ですね。]
女性はそう語ると、改めて深い溜め息をつくのだった。和範は迷ったものの、思い切ってもう一人の親について切り出した。
[あの…ところで…名村君のお父さんはどうされてるんですか?]
[あっ…]和範の問いに名村の叔母にあたるその女性は、言葉を詰まらせひどく困惑した様子で声を落として語りだした。
[お恥ずかしい話です。姉の連れ合いは女をつくって家を出ていってしまいました。太一が結婚する頃には何かうまくいってなかったようですが、それでも太一が結婚するまではと…]
[太一君が結婚してから二人は離婚されたんですか?]
[ええ、思えば体の弱い姉との夫婦生活で、あの人も相当無理してたのかもしれません。それでも子供達の為に表面上は仲むつまじい夫婦を装っていたのか…でもやったことは許せません、義兄だと思っていた自分に腹が立ちます。太一には嫁いだ姉がおりますので、その姪が姉の面倒をよく見てくれていたのですが、さすがにこれ以上迷惑はかけられません。だから今は、私が姉を入院させて面倒を見てるんです。姪は太一のことをずっと心配してました。姪の話では、会社では左遷され奥さんともうまくいかず、折角生まれた一粒種の周ちゃんにも近頃は手を上げていたとか…]
[そんなに生活が荒れていたのですか?]
[はい。でも私は今度のことで、太一は見限りました。姪にも、もう太一のことには関わらないように強く言ってあります。自分のこと…今の自分の家庭を大切にするようにと…とにかく姉のことは、私がしっかり面倒を見ようと思ってます。気楽な独り身ですしね。ですが甥に対しては、しっかり罪を償って反省して出直して欲しい。それだけです。手を差し伸べるつもりは全くありませんので…]
その女性のきっぱりとした口調には、もう甥のことには一切関わらないという堅い決意が表れていた。和範は頭を下げ、姉の病室へ向かう彼女の後ろ姿を為すすべもなくただ見守るしかなかった。彼女と別れた後、和範はひとまず名村が拘留されている警察署へと戻った。自分がこの後どうすればいいか思い悩んだ彼だが、取り敢えずここに来れば何らかの方法で彼に会えるかもしれない。会えないまでも、彼の周辺の人物から何らかの手段で彼の今の様子についてもっと詳しい話を聞くことが出来るかもしれない。そんな期待もあって再びここに来たのだが、現実はそう甘くはなかった。当然のことだが、考え込んでいても誰も来ないし何も起こらない。警察署の前でうろうろしていたら、それこそ不審人物に間違えられる可能性だってある。名村に会おうと決心してここまで来たが、会える筈などやっぱりないのだ。自分は名村の、学生時代のクラスメートでしかないのだから…やっぱり帰ろう。和範が諦めて警察署を後にしようとした、まさにその時だった。一人の紳士がタクシーを降りて警察署へと向かった。見るとその人物のスーツの胸には、確かに弁護士
バッジが光っている。もしや…考える間もなく咄嗟に和範は、その弁護士と思しき初老の男性に思い切って声をかけていた。
[すみません、あなたはもしや…昨日逮捕された名村太一君の弁護士の方ではないのですか…?]
声をかけながら和範自身、自分の大胆な行動に驚いていたが、その人物は当然のことながらもっと驚いたようで、和範をまじまじと見つめながら半ば警戒しつつ頷くのだった。
[そうですが…あなたは…?]
[僕は名村の中学時代の同級生で原田和範といいます。新聞で名村が逮捕されたと知りました。それで彼のことが心配になり、会いたくて会って話をしたくて来たんです。]
会って話をしたい…それは今の和範の偽らざる本音だった。するとその初老の男性は警戒した表情をすぐに解き、笑顔になって口を開いた。
[名村さんのことを心配されて…それはどうも、恐縮です。あっでは、先程名村さんの叔母さんにお母さんが救急車で運ばれたと聞いたんですが、もしかして名村さんのお母さんに病院まで付き添われた親切な方というのは…?]
[僕です。]
[そうでしたか…]
その男性は和範の行動にいたく感激したようで、和範に深々と頭を下げて感謝の言葉を口にするのだった。[有り難うございます。奥さんの妹さんから話は聞いてます。本当のことを言えば、名村さんのことを心配される方はあまりいらっしゃらないのに、あなたのように奇特な方もいらっしゃるんですね。心配してわざわざ来てくれて、お母様のことまでお世話して頂くなんて…妹さんからお話を聞いて感心していたところです。]
[いいえ!]
和範は思わず、自分を誉めてくれる相手の言葉を強く遮っていた。和範の突然の反応に驚いた表情を見せるその紳士に、和範はあるがままの自分をさらけ出すように口を開いた。それは相手にとって思いも寄らない話となったが、それでも自分がここに来た訳を和範は包み隠さず話さなければならなかった。今の和範にとって、自分という人間が誉められることは苦痛でしかなかったのだ。
[僕は、あなたが仰るような奇特な人間ではありません。塀の中にいるかいないかの違いはありますが、僕も名村と同じ犯罪者なんです。それも…罪悪感すら感じてこなかった…]
[えっ…それは一体どういうことなんですか?]
和範の思いがけない告白を耳にして困惑した相手は、その意図を確認するように口を開いた。彼が混乱するのも無理からぬことだった。そして和範は田尻というその弁護士に、自分が過去に犯した過ちを話しそしてそれを償おうとして今を生きていることを伝えた。その上で遠藤の死の責任が彼の心に今も重圧となっているのではないか…遠藤の死について名村はずっと苦しんできたのではないか…事件を起こした彼の心の闇も、その事が関係しているのではないか…だとすると、自分にも何か出来ることがあるのではないか、一緒に償う道もあるだろうし、話すことによって力になりたい…とにかく彼の思いが知りたかった。そう考えてここまで訪ねて来たのだと、和範は今抱いている気持ちを田尻というその弁護士に有りの儘ぶちまけた。長くなったので駐車場の片隅にある小さなベンチに座って話をしたのだが、田尻はそれこそ真剣な表情で和範の話を身じろぎもせずに聞いてくれた。そして和範が話を終えると、彼は頷きながら静かに口を開いた。
[成る程…名村君のお母さんから、彼がずっと心に迷いや不安を抱いて生きてきたらしいことを直接お聞きしましたが、やはり中学時代の同級生の死にその原因があったのですね。彼自身はそのことには関与していないとずっと否定してきたらしいんですが、聞けばその生徒が亡くなった時に他の三人の友達と取り調べを受けたとか…彼等は閉じ込めたりしていないと警察には言ったそうですが、やはり閉じ込めていたのですね。結果的にその子は死んでしまった…凍死だったらしいですね。]
[ええ…]
[取り返しのつかないことが起きてしまったが、彼等が閉じ込めたという証拠はなく彼等が公に罰せられることはなかった…]
[その通りです。結局担任の先生が一人で責任をとる形で学校を去っていかれました。]
[でも、その子が閉じ込められていたことはあなたも知っていた…]
[そうです。知っていたのに黙っていました。彼を助けられたのに何もしなかった。僕は卑怯な人間です。僕も名村と同罪なんです。いや、彼よりもっと悪質かもしれない…]
和範の話を聞いていた田尻は、冷静な口調ながらしっかり和範を批判する言葉を口にした。
[そうですね、弁護士という職務を離れて人として意見を述べさせていただければ、私はあなたが仰ることは最もだと思います。]
田尻の抑揚のないその言葉は、事務的な口調だからこそ容赦なく和範の胸に突き刺さるものだった。和範は堪らなくなって訴えるように話を続けた。
[名村がもし良心の呵責でずっと苦しんでいたのなら、僕はそんな名村より最低の人間でしかない。罪の意識すら感じてこなかったんだから…だから僕は、名村に言ってやりたいんです。共に償おうと…世間ではエリートで通ってきた僕だけど、本当は今の君よりずっと最低の人間だったんだと…彼は僕がしたことを知ったらどう思うのか…当時の僕は、人の命より自分の体面を守ってた…しかし今は何と思われてもいい!新しく生まれ変わる為にも、犯した罪を絶対に償うつもりです。彼もそうあって欲しい!我が子を平気で傷つけるようなそんな人間であって欲しくない。絶望せずに何とか罪を償ってやり直して欲しい…今僕はそう言ってやりたいんです。心からそう思います。だから来ました。会える見込みもなかったんですけど…彼の弁護士であるあなたに話を聞いてもらえて良かった…今は本当にそう思ってます。]
[そう…ですか…]
和範の話を聞いていた田尻は、暫く考え込んでいたが、決心したように不意に顔を上げると何と名村との面接に和範が同席することを許してくれたのである。
[僕があなたと一緒に…?名村に会えるんですか?]
[会いたいんでしょう?会って今のご自分の思いを、余すところなく彼に伝えたいんでしょう?]
[えっええ…それは…]
[私が会わせてあげましょう。私と一緒なら彼に会えます。勿論二人っきりは無理ですが…]
[本当ですか?]
[私が先ず警察の方に事情を話します。あなたは彼の学生時代のクラスメートということで、私と共に会うことを許してもらいます。特別に許可を得ますので、多分警察の方も同席されるかと思います。だから先程の話は、警察の方も知るところとなりましょう。それでも構いませんね?]
[ええ、勿論…]
[戸惑いはあるかと思いますが、そこまで決心されてるんなら、彼に直接会って思いの丈を存分に彼に伝えるべきです。名村さんは今、確かに自暴自棄になっておられます。取り調べにもあまり積極的に応じようとはしてくれていません。だからあなたと会うことは、彼の態度が変わる切っ掛けになるかもしれない。それは警察も考慮してくれるのではないか…私が彼に話しますからとにかく、これからどんな風に罪を償っていくにしても、あなたがお会いになることで彼も変わってくれるのではないかと私も考え期待しています。]
田尻の相変わらず感情を抑えたその口調は、却って和範の心を強く揺さぶるものとなった。
[はい、お願いします。]
殆ど迷うことなく、和範は田尻の申し出を承諾した。
[わかりました。]田尻も頷く。そして田尻に頭を下げたその十分後には、和範はその狭い警察署の中の一部屋で、田尻の隣に座り数十年振りに名村と対峙していた。
[名村…]
机を挟んで和範と田尻、そして当の名村と彼を連れて来た刑事が腰を下ろす。刑事には名村の友人として彼の心を解きほぐす為にも是非立ち会わせて欲しいと、田尻が和範の同席についてそう頼み込んだ。彼等が和範の同席を許したのは、田尻が言った通り、すっかりやけになり取り調べにも素直に応じようとしない名村の態度に業を煮やした警察の事情というのも、その背景にあるらしかった。田尻のお陰で十数年ぶりにクラスメートに会えた和範だったが、彼が部屋に入って来た時そのあまりの変貌ぶりに和範自身言葉を失った。それはやつれるというより、失意のどん底に喘ぎ人間らしい表情をなくした、いわば野獣の領域に足を踏み入れたような彼を目の当たりにしたからである。ぼさぼさに伸びた頭髪、やはり伸ばし放題の髭、そしてその髪なのか髭なのかわからない顔の中で、ぎらぎらと異様に光っている目…人はここまで人間らしい表情を失うことがあるものかと感じ、和範は名村の変貌ぶりから彼の苦悩の深さを改めて思い知らされたのである。そして和範が口を開く前に村上という同席した刑事が、名村の現在の状態を大まかに教えてくれた。それによると名村は逮捕されてこの方、ずっとこの状態なのだという。取り調べにも正気かどうか判断に迷う程の虚ろな表情のままろくに答えようとせず、警察の方も困っているようだった。すると和範が口を開く前に、田尻が慣れた様子で名村に話しかけた。
[名村さん、田尻です。お母様からあなたの弁護を依頼された弁護士の田尻です。お会いするのはこれで二度目ですよね。わかりますか?]
田尻の大きなそして言い聞かせるようなはっきりした口調に、名村はゆっくり顔を上げると先ず田尻の顔を見た。そして視線を動かし今度は田尻の隣にいる和範を凝視する。だが和範の顔を見ても、その虚ろな表情は全く変わらなかった。そんな名村に和範は、今度は動じることなく一人の人物の名前をいきなり大声で叫んだ。
[遠藤佳人!]
[えっ…?]
急に耳慣れない人の名をを言われてその場にいた刑事は驚いた様子だったが、和範はそんな彼の鋭い視線にも全く動じなかった。然し当の名村はその名前を叫んだ和範を、一瞬何か恐ろしいものでも見るような目つきで凝視した。その顔つきは益々異様でまるで何かに憑かれたようですらあったが、和範はその表情に少しもたじろぐことなく口を開いた。
[久し振りだね、僕が誰だかわかるかい?君の中学時代の同級生原田和範だよ。]
[原田…和範…原田…ああ…あの…]
名村は暫く考え込んだ末にやっと和範のことを思い出したらしく、無表情だった彼にその時やっと人間らしい表情が戻った。刑事はただ呆気にとられて二人の会話を聞いている。名村は勿論当然のことだが何故和範がここにいて遠藤という名前を叫んだのか全くわからないようだった。
[何で…あんたが…ここに…?]
この場所にいることが最も似合わない人間…そんな人間の代表格である和範がここにいることを不自然だと思った名村は、和範が来たことに最初腹立たしさを覚えたようだった。
[何故君が…僕を笑いに来たのかい?嘗ての落ちこぼれが逮捕された姿を見て、面白がってるのか?君みたいなエリートが何でこんな場所に…]
名村が疑問に思うのは当然のことだった。だが和範は、そんな苛立つ名村に臆することなく口を開いた
[君は今、何を恐れているの?どうしてこういうことになってしまったの?君がここまで荒れてしまったのは、やっぱり遠藤の死にその原因があるんじゃないの?僕はそう思ってとにかく君と話したくてここまで来たんだ。]
[遠藤…あいつの死は、あんたとは関係ないだろう…?]
[いや、それは違う。]
和範から話を聞いていた田尻はともかく、その場にいる刑事は訳がわからない様子で和範達の会話をただ聞き入っていた。だが和範はそんな周囲の様子など全く介することなく強い決意を持って話を続けた。
「聞いてくれ、僕は決してエリートなんかじゃない。君達が中学の頃遠藤君をいじめていたのを僕は勿論知っていたし、陰でその様子を見てほくそ笑んでた。」
「君が‥まさか‥」
「本当のことだ。勉強は出来ても、当時の僕は人として最低の人間だった。誰もが僕を成績優秀でスポーツ万能‥何一つ間違ったことをしない優れた人間だと決めつけていた。そのプレッシャーに僕は耐えられなかった。人から叱られるようなやんちゃなことは少しも出来なかったが、本当はもっと羽目を外したかったんだ。もっと枠にとらわれない生き方をしたかった。でも少しでもそれを許さないプレッシャーが僕を苦しめていた。だから当時の僕は、誰よりも卑怯で卑劣な真似をした。遠藤君がいじめられているのをこっそり見て楽しむのは、僕にとって何よりもストレス解消になったんだ。クラス委員だった僕はいじめを止める立場だったのに、自分の苛立ちをいじめをこっそり見ることで晴らしていた。そしてあの日、君達の計画を僕は知っていた。」
「知っていた?」
「ああ、君達の会話はいつも盗み聞きしていたからね。そして僕は、あの寒い日にあの部屋に遠藤君が閉じ込められているのを知っていながら見て見ぬ振りをしたんだ。結果的に彼を見殺しにしたんだよ。そんな卑怯で卑劣なことをしていながら、僕は今まで罪の意識すら感じてこなかった。つい最近まで遠藤君に少しも悪いと思うことなく、平然と生きてきた。そんな自分が心からおぞましいと思う。」
「原田君‥」
和範の思いがけない告白に、つい先程まで人としての表情を無くしていた名村が感情というものを取り戻し、呆然とした顔で和範をただ見つめている。和範は話を続けながら、胸が熱くなるのを感じた。どうすれば自分の思いが伝わるのかわからない。でもとにかく、自分の気持ちを伝えたい。心を込めて訴えれば、思いは通じる筈だ。そう信じて心を落ち着かせながら、彼は喋り続けた。
「君が子供さんを虐待して逮捕されたことを知り、僕は居ても立ってもいられずにここに来た。君のお母さんや叔母さんとも、偶然だが会って君について話をした。お二人とも、何故君がこんなふうになってしまったのかわからないと困惑しておられた。だが僕にはわかるような気がする。その上で、君に是非知っておいて欲しいんだ。君の生活が荒れだした原因がもし遠藤君が死んでしまったことにあるなら、勿論それだけではないだろうが君以上に卑怯で卑劣なことをした人間がここにいることを‥僕はそれを伝えたくて君に会いに来たんだ。上辺だけのエリート、その実人を傷付けても何とも思わなかった最低の人間‥それは君じゃない。この僕だ。」
「最低の‥人間‥」
「ああ、誰からも白い目で見られるような卑怯なことを僕はした。でも僕はその罪を償う為に、これから先の人生を生きようとそう決心したんだ。今ここで君や他の誰から罵倒されようと、僕の決心は揺るがない。だから‥調子のいいことを言うなと言われそうだが、僕は君にも是非立ち直って欲しいんだ。死んだ人はもう生き返らない。だから完全に罪を償うことは出来ないだろう。その意味では僕も君と同じ立場だ。それでも、君も僕と同じように人として立ち直って欲しいんだ。」
「原田‥」
「僕はもう行動を起こしている。遠藤君のお母さんとあの時担任だった浪川先生に謝罪の手紙を書いた。だが‥先生は二年前に亡くなられていた。」
「亡くなった?」
和範の言葉にただ驚く名村‥その目は見る見るうちに赤くなってきたように見えた。そんな名村に和範は更に続ける。
「ああ、それに遠藤君のお母さんに出した手紙は宛先不明で戻ってきた。浪川先生のご主人からは、直接お叱りの電話があったよ。妻の代わりに手紙を読んで、僕に相当の怒りを覚えたらしい。それは当然のことだが、先生の死を知って僕は正直間に合わなかったと思った。あの受験で一番大変だった時にあれだけお世話になったのに、亡くなられたことも知らなかったなんて申し訳なくて‥」
「原田‥」
「それでも僕は、まだ自分に出来ることがある筈だと信じたい。真っ直ぐ前を向いて生きていきたいんだ。そして人として生まれ変わる為に頑張ろうと思っている。そんな僕の気持ちを、何としても君に知って欲しかった。君にも立ち直って欲しい‥心からそう願ってる。」
「ありがとう‥」
和範の誠実さが溢れた言葉に、先程まで正気を失っていた名村も漸く気力を取り戻したようだ。やがてぽつりぽつりとこれまでのことを語り始めたのだった。
「僕の人生、全てがうまくいかなかった。うまくいきそうな時も、必ずどこかでとんでもない挫折が待ち構えていた。結婚して子供が生まれて仕事も頑張って‥幸せになれる筈なのに何故‥わからないんだ。そのうちに焦りは苛立ちに変わった。そして僕は、きっと遠藤が僕達のことを呪っているんだ。いつしかそう思うようになっていった‥」
「名村‥」
やっと口を開いた名村を、和範は勿論名村の横に座る刑事も身じろぎもせずに見ている。だが名村は今までとうって変わって、表情豊かに自分の思いを吐露するのだった。
「確かに‥悪いことをしたと思ってる。でも当時の僕達は、彼を閉じ込めたが三十分もしないで鍵を開けたんだ。だから遠藤が出ていかない筈はないと思っていた。彼が死んだと聞いた時、僕らはパニックで頭が真っ白になった。あの事件のことは1日たりとも忘れたことはない。結局僕らは、遠藤を閉じ込めたことを最後まで認めなかった。怖かったんだ‥認めてしまうと僕らは前科ものになってしまう。将来もずっとそのレッテルを引きずって生きていかなければならない。周りの大人からそう言われた。僕らが警察から取り調べを受けているのは不当なことで、僕らは冤罪の被害者のように扱われた。そして僕らは無実だと当時の弁護士や専門家から声が上がった。それは無言の圧力となって、僕らが遠藤を閉じ込めたことを最後まで認めないように方向付けた。とにかく親は勿論当時の周りの大人達は、事実を追及するよりも一貫して僕らと遠藤の死とは無関係という既成事実を作り上げようとしたんだ。僕らも本当のことを正直に話すことが出来なかった。だが‥だが‥」
「名村‥」
人間らしい表情をやっと取り戻した名村は、肩を震わせ唇を噛み締めると自分を鼓舞するようにしっかりと話を続けた。
「結局僕らは遠藤の死とは無関係だと結論付けられた。だがそれは僕らにとって何の救いにもならなかった。過ちはやってしまったことを心から反省し、償おうとしない限り決して許されることはない。救われることはないんだ。当時はそれほど感じなかった罪悪感だが、年を重ねるにつれ自分の心には耐え難い重荷になってしまった‥あれ以来他の三人との交流も殆ど無くなったが、やっぱり僕と同じような思いをしているらしいことは伝わってきた。どんな時にも心から笑えないし楽しめないんだ。仕事も私生活もうまくいかなくなってきて‥人を死なせておきながら知らん顔をした自分に幸せになる資格があるのか?常にそんな思いが自分につきまとう‥それでも犯罪者として警察のお世話になっていない分君は僕よりもましか‥」
「名村‥」
嘗てのクラスメートである和範に自虐的な笑みを見せると、名村は更に続けた。
「結局僕らは遠藤の死について罰を科されることはなかった。こんな自分が本当に幸せになれるのか?そんな苦悩が、僕の心のバランスを確実に崩していった。家族に当たり散らして、その挙げ句泣き止まない子供に暴行まで‥本当にどうしようもない人間なんだ‥僕は。」
「名村‥」
どうしようもない人間‥その言葉は名村だけでなく、和範の心をも深く突き刺すものだった。自分は別の形で、名村以上にどうしようもない人間だったのだ。それでも今、後悔するだけの自分ではないしそうありたくもない。和範は名村だけでなく、自分にも言い聞かせるように力強く口を開く。
「聞いてくれ、僕は君以上にどうしようもない人間だったんだよ。君が良心の呵責に苛まれて生きてきたのに、僕はその良心の呵責すら感じてこなかったんだから‥大体声を上げれば外にいる誰かに必ず聞こえた筈、声を上げなかった助けを呼ばなかった本人が一番悪いんだ‥遠藤が亡くなった時、僕は自分に都合のいいようにそう理屈付けて、彼を助けようとしなかった自分を正当化して生きてきた‥だが事実は違ったんだ。」
「違った?それはどういうこと‥?」
「当時の刑事さんが話してくれたよ。遠藤君はあの日体調が悪くて多分風邪気味で熱があったんだろうが、あそこに閉じ込められてからかなり早い段階で低体温症となり、意識を無くして倒れてしまったらしい。だから助けを呼ぶにも呼べなかったそうだ。倒れていた場所も外から死角になる場所で、それで発見が遅れたとその刑事さんは言ってた。僕は刑事さんからその事実を聞かされた時、自分が犯した罪は万死に値すると思った。当時は周りの大人達の配慮でその事実は伏せられたが、今の僕いや僕達にはしっかり受け止める義務がある重い真実だ。今の君にこの事を告げるのはかなり酷なことかもしれないが、それでも聞いて欲しい。君にも覚悟を決めて欲しいから‥ここに君以上にどうしようもない人間がいるが、それでも何もかも捨ててこれから償いの為に奔走しようとしているそんな人間がいることを‥僕の思いを知って欲しくて今日ここまで来た。」
「原田‥それにしても‥知らなかった‥まさか遠藤がそんな状態だったなんて‥済まない、遠藤‥本当に、本当に済まなかった‥」
名村の口から嗚咽がもれ、涙が溢れた。自分が犯した過ちを心から悔やみ亡き友に頭を下げる名村に、和範は先ず償うべき相手が誰なのか静かに諭すのだった。
「言っておくが、君が最初に償うべき相手は遠藤君ではない。君のお子さんだ。そうだろう?僕はまだ親にもなれていない。親でもない僕が言うのも何だが、君は先ず子供に対する過ちを償うべきだ。僕は結婚して七年になるが、まだ子供に恵まれない。妻はずっと子供を欲しがっていたそして、医者の話では彼女には何の異常もないということだった。多分子供が出来ないのは、僕の方に原因があったのだろう。体にも‥心にも‥そして遠藤のことをはっきり意識した時、僕は罰が当たったんだと思った。僕には親になる資格はないと、そう神は考えたのかもしれない。だが君は間違いなく父親だ。子供を傷つけてしまった責任は君自身にあるし、それにそれを黙認していた奥さんにもある。子供のいない僕が言うのもおこがましいが、傷つけてしまった子供の為にも罪を償って君自身立ち直って欲しいんだ。」
「原田‥」
まだまだ話し足りない思いだったが、和範と名村との会話はそこまでだった。刑事につれられ部屋に入って来た時とはうって変わって、何か吹っ切れたような落ち着いた表情で名村は部屋を出て行った。同席した刑事からは何も言われなかったが、和範は弁護士の田尻から刑事が名村の心を解きほぐしてくれたことで名村に感謝しているとそう伝えられた。田尻は相変わらず弁護士らしい冷静な表情を崩さなかったが、その田尻が口添えしてくれたお陰で和範は名村としっかり心を割って話すことが出来たのだ。名村が去った後、和範は名村に会わせてくれたことについて田尻に深々と頭を下げ感謝の言葉を告げた。すると今までにこりともしなかった田尻は、相好を崩し穏やかな口調で和範に答えるのだった。
「いいえ、こちらこそお礼を言います。あなたのお陰で私もやっと彼の心を掴むことが出来たような気がします。きっとあなたの誠意が氷のように閉ざされた彼の心を溶かしたんです。感謝するのは私の方です。ありがとうございました。」
田尻に丁寧に頭を下げられて、和範は却って戸惑った。そんな和範を前に田尻は染々とした口調で改めて話を続けるのだった。
「間違いない人生を生きるというのは、本当に難しいものです。誰もが後悔や失敗の連続で、それでも明日への希望を抱いて生きています。あなたも周囲からの過度なプレッシャーがなければ、過ちを犯すこともなかったかもしれませんね。弁護士という職業柄、私は色々な人の悔恨の情に満ちた話を聞いてきました。あなたと名村さんとの会話を聞いて、私は人生について今日程考えさせられたことはありませんでした。私はあなたの行動は正しいと思いますし、その年でその立場で何もかも捨てて人として生まれ変わる為にこれから生きようとお決めになったのは、尊敬に値すると思います。どんな未来が待っていようと今のあなたなら大丈夫だと私は信じています。そして応援しています。」
「そんな‥」
誉められるなど思ってもみなかった和範は、田尻の言葉に自分は称賛されるような人間ではないと慌てて首を振った。ただ、自分の行動が認められただけなのだ。少しでも自惚れた気持ちになってはいけない。和範は自分にそう言い聞かせて今も気になっていること‥名村以外の三人の近況をそれとなく田尻に尋ねた。田尻は名村の心の闇が遠藤の死を切っ掛けに始まっているのなら、他の三人にも話を聞く必要があるだろうから、近況がわかったら三人の様子を許される範囲内で伝えると言ってくれたのだった。長い長い一日を終えやっと帰宅した和範は、今日あった出来事‥まさか会えると思っていなかった名村に会えたことは勿論、彼がいる警察署内で弁護士同席のもと彼と交わした会話の内容まで、妻正代に詳しく語って聞かせた。妻には全てを知る権利があるし、自分にも全てを伝える義務がある。そう自覚しての報告だったが、話を聞き終えた正代の関心は以外にも留置されている名村ではなく、虐待されて今入院している彼の幼い子供の方にあった。
「それにしてもよく会えたわね。あなたの思いがきっと奇跡を生んだのよ。」
「そうかな?」
「そうよ、で子供さんの様子はどうなの?子供は男の子って新聞には書いてあったわね。幼いのに可哀想‥その子体の傷は癒えても心の傷は一生残ってしまうんじゃないのかしら。で‥退院したらその子どうなるの?」
「わからないなあ、夫婦共に逮捕されてるしなあ‥あの様子じゃ身内で引き取り手はいないんじゃないかな。叔母さんの口振りじゃ名村の姉さんも無理みたいだし‥田尻さんが言ってたけど、奥さんの方が早く釈放されるだろうがとても子供を任せられる状態ではないらしい。」
「というのは気持ちが‥」
「そう‥逮捕されたことでかなりショックを受けててね。彼のお袋さんも入院してるし後は奥さんの方のご両親でも引き取れるならいいんだが、それが無理なら施設ということになるかもしれないなあ‥」
「ふうん‥」和範の話を聞いて、正代は何か考え込んでいるようだった。和範は妻の関心が名村の様子ではなく、虐待されて入院している子供の方にあったことに正直少し驚かされたのだが、やはり妻も女なのだと改めて思い知らされた。思えば何年も前から、正代はとても子供を欲しがっていた。自分はそんな妻の気持ちに応えてやることもなく、どこまでも鈍感だった。もしかしたら‥引き取り手がなければ自分が子供を育てるとでも彼女は言い出しかねない。もしそうなったら自分はどうすべきなのか‥そこまで考えた時和範は自分が今までにない思いを抱いていることに驚いた。だがもし彼女がそう言い出したらその時にどうすればいいか考えるだけのこと、自分に反対する資格はないし反対する気持ちもない。そう思った時、和範は考え過ぎだと自分を戒めた。然し彼自身妻の子供が欲しいという切なる願いから目を背けてきたのは紛れもない事実、和範は今更ながらそんな自分を恥ずかしく思い心から正代に謝るのだった、。と同時に正代がもし望むならどんなことでも叶えてやりたいと思った。今までの自分ならこんな考えは抱かなかっただろう。和範は自分の心の変化を自覚せずにはいられなかった。
和範が会いに行き色々話したことで名村は何とか自分でも立ち直る切っ掛けを掴んだようだった。それからは人が変わったように取り調べにも素直に応じ、心から自分のしたことを後悔しているという。だが一度断ち切られてしまった家族の絆はもう一度繋ぎ止める術はなく、先に釈放された妻は名村との離婚を望んでいるという。田尻から電話でそう聞かされた時、和範は一度傷ついてしまった心が修復するのは本当に容易ではないことを思い知らされたのである。更に和範は田尻から危惧していたことをはっきり言葉で聞かされた。
「引き取らない‥、?奥さんは子供を引き取るつもりはないって仰るんですか?」
「ええ‥精神的にとても参ってらっしゃるようで子供の面倒を見れる状態ではないようです。彼女元々名村さんとの間に子供は欲しくなかったって仰るんですよ。結婚当初から、夫はどちらかと言えば精神的に不安定だったって‥親になれば少しは変わってくれるかもしれないと期待して子供を生んではみたものの、結果は裏切られるものだったって‥だから嫌な思い出と繋がってしまう子供を手元に置いときたくはないって‥名村さんの裁判が終わってその刑期が終わるまでどこか施設に預けてくれないかと‥」
「そんな‥」
「奥さんのご両親も高齢で育てる自信がないって仰ってるし、他の親族の方も全く‥本当に可哀想な子です。虐待された挙げ句、親からも見捨てらるなんて‥」
「名村は‥名村は何と言ってるんですか?」
せっつくように尋ねる和範に、田尻はあくまで冷静に答えるのだった。
「そうですね、親に見捨てられてと私は言いましたが、あくまで片親にですね。名村さんは子供のことを思い、父親としての責任を全うしようとしてらっしゃいます。まあその前に裁判があって、刑期が決まるんですが‥すぐには出てこられないでしようが、彼が自由の身になるのにそう時間はかからないと思います。だけどその後のこと‥生活を立て直して親子でちゃんと暮らしていけるようになるまでは、暫くかかるでしようから、。その間子供はどうなるか‥でも名村さんは、罪を償ったら自分で引き取ってしっかり育てるって仰ってますよ。まあ奥さんがあんな風になってしまったのは、確かに名村さんに責任があるんですが‥それでも子供には何の罪もありませんからね。私は子供が不憫でなりません。」
「田尻さん!」
「あっはい‥」
そこまで聞いた時和範は、自分でもびっくりする程の大声で田尻の名前を呼んだ。急に大きな声で名前を呼ばれて、田尻も驚きこちらも大きな声で返事を返す。
「あっ、すみません急に大きな声を出して‥あの‥出来ればその子を、名村が生活を立て直して親子二人でちゃんと暮らしていけるようになるまで、私達夫婦で面倒を見たいんです。見させてもらえないでしょうか?」
「えっ‥?」
口にしながら和範は自分自身に驚いていた。何のことはない、妻正代の意志を確認するまでもなく、和範はこの突拍子もないと思える申し出を自分から口に出していたのだ。
(僕は‥何を言ってるんだ?僕が、自分からこんなことを言い出すなんて‥)
自分で自分が理解出来ない。だがこんなことをするのが、本当の自分だったのかもしれないとそうも思えてくる。そう考えた時、ふと見れば正代がこちらを見てにっこり微笑みながら頷いている。
(やっぱりそうだ!正代もそうしたがっている‥)
そう確信した和範は、子供のように胸を弾ませ更に言葉を続けた。
「いきなりこんなことを申し上げて、驚かれたと思います。すみません‥でも私達夫婦は本気です。妻もそう望んでいます。妻は心の優しい女性です。子供を欲しがっていましたが、出来なかったんです。彼女なら、傷ついた子供の心をきっと癒すことが出来ると思います。僕もそんな妻をしっかりサポートします。出来ると思います。親ではありませんが、実の親以上の愛情を注いでやれたらと思っています。いや、必ずそうするつもりです。」
「あっ‥」
電話口で田尻が言葉を詰まらせる。当然のことながら思いがけない急な申し出に、彼自身戸惑っているのだ。それが痛い程感じられても、和範はただ答えを待つしかなかった。やがて田尻は静かに口を開く。
「有り難い申し出だと思います。あなた方ご夫婦なら、子供をきっと幸せにしてあげられるのではないか‥そうも思います。名村さんと話されているあなたを見て実は私もそう感じたんですよ。然しこういう事情のあるお子さんを育てるというのは、決して簡単なことではありません。第一失礼ですが、あなたは仕事をしてらっしゃらないのでしよう?生活はどうされるのです?それにやっと子供との生活に慣れて心を通わせることが出来ても、実の父親である名村さんに再出発する時が来れば子供さんともいずれ別れなければならないのですよ。その時辛い思いをされるのは、奥さんでありあなたです。確かに覚悟はなさっていると思いますが、そういうことを考えれば有り難い申し出だと思いますが、今の私は賛同出来かねます。」
「それは‥そうですよね。あまりにも性急な話で驚かれたでしょう。申し訳ありません。」
田尻の言葉は最もだった。働いていない人間に子供を育てられるのか?説得力のある田尻の言葉に、和範は引き下がるしかなかった。そんな和範に田尻は、今度は人間味溢れる優しい口調で話を続けた。
「いいえ、あなた方のお気持ちは本当に有り難いと思いますし私自身嬉しかったです。名村さんにもあなたの申し出は一応お伝えしておきますが、宜しいでしょうか?」
「ええ‥構いません。」
「それでは、また‥」
田尻との話を終え受話器を置いた和範は、不意にどっと疲れるものを感じた。今までの自分では決してしないことをやろうとした。行動を起こしたのだ。以前の自分なら、他人の子供など気にもかけなかったのに‥と‥そこまで考えた時不意に声がした。
「どうだった?」
心配そうに尋ねる妻正代に、和範はゆっくり微笑むと首を振って答えた。
「子供を引き取って僕達で育てたいとと言ってみたけど断られたよ。君の意見も聞かず勝手に事を急いでしまってごめんよ。田尻さんには確かに断られた。まあ彼にしてみれば当然だけど、でも決して気を悪くした様子はなかった。まあ僕が今無職なことや先のことを考えれば、確かにそんな子供を預けるにはうちでは不安があるだろうが‥」
「その不安を一掃させればいいわけね。」
「えっ‥?」
「大丈夫、まだ時間はある。私はまだ諦めてないから‥それにしても、私が願っていたことを口にしていないのにあなたが先に言ってくれるなんて‥有り難う。」
「正代‥」
田尻と夫との会話を聞いていた正代は、夫の申し出に感激し和範が説明するまでもなくその内容を大方把握しているようだった。そして何か思案している様子、和範は子供を預かることに妻が大いに乗り気なのは気づいていたが、今の夫と田尻との会話を耳にした後でも妻がまだ名村の子供を預かることを諦めていないことを知って少し戸惑った。だが彼女がどんな風に思っているにせよ妻の思い通りにやらせてあげようと心に決めた。思えば仕事を辞めてまで償いの道を歩むことを決めた和範に、迷うことなくしっかりついて来てくれた妻なのだ。そのことに心から感謝しながら何も報いてやれなかった自分がいた。今の自分達は文字通り一心同体、彼女の願いは自分の願いでもある。そう考えてこれからの人生を正代と共に生きていこうと改めて誓う和範だった。
夫婦の絆は堅く結ばれていた二人だったが、償いへの道は実質なかなか進展がなかった。相変わらず遠藤の母親の所在は不明で彼女の転居と共に遠藤の墓も移されたようで、中学時代に記憶していた場所を捜したものの遠藤の名前が刻んである墓はなかった。管理者に尋ねても遺族の転居と共に多分移転されたのだろうが、十年以上前のことなので詳しいことはわからないとのこと、当時の同級生や関係者に訊いても遠藤の母親の転居先など誰一人知らないようで、和範は罪を償うにも謝るべき相手を未だ捜し出せず行き詰まった状態にあった。
そんな時だった。思いがけない人物から救いの手が差しのべられた。ある日その人物から送られてきた手紙が、どうにもならない状況の中で悶々としていた和範に一筋の光をもたらしてくれたのだった。その手紙は、以前和範の家に直接叱責の電話を掛けてきたあの人物‥今は亡き浪川先生の夫からのものだったのである。手紙が曾ての恩師浪川先生の夫からきたことを知り、和範は緊張の面持ちで封を開け目を通した。手紙には最初叱責の電話を掛けてきた時のままの、彼の和範への怒りに満ちた厳しい言葉が綴られていた。だが、自分の思いをぶつけるように一通り手紙に厳しい言葉を綴った後、彼は亡き妻との思い出に浸りながらも今の和範にとって最も知りたかったことを教えてくれたのだった。それは遠藤の母親の現在の住所であり、更に記されていたのは浪川先生が亡くなるまで遠藤の母親と交わした手紙の内容だった。彼の手紙には、遠藤の母親が生まれ故郷である長野に帰って今も一人で暮らしていること‥遠藤の遺骨は母親が持ち帰り、自宅近くの墓所に葬っていることなどが克明に書かれていた。浪川先生と遠藤の母親との間ではそれから何度も手紙のやり取りがあったらしく、あの悲劇の後責任をとる形で教職を辞した浪川先生だったが、それでも遠藤の母親とは頻繁に手紙を交わしていたという。それからは時が経つにつれて年に数回時候の挨拶を踏まえた上でのやり取りに変わっていった。だがそのやり取りは、浪川先生が亡くなるまで一度も途絶えたことはなかったという。彼は、手紙のやり取りをしていた時の妻の様子をこう書いていた。
「妻は手紙を書きながら私によく言っていた。自分はこれまで、死というものがこれ程絶対的なものとは思わなかった。お母さんと手紙のやり取りをしていて、彼女の気持ちを幾分癒すことが出来たように思えても、その子供が僅か十五歳で死んでしまったこと‥なくさなくてもいい命を失わせてしまったその事実を否が応でも突き付けられる。その事実は、例えどんなことがあっても覆すことは出来ないのだと‥それを思い知らされる度に、どうにもやるせない気持ちで一杯になるのだと妻はそう言っていた。死期が近づいた時やっとこれで遠藤君に会える、あの子に謝ることが出来ると妻はほっとしたように微笑んでいたのを覚えている。妻が亡くなった後遠藤君のお母さんは私にお悔やみの言葉と共に、今まで励ましてくれたことに心から感謝していると伝えてきたが、私は辛くてその手紙を一度しか読んでいない。君が妻への手紙に謝罪の言葉と共に、遠藤君の母親にも謝らなければならないので母親の現在の住所を知っていたら教えて欲しいと書いていたが、私は誰が教えてやるものかと最初そう思っていた。勿論君に対して怒りがあったし、遠藤君の死に何の責任も感じてこなかったそんな君がどこまで本気なのか、疑わしいものだと思ったからだ。とにかく君自身、まだまだ反省して自分のしたことを悔いるべきだと思ったのだ。だがそれでも、君の手紙に書かれた君の言葉が何日経っても私の頭から離れなかった。そのうちに、君の罪を償って人生をやり直したいという言葉に嘘はないのではないかと、何故だか少しずつそう思えるようになってきたんだ。然しそうかといって、君にすぐ遠藤君の母親の所在を教えようとは思わなかった。それはそうだろう。人の怒りというものは、そんな簡単に消えるものではない。だから私は、君の姿を自分の目で確かめたくなったんだ。何故こういう気持ちになったのか自分でもわからない。或いは妻が私の気持ちを変えさせたのかもしれない。不幸な偶然だがそちらの方に行く用事が出来てね。実はそちらに嫁いでいる娘の夫が今入院していて、見舞い方々つい君のことが気になり、本当に反省しているのかこの目で確かめようと思った。でもつい君の所に足を運んでしまう自分が、無性に腹立たしく思えて‥俺は何をしてるんだ?あいつはもういないのに今更どうしようというんだってそんな葛藤があった。それでも訪ねて行った先で、君は手紙にあった通りの償いをしようとしている。君の表情から君の決意が見てとれたよ。私はひたすら迷った。娘もそんな私の様子が気になったらしく、ある日私に問い質した。父さんは何をしようとしているの?頻繁に出掛けているようだけど、何を考えあぐねてそんなに苛々してるの?そう訊いてきたよ。そんな娘に私は、迷ったが思い切って全てを話した。娘は何とも言えない表情で黙って私の話を聞いていたよ。そして話を終えた時、娘は何と言ったと思う?そのお母さんの住所を君に教えてあげるべきだと、真剣な表情で私に言ったんだ。わかるかい?事件当時娘は、君より少し年上の大学生だった。あの時は娘なりに、母親の苦悩を具に見てきてずっと心を痛めてきた筈なんだ。そんなあの子が‥私だって同じだが娘には本当に辛い思いをさせたと思う。その子が真剣な眼差しで私に訴えるんだ、君の気持ちを無にしてはいけない。亡くなった子の母親の今の住所を君に教えてあげるべきだと。私は娘に尋ねた。お前は腹立たしくないのか?彼があの時遠藤君の居場所を教えてくれれば、鍵を開けてさえくれればあんな悲劇は起こらなかったし、お母さんだってあんなに苦しむことはなかったかもしれないんだと‥すると娘は私に言ったんだ。確かにあの時のことを思えば、君に対する怒りはある。でも今は何より、お母さんの気持ちを第一に考えたい。お母さんは生涯教師だった。腹立たしい気持ちがないと言えば嘘になるけど、お母さんだったらどうするのかどう思うのか、きっと今の彼の気持ちを先生らしく受け入れてくれるだろう。多分そうすると思う。だから私は教えるべきだと思うと、娘はそう私に言ったんだ。そして私は娘の意見を受け入れた。今はただ、娘の心を思いやって欲しい。亡くなった妻‥君達にとっての浪川先生の気持ちを考えて欲しい。娘も賛成してくれたし天国の妻も望んでいると思うので、私は君が最も知りたかったことを君に伝える。後は君がどう対処するか‥君自身の生き方が問われていると思う。私は君がこれから何をしようと、確認するつもりはない。だが君のことは、良い意味でも悪い意味でも忘れられない存在になった。それだけは確かだ。忘れようとしても忘れられないだろう。君の行動はこれからの君の生き方は誰でもない、天が見ている。いいか?私の言葉はしっかり心に刻んでおくように。」
手紙はそこで唐突に終わっていた。和範は言い知れぬ安堵感と共に、浪川先生が生前語っていたという死というものの絶対性を、改めて身に染みて味わっていた。
(有り難うございます。これでやっと‥やっと前に進める。先生、本当に本当にごめんなさい。僕があの時、すぐに話してさえいれば‥)
先生が生きてさえいてくれれば、何度でも謝ることが出来る。土下座でも何でもして自分の気が済むまで謝るだろう。だが彼女はもういない。いくら謝りたくても、心の中で詫び後悔の涙を流すしかないのだ。死というものは絶対的に人と人とを引き離すもの、和範の後悔の念は彼がこれから一生背負っていかなければならないものとなった。そして和範が以前何をしたのか知ったにも拘わらず、彼に遠藤の母親の住所を教えるべきだと訴えた先生の娘さん‥そんな彼女の訴えを聞き入れて遠藤の母親の住所を知らせてくれた先生のご主人‥和範は改めて送られてきた手紙を抱き、二人の心に深々と頭を下げるのだった。
(有り難う‥感謝します。そして僕のこれからの生き方を、しっかり見ていて下さい。あなた方のお気持ちに必ず報いてみせます。先生も‥天国で見ていて下さい。)
気持ちが高ぶり、泣くまいと歯を食いしばっても自然と涙が溢れる。
「どうしたの?」
和範の様子を見て心配そうに尋ねる妻正代に、和範は黙ってその手紙を差し出した。その長い便箋に書かれた文章に静かに目を通す妻の傍らで、和範は再び同じ人物に宛てて今度は決して宛先不明で戻っては来ないだろう手紙を書き始めるのだった。勿論相手にしてくれない可能性は高い。無視され返事など来ないことは和範も覚悟していた。だが自分は諦めない。何度でも手紙で謝罪し、直接会いに行って謝るつもりだ。心を尽くして謝れば、人は許されるものなのか‥やり直すことが出来るものなのか‥たとえ死という現実がそこに介在したとしても‥その答えは簡単には出せるものではない。だが自分は謝り続けなければならない。相手がどう思おうと‥和範は住所がわかった以上、すぐにでも飛んで行って遠藤の母親に会いたい心境だったが、真実を知った彼女が和範の謝罪を受け入れてくれるかどうか勿論わかる筈もなかった。それでも自分は何度も何度も謝りに行くだけ、そして今の有りの儘の自分を見てもらうのだ。然しいきなり訪ねて行っては相手を戸惑わせることになりかねない。そう考えて前もって自分の思いを長い手紙に記して、ポストに投函したその翌日のことだった。和範は妻正代から、いきなり思いがけない話を聞かされたのである。
「長野へ引っ越す?いきなり何の話‥?」
「ごめんなさい、本当にいきなりで驚いただろうけど、私が遠藤君のお母さんが今暮らしておられる長野への引っ越しを考えたのは、本当に偶然なの。先生のご主人のお手紙で、遠藤君のお母さんが長野にいることを知って、私は驚いたし同時に因縁めいたものを感じたわ。でも私があなたと二人で長野へ移って新しい生活を始めたいと思ったのは、実は私の従兄弟から長野で一緒に働かないかないかって誘われたからよ。」「君の‥従兄弟‥?」
「ええ、実は従兄弟が脱サラして奥さんと共に今度長野の蓼科でペンションを始めることになったの。それであなたのことを話したらね、言ってくれたのよ。もし働く気があるならこちらに来て一緒にやらないかって‥ペンションの仕事もあるけど、彼無農薬の野菜も作っていて今は住んでるとこで土地を借りて作ってるけど、移住して本格的にやるつもりなのよ。だから人手はいくらあっても足りないらしいの。」
「あっ‥」
「勿論農作業は肉体労働だし、働くといってもそう簡単なことではないと思うわ。今までずっとオフィスでデスクワークしてきたあなたには、相当荷が重いかもしれない。でもあなたはまだ若い。都会を離れて空気のいい田舎で、思いっきり汗をかいて働いてみるのもいいんじゃないのかしら。私達の再出発として是非考えてみて‥それにあの子‥」
「あの子?もしかして、名村んちの周君のこと‥?」
「そう。周君ていうのよね、あの子‥あの子今週中には退院出来るんでしょう?あなた電話で田尻さんと話してたじゃないの。私はあなたと二人で名村さんが立ち直って親子で暮らしていけるようになるまで、長野で働きながら是非周君の面倒を見たいの。勿論親になった経験のない私達にとっては、子供を育てるのは簡単なことじゃない。それはわかってる。でも従兄弟夫婦には三人の子供がいるわ。年も近いから色々アドバイスしてくれると思うの。親としても頼れる存在だし。従兄弟夫婦にも相談したけど、私達が引き取ることに賛成してくれたわ。」
「もうそんなとこまで話が進んでるの?」
「ごめんなさい、勝手に話を進めて‥でも私の決心は堅いわ。お願い、同意して。私達の再出発の地を長野に決めて欲しい。遠藤君のお母さんが住んでいるし、いつでも会いにいける。」
「だけど‥」
急な話に戸惑う和範‥長野で新しい生活を始め、親友の子を引き取って育てる。和範は思った。妻はやはり、名村の子を引き取るのを諦めてはいなかったのだ。だが思ってもみなかった話を聞かされ考え込む夫に、正代は畳み掛けるように話を続けた。
「従兄弟からは、私達が行かなければ他に人を雇わなければならないので、返事だけは急いでくれって前々から言われてたの。だからあなたがまだまだ大変な時だけど、今話さなければならないと思って‥私は自分の希望をあなたに伝えた。遠藤君のお母さんの住所が同じ長野だと聞いて、私は因縁めいたものを感じたし、より一層この道を進みたいと思った。私はあなたの償いへの道を決して軽く考えている訳じゃないわ。でも私達にだって生活がある、私にだって望みはあるのよ。」
「望み‥?」
「そう‥」
静かに頷くと正代は、常々考えていた自分の願いを口にした。それは和範には思いがけない話だったが、然しそれほど驚きを覚えなかったのも事実だった、。実際和範は妻がどんな望みを抱いていたのか、無意識のうちに自分は察知していたのかもしれないと思った。そんな夫を前に、妻は話を続ける。
「私‥やっぱり子供が欲しいの。でも、絶対自分の血を分けた子供でなければ駄目だとは思っていない。血の繋がりも大事だろうけど、心の繋がりはもっと大切だと思うから‥世の中には、不幸な生い立ちで生まれてくる子供が大勢いるわ。子供には親は選べない。そんな不幸な環境で生まれてくる子供を私達が引き取り、独り立ちさせて送り出してあげるの。」
「えっ‥養子とかそういうんじゃなくて?」
「ええ‥里親って聞いたことがあるでしょう?役所に聞いてみたら、私達でも十分資格がありそうなのよ。仕事も始めるしね。勿論子供を育てるのは簡単なことじゃない。不幸な環境で育った子なら尚更でしょうけど、それでも私はやりたいの。都会を離れて大自然の中で、子供達とぶつかりながら地に足をつけて生きていきたい。周君を、私達が里親になったその初めての子にしたい。そして幸せにしてあげたい。私は心からそう思ってるわ。だからあなたが賛成してくれるなら、私の方から田尻さんに話そうと思ってるの。」
「正代‥」
語気を強めて訴える妻のその横顔には、何があっても怯まないという強く堅い決意が滲み出ていた。自分が自らの過ちを償うために奔走する中で、妻はこんなことを考えていたのか‥和範は以前から大人しいというイメージしか持ってこなかった正代の、女性としての芯の強さを改めて思い知らされたような気がした。(そう言えば‥)
心底子供を欲しがっていた頃から、正代は虐待など子供を巡る様々な事件にかなり気を尖らせてきた。子供を虐待する親を鬼だと憤慨してよくそう言っていたものだ。
(正代‥)
以前の和範なら、妻のこんな決意を聞いても多分反対していただろう。自分の子供なら喜んで育てるが、他人の子供など殆どと言っていい位興味がなかった彼なのだ。虐待など子供の事件に心を痛める正代の傍らで、彼に必要なのは今働いている会社でいかに出世するか、いかに仕事をスピーディーにそつ無くこなし、自分というエリートの存在をアピールするかということだった。それは競争社会で生きてきた和範にとっては、極当たり前に抱く感情だったと言えよう。然し今は違う。そんな自分の仮面はかなぐり捨てて、新しい生き方を模索する時なのだ。エリートとしての誇りなど、彼にとってもうどうでもいいことだった。、
(畑仕事‥農作業か‥俺に出来るかな?)
ぼんやり考える。自分は確かに、今まで肉体労働とは殆どといっていい位無縁だった。体力的に大丈夫だろうか‥迷いはあったが、かといって元の生活に戻るつもりはない。和範自身、エリートとしての出世コースに未練はなかった。
(ようし、大変だろうがやってやろうじゃないか!そして里親のこともOKしてやろう。正代と自分達が育てることになる子供達‥周君だけじゃないだろう、そんな家族をしっかり守って長野で暮らしていこう!自分はまだ若い、そして健康で十分働ける。自分で自分の新たな人生を切り開くんだ!やるぞ!)
思えば自分に言い聞かせるまでもなく、和範の気持ちはもう既に決まっていたのかもしれない。和範は正代に、長野へ行ってその従兄弟の所で仕事を始めるのに自分は異存はないし、周君をはじめ恵まれない子供を引き取って里親になることも賛成すると告げた。ただ自分にとって、最も大切な遠藤の遺族である母親への謝罪が済んでいない。長野で新しい生活を始めることに異存はないが、その大切なことは引き続き成し遂げるまで努力するつもりだと話した。
正代はそんな夫の言葉を受け止め、夫が自分の気持ちをしっかり汲み取って賛成してくれたことを本当に嬉しく思っていると、涙ながらに和範に感謝の言葉を伝えるのだった。