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償い  作者: カピバラ子
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人生の岐路に立ち

翌朝正代に起こされいつもと変わらぬ朝を迎えた和範だが、いつものように出社した彼は、直属の上司にいきなり認めておいた退職願いを差し出した。今の生活を投げ出す覚悟は当に出来ていた。驚いた上司は勿論その理由を問い質したが、今の和範には一身上の理由としか答えられなかった。相当の覚悟で和範は退職願いを出したのだが、その事でどうこう言われるより、今は自分のやるべきことに早く取り掛かりたかったのである。それでも和範の人柄を買っていた直属の上司は、和範の表情から彼の強い決意を感じ信頼していた部下が何か非常に思い詰めていると悟ったのか、一応退職願は受け取ってくれた。そして呆気にとられている同僚や職場の人々をよそに、黙々と所持品を片付け社を出て行こうとする和範に、当然のように質問を投げかけたのである。

[転職を考えているの?]

[いいえ、全く…]

[えっ…なら本当にいいのかい?エリートとして華々しい出世街道を順調に歩いてきた君なのに、ここを辞めてしまったらもう元には戻れないかもしれないんだぞ!]

[すみません…]

[とにかくこれは預っておくから、有給休暇でもとってのんびりしたらどうだ?君は多分疲れてるんだよ。][いいえ、疲れてはいませんしとにかく私の意志は変わりません。でも、お気遣い頂いて有り難うございます。]

[だけどな、お前…]

尚も食い下がる上司に、和範は静かに微笑み遠くを見つめるような眼差しで口を開いた。その口調はどこまでも穏やかだった。

[そのうちに時期がきたら、今の僕の思いを詳しくお話出来るかもしれません。でも今は、とにかく自分の決めた道を歩きたいんです。僕にはどうしてもやらなければならないことがあるんです。それがどういうことか、まだ話すわけにはいきませんが…今まで良くしてくださって本当に有り難うございました。]

上司に向かって一方的に自分の思いを伝えると、あとはただ深々と頭を下げる和範…その姿を戸惑いの表情で見つめるのは上司だけではなかった。エリートだが気取ったところがなく、誰からも好感を持たれていた和範の突然の退職願は、その場にいた誰からも驚きの声で受け止められていたのである。

[おい、原田!本当にどうしたんだよ、いきなり…この前…いや裁判員に選ばれた頃から何か様子がおかしいと思っていたんだが、そんな会社を辞めるまで思い詰めていたなんて…何か悩み事があるんなら話してくれれば良かったのに。水臭いじゃないか…]

同期入社で何かと気が合い一番の親友ともいえる同僚の坂崎が、退社しようとする和範を早速追いかけてきた。だが口を尖らせる坂崎にも、今は頭を下げるしかない和範だった。

[済まない。だが君にもまだ訳を話せないんだ。でもね、僕は決して思い詰めてはいないよ。課長にも言った通り、僕は一人の血の通った人間である為にやらなければならないことをやろうと決めた…]

[やらなければならないこと…?]

[ああ、そのために僕は行動を起こした。それだけ僕にとっては大切なことなんだ。]

[会社を辞めてまで…?]

[うん、本当ならこの大切なことにもっと早く気付き、思いを巡らすべきだったんだ。でも裁判員に選ばれたことは、僕に本当にやるべきことは何かを教えてくれる結果となった。もう後悔はしたくない。だから今は、何と言われようと自分の気持ちに素直に行動したい。そう思ってる。]

[原田…]

[どういうことだったか、そのうち君にも話せる時が来るかもしれない。その時事情を知った君に、嫌われ軽蔑されるかもしれないが僕は構わない。僕は僕で懸命にやったとしか言いようがないしね。でもとにかく、心配してくれて本当に有り難う。]

[どうしても話してはくれないんだね、今は…だけどどんな内容を聞かされても僕は絶対に君を軽蔑したりはしない。君は本当にいい奴だから…]

[有り難う…]

[手紙書くから必ず返事くれよ!いいな!]

和範の決心を翻させることは出来ないと悟ったのか、坂崎は諦めたように首を振ると和範と名残惜しそうに握手を交わし社に戻っていった。それでもまだ時々連絡を取り合おうと、和範に約束させることは忘れなかった。そんな親友の気持ちを有り難く思いながらも、和範はこれから自分が進もうとしている道の険しさに自然と身が引き締まるのを感じた。そして前々から考えていた通り、退職願を出した日に同時にやろうと思っていたことを実行に移した。それは、たとえ裁かれなくても自分の過ちを警察に正直に話すことだった。迷いはなかった。エリートの座を捨てて償いの道を歩く…その決意が揺らぐことのないように、和範は会社を辞めたその足で当時遠藤が亡くなった件を担当した所轄署へと向かった。あの時の自分の行動を有りの儘警察に正直に話し、その上で自分のとった卑怯な行動について誰にどのように謝罪すべきなのか考えたかった。とにかく、自分が当時どれだけ卑怯なことをしたのか先ず警察に話すべきだと思ったのである。その上で自分の処遇を考えてもらうつもりだった。あまり刑法には詳しくない自分だが、とにかく正直に話すことによって刑事上でも民事上でもどのような償いができるのか叉するべきなのか、それを訊いてみようと思ったのだ。

[何の…御用でしょうか…]

紳士然とした和範の突然の訪問に、当然署内にいた人々は驚いた様子だった。

[私は…私の過去の過ちを告白したいと思って来ました。]

[えっ…?]

周囲がどよめく中和範は胸が張り裂けるような緊張感を味わいながらも、そこにいた人々の中にあの時捜査に来た人物を捜そうと目を凝らした。あれから何年も経っている。思えばあの事件を担当した人物が今もここにいるとは限らなかったが、記憶力のいい和範はそれでもあの時の関係者を捜そうと、必死に署内を見渡した。すると…何とその中に、あの時何度も目にした刑事の姿を発見したのである。二十年近い歳月が若かったその人物を初老に変えていたが、和範の記憶にあるあの時捜査を担当した中の一人に間違いなかった。和範は思わず駆け寄っていき、その人の前で土下座すると頭を突っ伏して声にならない声で[済みませんでした!]と繰り返し叫んだ。呆気にとられているその人物の前で繰り返し頭を下げていると、自然に涙が溢れてくる。和範はその場にいたのが誰にしろ、今自分以外の人間全てに頭を下げ声に出して謝りたい気持ちだった。その人物は和範の突拍子もない行動に戸惑いながらも、繰り返し頭を下げる和範の背中をさすってとにかく落ち着くように優しく声をかけると、奥の部屋に和範を連れていった。そして和範が落ち着くのを待って、静かに口を開いたのだった。

[何を謝りに来たんですか?私にはとてもあなたが犯罪者とは思えないのですが…]

和範は、涙に濡れた瞳でその刑事の顔を見た。確かに年はとっているが、あの遠藤が亡くなった時何度も目にした刑事だ。間違いない。

[亡くなった遠藤君なんだが、何故あんな場所にいたのか君は知らないか?]と問われた時の、人を見透かしたような険しい表情は、今も脳裏に焼き付いている。[僕は…]言いかけて最初は戸惑ったものの何とか勇気を奮い立たせ、和範は過去に自分が犯した過ちの償いの為に行動を起こすべくここを訪れたのだと告げた。和範は静かに頭を下げて、その時の自分がどんなに卑怯で卑劣な人間だったかを赤裸々に告白したのだった。[私はエリートの仮面を被った、その実卑怯で卑劣極まりない人間でした。中学三年の時の事です。私は、クラスメートを見殺しにしたのです。とても寒い冬の日でした…学校の用具置き場に彼が閉じ込められていたのを知っていたのに、誰にも言わなかった…]

[用具置き場…?閉じ込められて…?]

和範の話を聞き、遠くを見るような眼差しで自分が過去に関わった事故や事件の記憶を辿っていたその人物は、[ああっ!]と一言発すると、あの時のあのと言わんばかりに和範の顔をまじまじと見つめた。

[君は確か…あの時のあのクラスの…]

[はい。クラス委員でした。]

[クラス委員?そういえば確かに面影が…でも…でも…]

思いがけない告白に驚き戸惑いつつも、彼の心にはその内容に怒りがこみ上げてきたのか、次の瞬間激しい口調で和範を怒鳴りつけていた。

[知っていた…?彼があの用具置き場に閉じ込められていたことを、君は知っていたというのか?まさかそんな…でも知っていたなら何故助けなかった?何故みんなに教えなかった?君が一言教えてくれていたら、彼は助かったかもしれないんだぞ!]

その刑事の激しい叱責に多少なりとも動揺した和範だったが、今はどんなに耳の痛い言葉を投げつけられ非難されようともそれを乗り越え人として再生するために行動を起こしたのだという、強い信念が彼を支えていた。和範は気持ちを落ち着かせるために深呼吸をすると、再び口を開いた。

[申し訳ありません、私は本当にに卑怯な人間でした。彼がクラスの一部の生徒からいじめられているのを知っていたのに見て見ぬ振りをして、そればかりかこっそりその様子を見て楽しんでた…時には彼らのいじめをそっと手助けする事さえあった…あの時も、あいつらが遠藤君を用具置き場に閉じ込めようとこっそり話してるのを聞いたんです。それなのに、それなのに僕は…]

呆然とした表情で和範の告白を聞いていたその刑事は、今度は呆れたといった表情になり大きく溜め息をつくと口を開いた。今度は前と違って叱りつけるような口調ではなく、相手に詰問するようなそれでいて相手の気持ちを追い詰めないような、まるで取り調べをする時のような言い方だった。事実和範にとって、それは取り調べ以外の何ものでもなかったといえる。

[いつもなら僕はここにいない。別の署にいるからね。それにしても…今日別の事件の捜査協力で偶々私がここに来た時に君がやって来たのは、全くの偶然なんだろうか。何か目に見えない力が、今日君に僕を引き合わせてくれたように思う…]

[えっ…]

[まあいい。それで君は夜になっても遠藤君が帰宅していないと聞いた時、どう思ったの?]

[正直言って…]

[正直言って…?]

[焦りました。あいつらによって遠藤君が閉じ込められているのを知ったのは昼過ぎ…いえ帰る直前でしが、その時は自分が言わなくても誰かが見つけてくれる…何とかなるとそう軽く考えていました。だけどまさか、夜になってもそのままだったなんて思ってもみませんでした。]

[でも夜になって先生から訊かれた時も、君は遠藤君が用具置き場にいることを言わなかった…]

[はい…]

[何故言わなかったんだ?]

[言えなかったんです、すみません…最初彼が閉じ込められているのを知った時、僕はいつものようにほくそ笑んで面白がって…でも自分から助けを呼べば必ず外の人間には聞こえる筈、助けを呼ぼうとしなかった彼自身も悪いのだとそう自分に言い聞かせてました。]

[それで…?]

[先生から訊かれた時に、さすがにこのままではいけないのではないかと思いました。人の命に関わることだし、でも黙っていたのを責められるのが怖かった…みんなが僕を見る目が変わるのが怖かったんです。]

[エリートとしてのプライド?]

[そう…かもしれません。多分そうなんでしょう。間違った価値観に基づく下らないプライド…でもみんなから軽蔑されるのは、当時の僕には耐えられなかった。僕は幼い頃から、両親は勿論周囲の人からもエリートとして見られ生きてきました。そのエリートで誰からも信用されていたこの僕が、そんな卑怯なことをしていたと知られることの方が怖かった…そのプレッシャーが、僕の人としての理性をずたずたにしてしまっていたのです。あいつなら何をやらせても間違いない。あいつなら決して馬鹿な真似はしない。ずっとそういう目で見られて、僕はエリートとしての道を一歩たりとも踏み外すことが出来なかった。だけどそんな時の僕は、決して有りの儘の僕じゃなかった…偶には羽目を外したり他の奴らと喧嘩したり…そんな普通の人間でありたかったけど、エリートであることのプレッシャーが僕に羽目を外すことを許さなかった。僕はあの事件では保身に走ってしまったんです。僕があんな卑怯な行動に出たのは、そのストレスをこっそりいじめという形で発散していたからなんです。あいつらが遠藤君をいじめているのを影で見てると、何だか気分がすっきりした…時にはいじめを手助けするようなことまでして…]

[最低だな…]

吐き捨てるようなその刑事の言葉にも動じず、和範は落ち着いて更に続けた。

[その通りです。その挙げ句僕は救うことが出来た命を救おうとしなかった…だから償わなければならないんです。彼の命は戻らない。取り返しがつかないのはわかってます。本当は遅過ぎるんですけど…]

和範の告白を耳にしたその刑事は、何も言わずに目を閉じた。そして暫くして口を開き、和範に当然の疑問を投げかけるのだった。

[君の気持ちはよくわかった。これは君にとっては間違いなく自首なんだろうね。でも一つ疑問がある。何故今なんだ?あれから何年も経っているのに、今更行動を起こすというのは…まさか当時の事件を担当していた私が、捜査協力で今日ここに来るのを調べた訳でもあるまいに…]

[それは全くの偶然です。ですがそのことを問われたら私は何も言えない。言うべき言葉が見つかりません。]

思えば和範にとって、彼の今の質問が一番耳にも心にも痛い言葉だったのかもしれなかった。そんなに後悔する気持ちがあるのなら、何故もっと早く行動を起こさなかったのか…本当なら遠藤が亡くなった時に自分の過ちを自覚し、取り返しのつかないことをしてしまったと泣いて謝るべきだったのではないか…たとえみんなから白い目で見られたとしても、そうすべきだったのだ。良心の呵責は、その時の和範の心には本当に少しも芽生えていなかったのか…和範は頭を抱えると、絞り出すような声で今の心境に至るまでの自分の思いを静かに語り始めた。

[あの時…僕は彼が死んだのは自分のせいではないと、自分に言い聞かせてました。クラス委員として必死に冷静を装って…あの夜、みんなで学校中を捜したんですよね。だけど彼は見つからなかった。僕には彼が亡くなったと聞いた時、何故?という疑問符しか浮かばなかったんです。僕が帰った後でも、声を上げて助けを呼んでいればきっと誰かが気付いた筈、そうしなかった彼自身が悪いのだと僕はそう自分に言い聞かせ思い込もうとしていました。そしてその時から、この忌まわしい思い出をなかったものとして、記憶の底に封印してしまっていたんです。僕の良心もその時に封印してしまったのかもしれない。でも…僕にはわかってた。心のどこかで、自分はきっと彼を見殺しにした罰を受ける時がくるだろう…漠然とだけど、そんな日がくることを予想していたんです。封印していたけど決して忘れた訳ではなかったんです。思い出さないようにしていたのかもしれません。そんな時、僕の良心を呼び起こす切っ掛けとなった出来事がありました。僕が裁判員に選ばれたことです。]

[裁判員?]

[ええ…選ばれたのは勿論偶然でしょう。然し同時に、運命だったのかもしれません。僕は裁判員として、ある事件と向き合うことになりました。その事件とは、二人の若者が強盗目的でひったくりをしようとした相手を誤って死なせてしまったというものでした。人の命を奪っておいてその罪の重さを全く自覚していない被告達に、私は裁判員として接するうちに正直言って怒りを感じました。その感情は、普通の人々が抱くのと変わらない当たり前の感情だと私は思ってました。でも遺族の意見を法廷て聞いた時から、私の耳にはいつしか、[偽善者]という言葉が何度も響くようになっていたんです。]

[偽善者…?]

[ええ、今にして思えばそれは、やっと呼び起こされた私の良心が私自身の心に訴えてきたものかもしれません。裁判員に選ばれたことは、私に自分という人間を見つめ直すいい切っ掛けとなりました。そして、遺族の女性はこう言ってました。どんなに善良な顔を装って生きていこうとしても、その人が何の罪もない人の命を奪ったという事実は消えはしない。その人が心から反省し、どういう形で償うにせよその事実としっかり向き合わなければその人の心は永久に救われないと…確かに、僕は彼の命を直接奪った訳ではありません。でも救えた筈の命を見殺しにしたのは事実です。僕は今強く感じます。僕が裁判員に選ばれたのは、僕自身が過去に犯した過ちに気付きしっかりそのことに向き合うようにと、そういう…何か目に見えない力のようなものが動いたか…]

[或いは、自分でそう望んだのか…]

[えっ…?]

涙ぐみながら告白する和範に、その刑事は最初はすっかり困惑した様子だったが、やがて決心したように頷くと和範の顔を見ながらゆっくり口を開いた。そして当時クラスメートには知らされなかった、遠藤の死にまつわる和範の良心が益々痛むような衝撃的な事実を、敢えて和範に話してくれたのだった。

[あの時、君達は中学三年生とはいえまだ子供だった。だから遠藤君の死にまつわる具体的な事実は、一切君達には話さなかった。君達がショックを受けるといけないと思ったんだ。それは勿論私個人の判断ではなく、警察や学校など周囲の大人達の君達の心を慮っての配慮だった。わかるね?]

[はい…]

[だが、君はもう大人だ。君の話を信じればだが、君は彼の死に対して十分責任があるしその責任をとる覚悟もしている。だから、私はあの時君達に知らされなかった事実を有りの儘伝えようと思う。君にとっては相当ショッキングな内容になると思うが…いいかい?]

[はい…」

[実は遠藤君はあの時返事をしなかった訳ではない。返事が出来なかった…助けを呼べる状態ではなかったんだ…]

[えっ…?]

呆然とする和範に、その初老の刑事は遠藤の死について当時伏せられていた事実を淡々と語った。

[実は彼は数日前から風邪気味で、その日は特に具合が良くなかったそうだ。そんな中いきなりあの寒い用具置き場に閉じ込められてかなり早い段階で彼は低体温症になり倒れてしまったと思われる。]

[低体温症…]

[今の君ならわかるだろう?彼はかなり早いうちに意識も混濁して、彼を捜している声に答えられる状態ではなかったらしい。不運なことに彼が倒れていた場所も、用具置き場の奥の大きなボール箱の片隅で入り口から死角になっていてそれで発見が遅れたんだ…]

[あっ…]

自分は何てことをしてしまったんだろう…思いも寄らない真実を刑事から聞かされて和範は絶句した。あの時…自分は勝手に捜している声に返事しなかった遠藤自身が悪いのだと、そう思い込もうとした。自分には関係ないと自分に都合のいいように理屈付けて、自分の責任ではないとそう思い込んだのだ…だが、事実はそうではなかった。考えればわかること、返事が出来ればした筈助けを呼んだ筈なのだ。激しく動揺する和範を前に、冷静な口調で刑事の話は続く。それは和範にとって、胸が苦しくなる程辛い内容だった。だが今の彼には、どんなに辛くてもその話を絶対に聞かなければならない義務があった。

[彼を発見した時、確かに用具置き場の鍵は掛かっていなかったそうだ。君が聞いた通り遠藤君を閉じ込めたのがその悪ガキ共だったとしても、大人達が彼を捜している時は、鍵が掛かっていても必ず開けて中まで確認した筈だからね。実際開けて確認したと、私は当時の教職員から聞いている。その時見つけられなかったのは私達大人の責任だが、それでも君は知っておくべきだ。彼がその日は体調が悪くて、殆ど助けを呼べないくらいに早い段階で倒れてしまっていたと思われることを…先生は、当時の君達の担任だった女性教師は、遠藤君が発見され病院で死亡が確認された後、私達警察に子供達がショックを受けるといけないのでそのことだけはどうか伝えないでくれと、涙ながらに懇願された。その上で遠藤君のたった一人の遺族である母親に、土下座していつまでも謝っておられた。そして全ての責任を一人でとる形で学校を去っていかれたと私は記憶している。君はそんな先生の心まで欺いたんだぞ!君が一言教えてくれていたら、教えないまでもその時鍵を開けてさえいてくれれば遠藤君は死なずに済んだんだ!君には辛い現実だろうが、大人になった今君はしっかりその事実を受け止めるべきだ。君が自首…これは自首といえるんだろうな。自首してきたその気持ちと、今の君の覚悟はしっかり受け止める。その上でこれから君が一人の人間としてどう生きていくのか、何が出来るのか、どうやって自分の罪を償っていくのか…しっかり現実を見据えて考えるんだ、わかったな!]

[はい…]

刑事の叱りつけるようでいてまた諭すような口調に、混乱しながらただ頭を下げるしかない和範だった。思ってもみなかった事実を突きつけられて気持ちの整理がつかない彼だったが、そんな呆然としている和範に、その刑事は気持ちが落ち着いたら帰るように静かに告げた。

[でも僕は…]帰る訳にはいかない。罰を受ける為に自分はここに来たのだ。特にこれまで知らなかった衝撃的な事実を聞かされて、このまま何事もなかったかのように時を過ごすことなど絶対に出来ない。だが首を振って訴える和範にその刑事は強い口調で言い放った。

[君の気持ちはわかった。だが、今の君を法的に裁くことは出来ない。罪に問うことは出来ないんだ。わかるだろう?]

牢に入ることも厭わない心境の和範に対して、刑事は更にたたみかけるように話を続けるのだった。

[勿論僕としては、今からでも君に刑を科したい気持ちだ。あの時の先生や遠藤君のお母さんの悲しむ様子を具に見てきたからね。君の卑怯な行動がなかったら、遠藤君は助かったかもしれないしあの二人も救われたかもしれない。あの悲劇自体起きなかったかもしれないんだ。それを思うとやはり君を裁きたい気持ちはある。だが、私は警察官だ。君に対して法的に罪に問える状況にない以上、今は帰れと言う他はない。然し、君にはあの時本当は彼がどんな状態だったのか、遠藤君が何故どんな状態で死んでいったのか、真実を知る義務がある。だから私は、敢えて君に話した。そしてここから先は、君が何をやるのかどんな風に生きていくのかにかかってくると思う。]

[はい…]

肩を震わせて頷く和範に、その刑事はあくまで厳しく言い放つのだった。

[繰り返すが、君の覚悟はしっかり受け止めた。その上でこれからの君の姿を、君がやることをちゃんと見届けさせてもらおうかとも私は思っている。君の名前も覚えた。私はこれから君がやることを、一人の人間として見守っていくつもりだ。それを忘れずに…いいか?]

[はい…]

刑事の言葉に促されるようにして警察署を出た和範は、重い足取りで家路についた。電車を降り一人で自宅に通じる暗い道を歩いていくと、自然に涙が溢れてくる。

(自分は何てことを…何て独りよがりな…)

こんな重い事実を知らされることになるとは思ってもみなかったが、それでも和範は警察署を訪ねたことを後悔はしなかった。会社を辞めた勢いに乗じて自分の償いを少しでも早く始めようとそのまま警察署を訪ねた和範だったが、結果としては思いも寄らなかった重い課題を抱えての出発となった。今は後悔の涙をいくら流しても流し尽くすことは出来ない。ただ、ひたすら自分を正当化させていたあの時と今の自分は違う。遠藤は助けを呼ばなかったのではない、呼べなかったのだ。だがそれでも自分だけは聞いたのだ。あのか細い小さな声を…あの時、自分が行動を起こせば遠藤は助かったに違いないのだ。和範は当時の担任の先生に電話で遠藤の行方について尋ねられ、思わず口を開きかけたあの夜のことを鮮明に思い出していた。あの時、自分は間違いなく保身に走った。知っていたなら何故もっと早く言わなかった?君が彼を閉じ込めたのか?君はクラス委員でありみんなの模範となるべき生徒ではないか…何故危険な状態にある友達を放っておいたのかと、先生方をはじめみんなから批判され自分はエリートではなくなってしまう。和範はみんなから白い目で見られ見放されてしまうような気がして、そんな目で見られるのが嫌で言うに言えなかったのだ。

(済まない…遠藤君…)

和範は静かに目を閉じて、十五歳という若さで亡くなってしまったクラスメートに心から詫びた。そして必ず彼の墓前でも謝罪し、遺族と当時の担任に事実を告げ、許しをこう為に行動することを改めて誓うのだった。

(泣いていても何も始まらない。今は行動あるのみ、僕はもう、独りよがりで卑怯なエリートではない。血の通った人間として胸を張って生きていく。そのためにも今こそ生まれ変わるんだ。)

クラスメートの死について、彼が死に至る経緯のその衝撃の真実を知らされた夜、帰宅した彼は中学校の卒業アルバムを引っ張り出すと、全ての責任を一人でとる形で学校を去っていった当時の担任の女性教師の住所を確認し、改めて彼女に長い長い手紙を書いた。遠藤の母親には以前同じように長い謝罪の手紙を出していたのだが、宛先不明で戻ってきていた。彼女の住所を知る手掛かりは、今のところ皆無に等しかった。母親の所在をどのようにして知ればいいのか考えあぐねてふと同窓会という言葉が頭に浮かんだが、思い返せば中学の同窓会の案内状など一度も来なかったように感じる和範だった。同窓会そのものが一度もなかったのか…それは定かではないが、その背景には遠藤の死という忌まわしい事実が影を落としていたのは間違いないといえた。それと同時に、ほぼ一年間クラス担任として生徒達の為に懸命に尽力してきた女性教師の性急な辞職にあったともいえる。当時大事な受験を目前にして先生が急に辞めてしまったことで、生徒達の戸惑いは勿論大きかったが、それよりもクラスメートの死というショッキングな事態に直面した生徒達の心の傷の方が、大いに心配されるものだった。学校側の配慮ですぐにベテランの先生が担任となり、それからは新しい先生の元で友の死をゆっくり悼む暇もないくらい慌ただしい時間が過ぎていったのだが、さすがにこのクラスの生徒達にとっては同窓会は何年経っても開こうという気持ちにはなれなかった。それでも何か小さなサークルでの会合や懇親会を兼ねた飲み会は個々に何度か行われていたようだが、和範はたとえ誘われても一度も参加したことはなかった。参加する気にならなかったというより、遠藤のことを少しでも思い出したくなかったからといえた。彼等と会うと遠藤のことをどうしても思い出していまう。

(やっぱり…忘れたようでいて内心は気にしてたんだな…でも今更仕方ないか。)

和範は気を取り直すと、改めて当時の担任だった女性教師の名前を思い返していた。

(えっと…浪川先生…そうだ!浪川先生だ!)

アルバムを見ながら、当時の担任だった女性教師の名前を確認する。然しアルバムの集合写真に生徒達と共に写っている先生はその浪川ではなく、彼女が去った後慌ただしく担任におさまり大変な時期を強引ともいえる手法で事務的にまとめてきた、後任のベテラン男性教師だった。浪川先生は…と捜してみると、片隅に小さな枠で囲って寂しく写っている。だが遠藤の写真はクラス写真にすらなく、後方のページの中で追悼と記され一人寂しく写っているだけだった。

(みんなと一緒じゃないのか…一人だけなんて寂しすぎる。)

和範は、今更ながら心が悼むのを感じた。やはり他の生徒と一緒に載せると、子供達が見る度に心の傷として思い返してしまう。だが、紛れもなくこの学校の生徒だった彼の存在を消す訳にはいかない。それは、悩み抜いた先生達が迷った末に出した苦肉の策だった。一応遺族の了解を得た上で、このアルバムはこういう体裁を整えたと和範はその時に聞いている。まだ十五歳だった和範は、その時はあまり特別な感情は抱かなかったが、今の彼なら先生達がそして誰よりも遠藤の母親が、どんな思いでそのアルバムを作りまた受け取ったのかその心を推し量ることが出来た。和範は胸が潰れるような痛みを覚えるのだった。それはそれで、とにかく自分にはやらなければならないことがある。和範は気持ちを切り替えると、浪川先生に宛てて書いておいた手紙をすぐに投函した。届くのを信じて出したのだが、たとえ何と思われようとこの手紙は絶

対に先生に読んでもらわねばならないと思った。十五歳の時の和範は当時の担任だった浪川先生に[あなたがそんなことをする人間だとは思わなかった…]と非難され呆れられるのを何よりも恐れていた。だが今の自分は違う。自分の過去の卑劣な行動を先生と遠藤の母親に正直に告白して謝罪し、許してもらえなくても今の自分の思いを少しでも伝えなければならないのだ。そのためにもこの手紙は絶対に届いて欲しい。読んで欲しいのだ。すると考え込む和範に妻の正代がいきなり声をかけた。

[何…?]

[あっううん、遠藤君のお母さんは引っ越してたんでしょう?浪川先生も引っ越してる可能性あるよね。]

[そう…だよね。確かに…]

妻の言う通りだった。読んでもらえるかどうかその不安は当初からあった。事実遠藤の母親に出した手紙は、宛先不明で戻ってきている。だが、和範は正代に強く言い放った。

[住所が変わっていても、必ず捜し出して許しを請うつもりだよ。この手紙は何としても読んでもらう。その上で僕は会いに行くつもりだ。勿論、遠藤君の墓に手を合わせ心から謝ろうと思っている。簡単には許してくれないだろうけど、許してくれるまで僕は決して諦めない。]

[あなた…]

夫の強い決意を聞いて、正代は感慨深げにしっかり頷いた。遠藤がかなり早いうちから低体温症となり、意識も薄れて助けを呼ぼうにも呼べない状態であったことを警察から帰って来た夫に聞かされた時は、さすがに正代も強いショックを覚えたのだが、当の和範にはもう動揺はなかった。帰宅したその夜、妻に警察から聞かされた内容を涙ながらに打ち明けた和範だったが、ひとしきり涙を流すともう決して気持ちが揺らぐことは無かったのである。全てを受け入れた上で、自分は人として為すべきことをする。後悔するだけした後には、これから辿るべき道が見えてきたようだ。正代はそんな夫の横顔を見つめながらふと思った。

(まるで今のこの人は、優等生でありながらも喧嘩っ早いがき大将みたい…もしこの人が最初からプレッシャーを与えられることなしにそんな人間になっていれば、遠藤君の悲劇は無かったかもしれないし、この人が今になってこんなに苦しむことも無かったかもしれないんだわ。この人は道は誤ったかもしれないけど、根っからの悪人じゃない。決して先は見えないけど、これからもこの人をしっかり支えていこう…)

一度は夫に怒りを覚え複雑な思いを抱いた彼女だったが、今はそんな気持ちも消え正代は自分ももう絶対に迷わないことを心に誓っていた。この先どんなことがあろうと、自分は妻としてずっとこの人を支えていく…もう迷わない。そしてそんな妻の決意を知ってか知らずか、和範はひたすら筆を走らせてきた。和範はその手紙を書くことで償いへの一歩を確実に踏み出したのだった。だがそのためには先ず相手が会ってくれなければならない。和範はどんなに詰られようと謝りに行くつもりだったが、その前に手紙で自分の過ちを告白し、これからしっかり償っていこうと思っていることを少しでも相手に知っておいて欲しかった。そんな気持ちで書いた手紙だが、相手に確実に届くかまた相手の住所を捜し出すことが出来るかは何ともいえないところだった。叉和範は思う。

(あいつら…今どうしてるんだろう…)

遠藤を直接いじめ、彼が死に至る原因を作ったあの実行犯ともいうべき三人について、今何をしているのか穏やかに暮らしているものなのか、和範には多少なりとも気になるところではあったが、然し今自分が向き合うべきは彼等ではない。被害者である亡きクラスメートの遠藤と彼の母親、そして浪川先生…彼等に謝って許しを請うことは、何よりも和範が自分の過去としっかり向き合うことに繋がる。和範は遠藤の母親の住所を捜しながら、浪川先生からの返事を待った。同時に、彼等に会う為にいつでも旅立てる準備をするのも忘れなかった。そんなある日のことだった。浪川先生に手紙を出した翌日の夕方、不意に家の電話が鳴った。和範は何故か直感で浪川先生からの電話だと思った。手紙を出したその結果が、どういう形で現れるか勿論わからない。怒りの余り直接電話を掛けてくるか、訪ねて来る場合だって有り得る。浪川先生本人が怒りにまかせてというのは考えにくいのだが、何故か鳴り響く電話の音に相手の相当な憤りを感じてしまう和範だった。

[浪川先生、お元気なのだろうか…]

もし電話の相手が先生なら、どんなにきつい言葉を投げかけられても自分は耐えられる。怯みはしない。今の自分ならしっかり受け止めることが出来る。この電話の主が償うべき相手…当事者である可能性もあるのだ。そう思って受話器を取った和範は、相手が高齢の男性で震える声で口を開くのを耳にしてもしやと思った。その声には紛れもない怒りがこめられていた。聞き覚えのない声だったが、やはり手紙を読んだ相手だ。声には落ち着いた口調だが、怒りを内に秘めたようなそんな堅さがあった。

[もしもし、原田さんのお宅ですか?]

[はい、そうです。]

[原田和範さんっていうのはあなた…?]

相手は名乗ろうとしないし和範も尋ねない。ただ、固唾を飲んで次の言葉を待つだけ…と次の瞬間その声は、和範が心の底で密かに恐れていた厳粛な事実を口にしたのである。

[私は、あんたが手紙を出した浪川春江の夫です。妻春江は、二年前に病気で亡くなりました。私は迷ったが、あんたから春江にきた手紙を読ませてもらいました。春江もきっと許してくれると思って…手紙には、思いも寄らなかった衝撃的な内容が書かれてありました。私自身複雑な気持ちというより、あんたに対して勿論怒りがある。近くにいたら、一発ぶん殴ってやりたいところだ。だがね、春江はそんなこと決して望んじゃいないだろうと信じて堪えようと思う。けどあんたには是非知っといて欲しい!春江があの事件でどれだけ傷付いたのかってことを…身も心もぼろぼろになるまで傷付いた末に、妻は天職とも思っていた仕事を辞めたんです!春江が、どれだけ教師という仕事に情熱と誇りを持って取り組んでいたか…それなのに、身も心もぼろぼろになるまで傷付いて辞めざるを得なかった。そして…復職も叶わずそれから二度と教壇に立つことなく、失意のうちに病になって闘病生活を続けながら死んでいった。私はやっぱりあんたを恨む。あんたがあの時、その子が閉じ込められていることをみんなに教えてくれてさえいたらあんな悲劇は起こらんかったかもしれん。そう考えると、あんたに対する怒りをどうすることも出来ない。あんたは人を傷付け、助かる命を見殺しにした。あんたが償わなければならないその罪は確かに大きい…]

低い感情を押し殺した声だが、それだけに浪川先生の夫だというその人物の和範に対する怒りが、体の痛みを覚える程ひしひしと伝わってくるのだった。それと同時に、和範は出来るだけ考えないようにしていた最悪の事態が現実になったことに激しく動揺したのだった。恐れおののきながらも彼は口を開く。

[申し訳ないです。先生は…亡くなられたんですね。もう謝ることも出来ない。勿論謝って済むことではありませんが、私は償いを続けていきます。自分に出来る形で…これからもずっと…]

[あんたに出来ることは謝ることだけじゃろうが!]

感情が爆発したように、和範の言葉を遮る突然の激しい怒号…[あなた…]ふと見ると妻の正代が、心配そうな表情で受話器を握る和範を見つめている。和範は妻を安心させるようにゆっくり頷くと、相手の怒声にも動じることなく静かに言葉を発した。恩師が既にこの世にいないと知らされた時は確かにショックだった。然し彼の今の決意は確固たるもので、どんな大声にも罵声にも和範の心は怯まなかった。和範は静かに言葉を続ける。

[その通りです。今の私に出来るのは償うことだけです。先生が亡くなられたことを私は知らなかった。恥ずべきことです。と同時にそうでないかと恐れてもいた。直接お会いして謝ることが、永久に出来ないのだとはっきりわかることが私は怖かったのです。…私は、先生のお墓の前で頭を下げたい…迷惑をかけたあなたにも謝りたい。謝ることしか、今の私には出来ないのですから…]

言葉を尽くして素直に自分の気持ちを口にする和範に、相手は厳しい口調を幾分緩めて今度は思いがけないことを話すのだった。

[あんたは確かに内に問題を抱えた生徒だったんだろうね。外面に惑わされそれを見抜けなかったのは、うちの奴が教師としてまだまだ未熟だったということか…うちの奴が生きていたら多分こう言うだろうな、お父さん、それ以上この子を責めないでやってくれって。上辺だけでこの子は大丈夫だと判断し、その実心の闇を全く見通すことが出来なかったこの私が一番悪いのだからと…あいつが生きていたらきっとそう言うだろうな。]

[浪川さん…]

妻を思いしみじみと語る亡き恩師の夫の言葉に動揺した和範は、その人物の声にもっとしっかり耳を傾けようとしたが、不意にガシャンと音がして電話は切られた。もうこれ以上話すことはないという、相手の意志表示だったのだろうか…それともこれ以上話しても怒りや虚しさが募るだけだという思いから切ったの

だろうか…それはわからないが、和範は先生が二年前に病気で亡くなっていたことを知らされて今更ながら後悔の念が募るのだった。

[先生、ごめんなさい…]

冷静に受け止められるかと思ったが、和範の心は突然電話を切られたことで更に動揺していた。亡き恩師を思い自然に涙が零れる。先生は息を引き取るその瞬間まで、紛れもなく教師だったのだ。いや、教師であろうとしたと言うべきか…少なくとも生涯の伴侶だった彼女の夫には、妻がもし生きて手紙を読み、和範の懺悔に満ちた告白を知ったらどう反応し何と言ったのか、それが手に取るようにわかったのだろう。その意味では途中で辞めざるを得なかったとはいえ、浪川先生は確かに教育者…先生そのものだったといえる。和範は受話器を置くと、自分を心配そうに見つめている正代に、あの浪川先生が二年前に病気で亡くなっていたことを静かに告げた。電話はその浪川先生の御主人からで、手紙の内容を知り和範に対して激しい怒りを覚え、彼を叱責した上で妻の死を伝えてきたのだと正代に話した。正代は夫の言葉に驚くと同時に、涙ぐみながらしっかりした口調で教師として思う存分生きられなかった嘗ての恩師への思いを口にするのだった。

[私達恩知らずよね、あんなに世話になったのに二年間もその死を知らなかったなんて…浪川先生のことは、勿論私もずっと気になってはいたの。あんな形で学校を去っていかれたんだもの、口には出さなくてもいい先生だっただけにクラスの皆にとっても忘れられない存在になった筈よ。だけど…あの時の私達には目前に高校受験が迫ってた…感傷に浸ってる余裕なんかなかった…あのまま受験を終えて皆高校生になったけど、でもね私思うの。みんな心のどこかに何かやり残したような納得いかないような、そんな気持ちを抱えていたんじゃないのかしら。私にはそう思えてならない…]

[納得いかない…気持ち?]

[ええ、そうよ…]

正代は和範の言葉に頷くと更に続けた。

[このまま先生を辞めさせていいのか…?先生と別れることになっていいのかって、そんな複雑な気持ち…一方で何もかも忘れたい、先生のことも考えたくないってそんな気持ちも確かにあったわ。やっぱりみんな自分が大事だったから…そして結局、私達は何も出来なかった…行動をおこさなかったのよね。先生に辞めないでって言えなかった…先生は全ての責任を一人でとる形で学校を去っていかれた…あんなに世話になったのに…あんなに私達の為に尽くしてくれたのに…そう思ったけど、どうすることも出来なかった…子供だったからってその一言で済ませたくないけど、でもやっぱり何も出来なかったのよ。それにしても、いい先生だったわ…][そうだね。]

[ええ、子供を思って…ひたすら信じて、優しい先生だったのに…でも、ある意味先生は優し過ぎたのかもしれない。」

[優し過ぎた…?]

思いがけない妻の言葉に、和範は少し驚いて正代を見つめた。正代はそんな夫に臆することなく続ける。

[先生は子供達を信じて疑わなかった。そして結局、先生は遠藤君を閉じ込めた生徒達のいじめの実態も、そして何よりあなた自身の心の闇も、見通すことは勿論気付くことも出来なかった…先生を非難してるようで心苦しいけど…]

冷静な妻の指摘に和範は頷くと、静かに口を開く。

[御主人も同じようなことを言っていたな。もし妻が生きていたらきっとこう言うだろう。お父さん、その子をこれ以上責めないでやってくれ、その子の心の闇を見通すことが出来なかった自分が悪いのだと…教師として未熟だったのだと…でもそれでも…]

和範は堪らなくなって頭を抱えた。

[もう謝りたくとも、直接謝ることは出来ないんだ。遅かった…先生が生きておられる時に、会って頭を下げるべきだったのに…卑怯な行動をとった自分を叱ってもらうべきだったのに…僕はこんな自分を見つめ直し、もっと早くこんな気持ちになるべきだった…]

死というものは、人と人とを分かつ絶対的な壁のようなもの…直接謝ることが永久に出来なくなった和範の後悔の念は、今やどうにもならない程強くなっていた。すると正代は、自分をひたすら責め続ける夫の肩に優しく手を置き、頭を抱える和範に静かに語り掛けるのだった。

[焦らないで…先生が亡くなられてたのは本当に残念だけど、焦ったら駄目よ。償いは穏やかで素直な気持ちのまま続けるべき…あなた自身が過去に犯した過ちに向き合う為には、焦りは禁物…私達は今、人生の再生をかけているのよ、それも何もかも捨てて…だからって気負ったら駄目…正直に生きていたら何とか道は開けるもの、私はそう信じてるわ。]

[そう…そうだな。]

妻の穏やかな口調には、和範自身を癒やしてくれるそんな響きがあった。その後和範は、浪川先生の墓で謝罪するために先生の墓の場所を教えて欲しいと、今度は改めて浪川先生の御主人に宛てて手紙を書くことにした。電話番号がわからないわけではない。だが和範に激高している彼と直接話すよりも、今は手紙で自分の覚悟を伝え、有りの儘の心情を伝えるべきだと思ったのだ。それにしても…遠藤の母親には、まだ自分の思いは全く伝えることが出来ていない。和範は今、自分がやるべきことについて思いを巡らしていた。自分が謝るべき相手は、本当にあの二人だけでいいのか…浪川先生の家族にも辛い思いをさせたのは事実だし、当の遠藤にも墓前で頭を下げるしかないが必ずするつもりだ。たとえ土下座しても自分の罪は簡単に許してもらえるものではないと、和範は覚悟もしていた。それでも謝らなければならない。自分は血の通った人間なのだから。血の通った人間として生きる為にも…そして…和範はふと思った。遠藤を閉じ込め彼の死の直接の切っ掛けを作った、あの悪ガキ達とは会わなくてもいいのか…彼等が法的に裁かれることはなかったが、考えてみれば彼等と自分は同じ加害者の立場だ。罪の償いはそれぞれに成すべきだろうが、然し…彼等が今どのように生きているのか…遠藤の死について、もしかしたら今の自分と同じように苦しんでいるのではないか…それとも裁判員に選ばれる前の自分のように、まるで他人事のようにそのこと自体を忘れ、平然と暮らしているのだろうか…和範は考えまいとしても、どうしても彼等のことを考えてしまう自分をどうすることも出来なかった。





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