謎の声にみちびかれて
第一章
「出して‥お願いだからここを開けてよ‥」
遠くで助けを呼ぶか細い苦しそうな声がする。あの声がする所に行かなければ‥そして助けてあげなければ‥そう思って必死に身体を動かそうとするのだが、いかんせん身体はびくともしない。どうにもならずに唇を噛みしめ、そのうちに身体も心も自然に項垂れてしまう自分がいた。
(そう‥自分は何も出来ない。いや出来ないというより、最初から何も聞こえなかったのだ。誰が自分に助けなど求めるものか‥)
それは諦めといった境地ではなく開き直りというべきものであり、同時に自分に言い聞かせるいつもの言い訳だったかもしれない。するとそのうちに、暗闇の中で自分を呼ぶ声が再び聞こえてくる。だがその声は、助けを求めるあの切迫した声ではなかった。
「あなた、どうしたの?あなた‥」
体を揺すられて、次第に現実の世界を取り戻していく。そして和範は、いつものように妻の正代に起こされて悪夢から覚めるのだった。
「又夢見たの?うなされてたわよ。」
「あっ‥ああ済まない。」
「この頃あなたしょっちゅうじゃない。疲れてるんじゃないの?それとも何か心配事でも?話して‥」
心配そうに覗き込む妻に大丈夫だとしっかり笑顔を見せて、和範は床につくために寝室へ向かった。だが歩きながらも、和範の心は知らず知らずのうちに、過去の忌まわしい記憶を探るように目まぐるしく思いを巡らしていた。
(何故、こんな夢を見るんだろう‥あの声は誰?あの声を聞いた後にいつも心が痛むのは何故なんだ?あの声は俺に助けを求めているとでもいうのか?良心の呵責‥?こんな悪夢を繰り返し見るのは、俺が良心の呵責に苛まれているとでもいうのか?俺が何をしたというのか‥)
はっきり思い出せない。然し和範には気づいてこそいないものの、あの声について確かに心に封印していた忌まわしい記憶があったのである。そして思い起こしてみれば、この悪夢に悩まされるようになったのは、和範が二ヶ月程前に思いがけず裁判員に選ばれたことがきっかけだった。
優しくて生真面目、その上成績優秀でスポーツ万能‥更に容姿も申し分ないとくれば、その人は間違いなくその人を知る人々の多くに畏敬の念をもって認識されるようになる。正しく和範は、そのような目でみんなにみられてきたし、今もそう思われている人物だった。彼は幼い頃から優等生として知られ、中学高校大学とスポーツも万能で勉学とスポーツを立派に両立させ、更に一流大学を出た後は文字通り一流企業に就職し誰もが羨む華やかな人生を歩いてきた。その上和範は性格も穏やかで普段から人を思いやる優しい人間だった。少なくとも今の彼を知る人々のほぼ全てが、そのような彼を本当に尊敬に値する人間だと信じて疑わなかったといえる。そして彼のような非の打ち所のない人物は、多少なりとも周囲の称賛の声に奢ってしまいかねないものなのだが、和範には少しもそのような所はなかった。そんなところも、彼が周囲から尊敬の目で見られる理由の一つだった。そんな彼が大学時代から付き合っていた現在の妻正代と結婚した時は、華やかな経歴の和範と地味な印象の正代とは少し不釣り合いではないかと、周りの人々は陰口を叩いたものだった。だが和範の新妻への愛情は確固たるもので、誰もがそんな彼の強い愛情に感銘を受け心を打たれたものだった。
二人の結婚式は誰もが感動する素晴らしい式となったが、正代には、そんな優秀なエリートの妻になることに、内心戸惑いもあったようだ。それでも和範の自分への揺るぎない愛情を感じ取ると、正代は安心したように和範への信頼感を深め、全力で夫を支える良き妻であろうとした。何もかもが順調だった。順調にいく筈だった。たった一つのことを除いては…たった一つのこと…それは二人が結婚して今年で七年になるのだが、二人の間にまだ子供がいないことだった。子供が出来ないことについて夫とあまり正面切って話そうとしない正代だったが、さすがにかなり気にしているようで、数年前から思い悩んでいる様子が見て取れた。和範は和範で表面上はあまり気にしないふうを装っていたが、やはり心のどこかになかなか親になれないという現実を受け入れられない自分がいるのを、否定出来なくなっていた。そのうちに二人よりも後に結婚した弟夫婦に先に子供が出来て、両親から[おまえ達も早く孫の顔を見せて私達を安心させてくれ。]と直接懇願されるようになってから、和範は何故か少しずつ心に引っかかるものを感じ始めるようになってきていた。子供…命…何か、自分は大切なことを忘れているような妙な…不思議な感覚…まるで自分が親になることが罪悪そのものであるかのような…
(何でこんな風に思うのかな?自分は親になれない、なってはいけないって何でそう考える…何が引っかかってるんだろう…)
よく考えてみるのだが、そのような気持ちを何故自分が抱いてしまうのかわからない。まだこの頃は、現実の世界では良心の呵責に苛まれることのない和範だった。
そのうちに顔を合わせる度に孫の顔を見せるようにせがんでいた両親が、何故かぱったりその話をしなくなった。急に何も言わなくなった両親に戸惑った和範だが、弟の久範からある日その訳を聞かされると、驚くと同時に却って複雑な気持ちになるのをどうすることも出来なかった。それは、正代の両親から不妊の原因が正代にはないという医師の確固たる証明書を添えた手紙が、和範の両親に送られてきたことによるものだった。その手紙には、正代には妊娠出来ない身体的障害は何一つなく健康そのものであること、それは医師が書いてくれたこの証明書ではっきりしている。だから子供が出来ないことについて娘を責めないで欲しいという、娘を思う親心が切々と綴られていたという。そしてそれは同時に、不妊の原因が夫の和範の方にあるのではないかという、正代の両親からの無言の圧力が秘められていた。両親が孫のことを全く口にしなくなったのはそんな経緯があったからだと弟から聞かされた時、和範は確かにあまりいい気持ちはしなかったが、それでももうあまり思い悩むのはやめようと自分に言い聞かせ、それからは妻と二人再び穏やかな暮らしへと戻っていった。正代とは子供のことは意識して話さないようにしていた和範だが、正代も同じように子供のことは何も言わなかった。両親とはそれからもちょくちょく顔を合わせていたが、父も母も孫の話は全く口にしなくなっていた。それでも…気持ちが完全に晴れた訳ではなかった。和範は折に触れ、弟が言っていた言葉を思い出すのだ。
[兄さんだけがそんな遺伝子に影響を及ぼすような病気にかかったなんて、絶対そんなことなかったよ。確かに僕には子供が出来て兄さんとこはまだだけど、だけど兄さんも僕も同じように育ったんだから出来る筈だよ。麻疹…?水疱瘡…?兄さんが罹った後、僕も必ず同じ病気に罹ってきた…でも僕は、普通に親父になってるしね。
実は僕…義姉さんに原因があるんじゃないかって、ずっとそう思ってたんだ。親父達も多分そうだと思う。これは義姉さんには言わないでね。でもお医者さんが絶対そんなことはないって言ってるんでしょう?証明書まで書いてくれたんだから…だったら何故なんだろうね。兄さんのような優秀な人間の子供なら、さぞや出来のいい子が生まれるだろうに…]
[それは皮肉か?]
[ううん、でも兄さんも病院で検査を受けるつもりはないんでしょう?]
[そこまでは考えていない。]
[それなら子供のことは忘れて、成り行きに任せて暮らしていくしかないよ。そのうちに忘れた頃にひょっこり出来るかも…]
何か忌々しい気持ちに駆られつつも、最後の言葉に苦笑して和範は弟と別れた。さすがに病院で子供が出来ない理由を、自分の身体について色々調べられるのは正直言って抵抗があった。屈辱感といったものだろうか…エリートとして認められ続けてきた自分が初めて味わう、それは和範にとって屈辱以外の何ものでもなかったのである。その後弟と別れて帰宅した和範は、妻正代の顔を見ながら、改めて自分は夫婦二人の生活に十分満足していることを静かに伝えた。
直接子供のことは口にしなかったが、和範は敢えて口にしないことで自分の気持ちをしっかり受け止めて欲しいと思ったのである。正代はそんな夫の言葉に最初は少し戸惑ったようだったが、やがてゆっくり頷くと、彼女らしい控えめで穏やかな微笑を見せるのだった。子供のことはそれからは二人の会話から一切消えてしまったが、二人はそれはそれで元の静かな生活を取り戻していた。いや、取り戻した筈だった。しかしながらそれは和範自身がそう思っただけで、子供が出来ないことに端を発した彼自身の言い知れぬ不安は、この頃から少しずつ芽生えてきて、彼の誰もが羨む素晴らしい人生の歯車を確実に狂わせていったのである。但し、そんな事態に怯むことなく真っ向から立ち向かっていったのも彼自身であったが…そんな彼が抱いた次の不安は、思いがけない所から来た封筒で芽生えることになった。
[あなた、裁判所からあなたに手紙が来てるわよ。]
正代がある日、緊張した面持ちで和範に封筒を持って来た。
[裁判所?何でそんな所から…]
[わからないわ…]
正代も少し不安げな表情で、封を切る夫の手元を見つめる。そして封を開け中の書面を読んだ和範は、思いがけない文面に驚き早速心配そうな表情の妻にその内容を伝えた。
[僕が…裁判員に選ばれたそうだよ。これは召喚状だ。]
[えっ…]驚く正代に、和範は落ち着いて話を続ける。
[何月何日の何時に、横浜地裁へ来るようにと書いてある。もし断る時はその理由を書いて書状で提出してくれと…驚いたな、裁判所からの手紙なんて何だろうと思ったけど、裁判員か…まさか自分が選ばれるとは…][でもぴったりじゃない、あなたには…勿論受けるんでしょう?]
正代は、非の打ち所のない誰からも立派な人間だと目される夫が裁判員に選ばれたことを、驚きというより寧ろ誇らしさをもって受け止めているようだった。
[うん…今のところ仕事も大丈夫だし、断る理由はないしね。]
[断るなんて…あなたにぴったりの役目じゃないの。きっとみんなそう言う筈よ。]
[だけど、僕が裁判員に選ばれたことをみんなにわざわざ教える必要はないからね。勿論仕事に影響するから、会社にも上司にも言わなきゃいけないし、会社から止められたら断ることになるかもしれないけど、今のところはそう大したプロジェクトも入っていないからね、多分受けることになると思う。だけど裁判員ね…人を裁く立場に僕がなるとはね…]
数年前裁判員制度が始まった時には、難しい判断を強いられるような様々な裁判がメディアで話題に上がっても別に何の感慨も抱かなかった和範だが、いざ自分が選ばれてみるとさすがに気が引き締まり、担当することになる事件が難しい判断を強いられる事件でなければいいのだがと、ついそこまで考えてしまうのをどうすることも出来なかった。それから二週間後、緊張した面持ちで横浜地裁の建物の中に入る和範の姿があった。和範夫婦が住んでいる横浜市は、首都圏への通勤者を多く市民として有しているいわば東京のベッドタウンであり、通勤可能な圏内にマンションを購入して悠々自適ともいえるマイホームライフを満喫している和範自身、確かにエリートに違いなかった。そんな彼が、裁判員として人を裁く立場になったのだ。正代が言った通り会社の上司や同僚は勿論、彼を知る人々の殆どが彼が裁判員に選ばれたことを知ると、申し分のない人選だと口々に評した。裁判員は人柄まで選定して選ばれるのだと、中にはそう公言して憚らない人もいた。それだけ和範が周囲から人望が厚い人物だと思われているということだが、思えばこの頃から和範の脳裏に何かもやのように引っ掛かっているものが生じてきていた。それが一体何なのか…無意識のうちにあまり詮索しないようにしていた和範だが、いざ犯罪者と向き合うことになると思うと、嫌でもそのもやのことを意識せざるを得なかった。もやとは忘れてはいけない何か大切なこと…
(何が引っ掛かってるんだ…何が…)
いつも頭の中に浮かんでは消えかかる過去の遺物…和範はそれを感じる度に不安に駆られたが、それが何なのか明らかになるのはもうすぐだった。
[皆さん、宜しくお願いします。]
不意に声がした。地裁に入って通された部屋で、和範は他の選ばれた裁判員と共に担当裁判官から丁寧な挨拶と説明を受けた。和範を含めて選ばれた裁判員は六名、男性四名女性二名で男性は皆会社員、女性は二人とも主婦で一名は子供を親にみてもらいながらの参加だった。
[皆さん、ご苦労様です。裁判が終了するまでこれから三カ月程かかると思いますが、宜しくお願いします。]
静かな部屋に、担当裁判官の落ち着いた声が響く。互いに挨拶し自己紹介を終え裁判についての説明を一通り聞いた後、担当裁判官は和範達が担当する事件の概要について重い口を開いた。それは何とも言い難い、考えようによっては確かに判断に窮する難しい事件といえた。その事件とは、二人組の大学生の男が遊ぶ金欲しさにひったくりを思いつき、そのターゲットとして選んだ初老の女性を誤って自転車ごと転倒させ死亡させたという事件だった。事件の内容が詳しく述べられた後、被告の供述調書そして取り調べにあたった警察官の調書、更に被害者の人となりそして遺族の意見陳述書など、判決を下す為に決められた日程の間で、和範は幾度となく拘束された地裁の空間の元必要書類に目を通すことになったのだが、見れば見るほど彼は何か被告二人の人間性に納得出来ないものを感じた。彼等は勿論謝罪はしている…反省しているという…だがそれは心からの謝罪だろうか?反省だろうか?ただ運が悪かっただけ…偶々ターゲットとして狙った相手が転んで打ち所が悪くて死んでしまっただけで、自分達はそんなに大それた罪を犯してしまったことになるのか…何か二人の供述調書を読んでいると、二人の真意がそういったところにあるのではないかと和範には思えるのだった。そしてそう感じたのは和範だけではなく他の裁判員も同じようで、実際取り調べにあたった警察官も意見陳述書で、二人は口では申し訳なかったと言っているもののその態度には悪びれた様子はなく、二人はやってしまったことの重大さを今ひとつわかっていないように思うとそう記されていた。それでも二人には最初から被害者を死なせようというような意図は勿論なく、二人共強盗及び過失致死の初犯として裁かれることになるのだ。和範は無論人を裁くことの難しさは十分自覚して裁判員を引き受けたのだが、それでも日々過ごす中で戸惑うことが多かった。自宅に帰っても裁判員は裁判の内容を、家族は勿論誰にも話すことは出来ない。もし話したりしたら罰せられる。緊張状態を強いられて生活する中、それでも時は確実に過ぎて三回の公判を経た後判決の日はきた。和範達裁判員の被告に対する心証は、皆あまり良くなかった。彼等は検察の求刑の刑期をあまり減らさないようにして、二人に実刑を下した。勿論何の罪もない人の命が奪われている以上執行猶予はつけられなかったし、皆つけようとも思わなかった。和範は裁判長が判決文を読み上げている間、被告が人をおちょくったような態度を見せるのを間近で目にして、怒りがこみ上げるのをどうすることも出来なかった。それでも和範に出来ることは限られていた。彼がすべきことは、今自分に出来ること…それだけだった。いや、それだけの筈だった。その時[偽善者…]ふと誰かの声がした。地裁で裁判員として立派に務めを果たした和範達六人が、いつもの部屋に戻って来たその時だった。
[終わった…]
やり遂げたという満足感を秘めた言葉を、感慨深げに誰かが呟く。担当裁判官や他の裁判員ともう顔を合わせることはないだろうと思うと、少しほっとしたそれでいて寂しいような心持ちになっている和範の耳元に突然誰かが囁いた。[えっ…]驚いて周囲を見回すが、勿論そういう言葉を発したと思われる人物はいない。見ると他の裁判員や地裁の職員は、それぞれ堅い握手を交わし別れを惜しむ言葉が部屋中に飛び交っている。だが、その中で確かに聞こえたのだ…偽善者だと…そして正にその時だった。和範の脳裏に、封印していた忌まわしい記憶の切れ端が突然蘇ってきたのだ。
[偽善者だ…おまえは偽善者だ…]
今にして思えば、その言葉は何十年も忘れていたある重大な事実に対する、和範自身の良心の呵責から発せられた、正に彼自身の声だったのかもしれない。和範はその時、自分が何十年も前に一人の人間を見殺しにしたことを思い出したのである。
[あっ…]自分はあの時、確かに助けを求めていた人を見殺しにしている。和範は呆然としその場に立ち尽くした。すると彼と同じ立場の裁判員だった水上という男性が、不意に和範に話しかけてきた。
[原田君どうしたの?ぼおっとして…]
[あっああ…いや、何でもない。]
必死に平静を装おうとしても、動揺は隠しきれず顔に出る。この時の和範は自分を保つことで精一杯だったが、相手は更に和範を心配し話しかけてくるのだった。
[何か顔色悪いよ。この後の記者会見、君と波多野さんが代表して出ることになってるけど、大丈夫?体の具合でも悪いの?]
[記者会見?]
そうだ…彼に言われるまですっかり忘れていた。自分はこの後マスコミの前に出て、この事件を担当した裁判員として、被告へ判決を下したことに対する思いをコメントしなければいけない立場だったのだ。六人の代表として女性の波多野さんと共に、非の打ち所のないパーフェクトな人間として彼が選ばれたのだが、他の五人は最も裁判員に相応しい和範が、代表して意見を述べるべきだと最初から主張して譲らなかった。だが…和範は今まで味わったことのない、泣き出したいような衝動に駆られ自然に体が震えてくるのをどうすることも出来なかった。出来ない…出来ない…自分がどれだけ罪深い人間なのか、今やっと思い出したのだ。
[原田君、大丈夫?気分でも悪いの?]
青ざめていくその表情に気付いて、水上は勿論外の裁判員も声をかけてきた。地裁の職員も心配そうに彼を見つめている。
[すみません、ちょっと気分が悪いので、記者会見は代わってもらえませんか?]
和範は重い口を開いて、その場にいた全ての人々に頭を下げた。
[あっああ…それは構わないですよ。水上さん、宜しいでしょうか?]
[僕はいいですけど…]
[原田さんはすぐ帰られますか?]
[はい…]
[あの…大丈夫ですか?何なら車で御自宅までお送りしましょうか?]
[あっいえ、ゆっくり行けば大丈夫です。すみません…]
和範自身、今は一刻も早く一人になりたい心境だった。それでも自分という人間を維持し、体裁を整えなければならない。それだけは自分に言い聞かせ、和範は車で送るという地裁の職員の申し出を断ってやっとその場を離れた。一人にはなれたのだが、かといって和範の心が救われる筈もなかった。和範は思い出したのだ。自分が…自分こそが罪人であり、その罪を償わなければならない人間なのだということを…
[何故…何故今まであのことを思い出さなかったのか…そして何故、今になってこの日に思い出したのか…]
和範は歩きながら、必死に自分に問いかけた。思えば裁判員に選ばれてからずっと、彼は心に引っ掛かるものを感じていた。それが何なのかはっきり思い出す切っ掛けになったのは、よくよく考えてみれば被害者遺族の意見陳述書の内容を法廷で耳にしてからのような気がする。和範が担当した事件の被害者は六十四歳の女性で、彼女は若くして夫を亡くし看護師をしながら二人の子供を女手一つで立派に育ちあげた、母としても人としても立派な人生を送った人物といえる。二人の子供は結婚して家庭を持ち、それぞれに孫も生まれ、苦労した分やっとこれからのんびり出来ると本人は勿論そう思っただろうし、子供達もこれからしっかり親孝行をしなければと思っていたのだろう。そんな矢先に起きた事件だった。彼女の子供達は姉と弟で、特に遺族の意見として採用された姉の言葉は、静かな法廷で正にそこにいる全ての人々の心に染み入るものだった。
和範の耳には、彼女が書いた文章を読み上げる検事の声がまだ響いているようで、それは同時に和範にとってずっと心の奥底に封印していた過去の出来事に対する良心の呵責を、確実に思い起こさせる声ともなったのである。和範は静かに、彼女の言葉を思い出す。
[私は母を誇りに思っています。母は平凡な女性ですけど、立派な一生を送った立派な人でした。人はその時置かれた状況によって、強くも弱くもなります。父が病気で亡くなった時、私は九歳弟は六歳でした。平凡な一主婦に過ぎなかった母はその時は悲嘆にくれましたが、涙を流すだけ流した後、私と弟を育てる為に結婚前に就いていた看護師という職業に戻り、強い母となって時には父親の役割も兼ねながら私達を懸命に育ててくれました。私達は、時にはそんな母に反抗したこともあります。でも母は、どんな時でも真っ直ぐに前を向いて私達に接してくれました。結婚して親になった今母の苦労がやっと身にしみて感じられて、これから親孝行しなければと弟と二人誓い合った矢先に、母は何の面識もない若い二人の男に命を奪われてしまいました。彼等は最初謝りもせず、転倒して打ち所が悪くて死んでしまった母に対して、まるで運が悪かっただけだといわんばかりに悪態をつき、人の命を奪ったことなど何とも思っていないようでした。弁護士の勧めで謝罪文を書いたようで、私達の所へそれを弁護士の方が持って来られましたが、私達は受け取りを拒否しました。彼等が心から謝罪していないのは、法廷での態度がそれを明確に示しています。そんな彼等が書いた謝罪文など、私も弟も読む気にはなれません。彼等は、人の命の重さを全く理解していないと思います。ですが私は思うのです。人は誰でも聖人君子ではない。だけど何の罪もない人の命をうばう、叉軽視するような行為は必ず罰を受けるものです。彼等が今は理解出来なくとも、この後何十年もの人生を生きる間にこの過ちが年月と同じようにその重みを増して、彼等の心を苦しめることになるでしょう。私は自分が理不尽な事件の被害者遺族になるとは思っていませんでしたが、それでも常々考えてきました。人を殺しておいて…被害者が幼い子供や高齢者など無抵抗な弱者なら尚更ですが、その犯人が捕まることなくもし逃げおおせたなら、その人には本当に罰は下らないのかと…もし裁かれなければ、その人は他の大勢の普通に暮らす人々と同様に平凡な一生を送れるのかと…幸せに暮らせるのかと…答えは勿論ノーです。人には良心というものがあります。どんなに善良な顔を装って生きていこうとしても、その人が何の罪もない人の命を奪ったという事実は消えはしません。その人が心から反省し、どういう形で償うにせよその事実としっかり向き合わなければ、その人の心は永久に救われることはないのです。何の罪もない人の命を奪っておいて、平然と生きていこうとしても、その人は決して幸せにはなれません。なれないのですから…二人の被告にはこれから先罪を償う刑期の中で、人の命の重さというものをしっかり認識し噛み締め、学んでいって欲しいと私は心からそう願っています。]
法廷にいる心ある人々全てに染み入るこの文章は、和範にとってまさしく彼が過去に封じ込めていた忌まわしい思い出を呼び起こす最大の要因となった。
[出して…ここを開けてよ…]一度だけ聞いたあの悲しそうなか細い声が、そしてその声を聞いた時の驚きと戸惑いが、今和範の脳裏に鮮やかに蘇る。決して忘れていた訳ではない。だが、自分の所為ではない。自分には関係ないとそう自分自身に言い聞かせ、出来るだけ考えないようにしてきたのは事実ではないか…結果としてその声の主は亡くなっている。あの時、自分が鍵を開けてさえいれば…叉彼が体育館横の用具置き場に閉じ込められていることを誰かに伝えてさえいれば、彼は死ぬことはなかった。間違いなく助かっていた筈なのだ。和範は強い悔恨の念に駆られた。そしてつくづく思うのだった。
(本当に裁かれるべきは自分だ…)
偽善者…確かに耳にしたあの声は、思えばずっと封印してきた和範自身の良心ともいえる、心の声だったのかもしれない。自分は偽善者の仮面を被って、あれから何十年もの年月を平然と生きてきたのだ。和範は唇を噛み締め、静かにあの頃を思い出していた。その頃の彼は、確かにいじめを見て見ぬふりをしていた。彼が中学三年生の時の話だが、クラスの中で最も大人しく母子家庭で家庭的にも恵まれていない遠藤という男子生徒が、クラスの落ちこぼれといったどちらかといえば皆に嫌われている鼻つまみ者四、五名からいじめられるようになった。弱肉強食というが彼がいじめの対象となったのは、やはり彼が誰よりも大人しくいじめられても仕返し出来ない、クラスで一番の弱者だったからに他ならない。それに対し幼い頃から勉強にもスポーツにも秀でていて、おまけに容姿も申し分なかった和範は、当時当然のようにクラス委員長を務めていた。先生やクラスメートからの信頼が厚く優等生ではあったのだが、彼の心は本当の意味での優等生ではなかった。彼は遠藤が他の生徒からいじめられる場面を目の当たりにすると、密かにほくそ笑んだりして楽しんでいたのである。時には、彼等のいじめをこっそり助長するような行為をして、その結果を独りで楽しむようなこともあった。彼がそのような卑怯な真似をしたのは、やはり皆から優等生であり非の打ち所のない人間として見られ続けることのプレッシャーからくるストレスのはけ口として、遠藤がいじめられる姿を見て楽しんでいたからに他ならないだろう。自分はクラス委員長であり、生徒は勿論先生達からも信頼の目で見られている。そんな自分が、先頭切っていじめに加担する訳にはいかない。どちらかといえば止める立場だといえよう。だが…和範は大人しく皆からのろまと陰口を叩かれ何事においても動作が遅い遠藤を、いつも苛立ちの目で見つめていた。やがて彼がクラスの悪友達のいじめの標的になると、そのいじめられる様を垣間見ては密かに楽しんでいたのである。時には、遠藤がいじめっ子達から逃れようとしてもわざと両者が出会うように画策したり、いじめっ子達をわざと誤解して怒らせるように仕向けたりして、その結果を楽しんでいた。この時まだ十五歳の少年だった和範には、人としての良心は芽生えていなかったといえるだろう。(どんなことをされても言い返さないし仕返しもしない。そんな自分が悪いんじゃないか!悔しかったら言い返してみろよ!)
和範自身、この時自分が悪いことをしているという意識は殆どなかった。だが、遠藤に対するいじめは単なるいじめでは終わらなかった。そんなある日、取り返しのつかない悲劇が起きたのである。和範は、心の奥底に封印してずっと取り出そうとしなかった記憶…あの日の出来事を静かに思い返していた。放課後、あのいじめっ子達が遠藤を体育館横の用具置き場に閉じ込めようとこっそり話していたのを、いつものように立ち聞きしていたこと…放課後遠藤の姿を確認出来なかった和範は、密かに用具置き場に赴きその時[出して…お願いだからここを開けてよ…]というあのか細い声を確かに聞いた。だのに自分は知らん顔をして、そのまま家に帰ってしまったのだ。遠藤が閉じ込められていることを知った時、和範は戸惑ったもののやはり一方ではこの状況を面白がっている自分がいた。誰かが開けてくれるだろう。とにかくどうにかなる。自分が開けなくても、誰かがどうにかしてくれる…そう軽く考えていた。それがまさか…遠藤が死んでしまうなんて…和範は今まさに、これまで味わったことのない程強い後悔の念に駆られていた。
(僕は人殺しだ…一人の人間を見殺しにしておいて、今まで良心の呵責すら感じてこなかった…最低の人間だ…)
夜になって遠藤が帰宅していないことを先生から電話で知らされた時、驚きとともに焦りも感じた。確かに遠藤が用具置き場に閉じ込められていることを、言わなければと思った。人の生死に関わることなのだ。黙っていてはいけない。当時は二月、受験間近の厳寒の頃ほっておいたらどうなるかわからない。まだ十五歳だった和範にも、それくらいの良識はあった。いや、あった筈だった。だがその時、和範は保身に走ってしまったのだ。今遠藤が用具置き場に閉じ込められていると話したら、何故そのことを知っているのか…そして何故そのことを早く言わなかったのか…助けようとしなかったのか…そう聞かれるに決まっている。そしてそのことを追及されたら、自分が今までいじめを見て見ぬ振りをしてきたことや果てはそのいじめを助長するような真似をしてこっそり楽しんでいたことまで、皆に知られてしまうかもしれない。それはどうしても、優等生である自分の立場としては避けなければならないことだった。和範はとにかく遠藤を閉じ込めたいじめっ子達の名前を上げ、自分のことは棚に上げて、彼等がよく遠藤にちょっかいを出していじめていたことを告げた。そして彼等が何か知っているのではと、誠しやかに先生に伝えた。その悪友達については、勿論先生や他の生徒達も疑念を抱いていたらしく、中には何も知らないで和範と同じようなことを言ってくる生徒も多数いた。そしてそのまま不安な時間が過ぎ、深夜十一時を回った頃最悪の結果をむかえた。遠藤を捜していた学校の用務員が、用具置き場の中で倒れて冷たくなっている彼を発見したのだった。即座にクラス全員に連絡が行き渡り、和範にも取り返しのつかない悲劇が起きたことが知らされたのだが、彼自身まだ良心が痛むという状況ではなく、ただ何故?という疑問符しかわいてこない心境だった。居所を知っていたにも関わらず口を噤んでいた和範だったが、用具置き場という学校の中にいる以上すぐに見つかる筈だと思っていたのだ。それなのに…和範は混乱する頭で必死に考えた。遠藤が見つからない時にみんなで…といっても大人が殆どだが、学校中を捜した筈だ。用具置き場から出られない状態だったとしても、中から大声で叫べば必ず外の人の耳には届いた筈、何故遠藤は大声で助けを呼ばなかったのか…いくら考えても当の遠藤が亡くなってしまった以上、和範には答えを出すことは出来なかった。その後遠藤の死因が凍死だと聞かされた時も、用務員が用具置き場の中で倒れている遠藤を発見した時そこには鍵が掛かっていなかったと聞かされた時も、和範はもう何も考えることが出来ずに、ただ呆然と事態の成り行きを見守っていただけだった。遠藤の葬式には他のクラスメートと一緒に和範も出席したのだが、その時喪主として涙を流す遠藤の母親の姿を見ても、そんな彼女に土下座して詫びる担任教師の姿を見ても、これといって何の感慨も抱くことのない和範だった。その時和範達クラスメートにはショックを与えてはいけないという配慮があったのか、遠藤の死については事実のみを伝え、あまり詳細が語られることはなかった。この時担任だったベテランの女性教師は、遠藤が亡くなったことを知ると殆ど半狂乱になって嘆き悲しんだが、和範はまるで感情そのものを無くしたかのように、そんな担任教師の様子や他の生徒達が驚き悲しむ様を冷ややかに見つめるだけだった。
そしてその後、遠藤を閉じ込めた当のいじめっ子達にこの悲劇を招いた責任があるのではないかという、みんなからの当然過ぎる批判が集中することになったのだが、当の悪ガキ達は遠藤を閉じ込めたことを決して認めようとしなかった。彼等の悪巧みをいつものように立ち聞きしていて遠藤が用具置き場に閉じ込められていたことにいち早く気付いていた和範だが、結局彼も自白することはなかった。和範はやはり自分の立場を第一に考えていた。だからそのことを、警察も交えた公の場面で口にするわけにはいかなかったのである。それに遠藤の死因が凍死だったことと、用務員が彼を発見した時、部屋には鍵が掛かっていなかったということで事件性は薄れる結果となり、最終的には学校関係者の処分も思いの外軽いものとなった。そして担任の教師だけが責任をとって自主的に学校を辞めるということで、彼の死の責任については暗黙の決着がつけられたのである。
(片岡…野崎…名村…それに末…末次だ!)
和範は無意識のうちに、遠藤をいじめそして用具置き場に閉じ込めた悪ガキ達の名前を思い出そうとしていた。それは、自分が遠藤の死に関して決して無関係ではない。それどころか、彼を助けられたのにその状況を面白がった末自分の保身に走り、彼を見殺しにしてしまった。その罪の深さは、直接彼を閉じ込め死に至らしめた四人と何ら変わりないことを今和範自身が痛感しているからに他ならなかった。和範は記憶の糸を手繰るようにあの日のことを思い出そうとしていた。あの日…あの日は本当に寒い日だった。当時の和範は、自ら助けを呼ばなかった遠藤自身が悪いのだと自分に言い聞かせ、悪友達の悪巧みや遠藤の[助けて…]というか細い声を聞いても、見て見ぬ振りをした自分を正当化しようとしていた。それは勿論、彼がまだ十五歳の少年に過ぎなかった故の自分を守ろうとした幼い判断だったといえよう。だが今の自分…大人になった自分は違う。違わなければならないのだ。思えばあの被害者遺族の陳述書を裁判員として法廷で耳にした時から、和範自身の罪滅ぼしは始まったのかもしれなかった。裁判員という重い責任から解放されたもののそれ以上の深い人生の課題を背負って帰宅した和範は、心配する妻をよそに二年前にあった同窓会で持ち帰った同窓生の近況や住所を記した配布物を貪るように探した。和範の体調を案じた裁判所からの電話を受けていた妻の正代は、帰宅した夫を心配して色々声をかけてきたが、今の和範の耳には入らなかった。そしてやっと探しだしたアルバムをめくりながら和範は思う。あの四人のことを調べて自分はどうするのか…どうしようというのか?今更償えるものなのか?どうなるものでもないのではないか?では何故…何を探すのか?それでも、全ては自分がこれから生きていく姿勢を正すことに繋がる。自分という卑怯で卑劣な人間が、これから本当の意味で人として幸せに生きていけるのか…人生を再構築出来るのか、全てはこのことに繋がる。和範の頭には、あの遺族の言葉がこびりついて離れなかった。どんなに善良な顔を装って生きていこうとしても、その人が何の罪もない人の命を奪った事実は消えない。その事実と向き合い心から反省し償おうとしなければ、その人の心は永久に救われることはない。和範は今、その言葉の重みをひしひしと感じていた。自分は直接いじめていない。だから、自分に責任はない。当時和範は自分にそう言い聞かせ、それ以上考えようとしなかった。だが本当にそうなのか?彼等のいじめを見て密かにほくそ笑んでいたのは、他ならぬ自分ではなかったのか…時には、こっそりそのいじめを助長するような真似までして…それはいじめに加担していたと同じ、いやそれ以上にたちが悪い最低の行為ではないか…和範は唇を噛み締めた。どうして自分は、あんな卑怯なことをしてしまったのか…その時の自分の気持ちを和範は静かに思い返していた。当時優等生として誰からも信頼の目で見られていた彼は、ちょっとわき道にそれることすら、学校帰りにゲームセンターや喫茶店に立ち寄ることなども、人の目を気にして一度も出来なかった。そんな和範の、優等生として周囲から見られているプレッシャーのはけ口として、そのいじめは確かにあったのだ。彼にだって羽目を外したい時はあった。友達と思い切り遊びふざけ、親に叱られるような行動もしたい年頃だった。だが優等生である彼へのプレッシャーが、羽目を外すことを許さなかった。そして彼は、プレッシャーのはけ口として卑劣な行動に走ったのだった。弱い者を助けるどころか、寒い用具置き場に一人の人間が閉じ込められていたのに、誰よりも早くそれを知っていたのに助けることもなく、自分は帰ってしまった。絶対に許されることではない。更に…和範は自分を責め続けた。この悲劇自体を封印して自分は平然と生きてきたのだ。彼が死んだことも忘れて…心に恥じることもなく…何年も…何年も…今更ながら自分は何という卑怯なことをしてしまったのか…和範は頭をかかえた。封印していた忌まわしい記憶を呼び起こしたその時から、和範は良心の呵責に果てしなく苦しめられるようになったのである。とその時、思い悩む和範の背後でふと声がした。
[どうしたの?あなた…何を探してるの?]
先程から声をかけられていたが、耳に入らなかったらしい。それでも妻の正代は不安だったのか、和範が気付く程の大きな声で夫を振り向かせた。
[えっ…]
[あなた大丈夫なの?裁判所から電話があったのよ。あなた具合が悪くて記者会見も代わってもらったっていうじゃない。そして車で送るという申し出も断って帰られたって…だから心配して電話をかけてこられたのよ。ご主人、無事に家に帰られましたかって。」
[あっああ…]
[ああじゃないわよ。全くこっちはこっちでずっと心配してたのに、帰って来るなり机の中や書棚を引っ掻き回して本当にどうしたの?確かに顔色は良くないみたいだけど、体調が悪い訳じゃないんでしょう?何かトラブルでも…心配事があるんじゃないの?]
正代の言葉は良心の呵責に苦しめられていた和範を、現実の世界へ一気に引き戻した。和範は何気なしに妻を見つめた。正代の不安げな表情…大人しい性格なのに、今日の口調はやけに厳しい。和範は今まで良心の呵責に苦しんでいた筈なのに、妻のことで何故かふと考え込んでしまった。自分は何故、この大人しい女性の代表格ともいえる正代と結婚したのだろう。和範のような非の打ち所のないエリートなら、普通もっと釣り合った派手な外見の女性を選ぶのではないか…結婚式の時に来てくれた友人の多くはそう感じたらしく、確かに和範が正代を妻に選んだことを意外だとは言っていたが…和範の脳裏には、大学時代に趣味を通じて正代と再会した時から結婚に至るまでの懐かしい日々が、鮮やかに蘇ってくるのだった。彼女といると不思議なくらい心が落ち着いた。優等生として心の武装をしないでむ自分がいた。彼女は誰よりも自分を癒やしてくれる存在だった。それは家族よりもといえるかもしれない。だからおそらく彼女を妻にしたのだ。そして…和範はふと一つの思いに駆られた。それは自分が将来、封印していた忌まわしい記憶を呼び起こす日がくるかもしれない。良心の呵責に果てしなく苦しめられる時が来るかもしれない。そういう日を予期して、もしかして正代のような大人しくて心が強い女性を配偶者に選んだのではないか…はっきり意識していなくても、遠藤の死がいずれ自分の将来に何らかの影響をもたらすような予感を、和範自身心の奥底に抱いていたのではないか…そしてその時自分を支えてくれるパートナーとして、一緒にいるだけで癒やされる存在である正代を選んだのではないか。きっとそうだ…和範にはそう思えてならなかった。彼は更に思いを巡らす。それに子供…子供?和範はその時はっとした。そしてもう既に自分は罰を下されているのかもしれないと、唐突にそう感じた。つい最近まで二人の両親を巻き込んで話題になっていたあのこと…そう、わかったのだ。自分が親になれないのは、誰のせいでもない自分のせいだということを…人の命の重さを理解することなく、自分の過ちを悔い改めることなく、平然と良い人立派な人の仮面を被ったまま生きてきた、卑怯な自分に下された罰…命を軽んずる人間に親になる資格はないということ…これが神が自分に下された罰でなくて、いったい何だというのか?
(僕には、親になる資格などない…)
和範はその時初めて、自分の罪の深さを思い知ったのである。それからの和範は、これから自分がどう行動すべきか考えがまとまらず、心配する妻の正代にも今の自分の苦悩をなかなか打ち明けられずにいた。やがて裁判員としての職務も終わり、彼は叉いつも通り会社へ出勤するようになった。表面上は裁判員に選ばれる前の元の平穏な生活に戻ったことになるのだが、良心の呵責に目覚めた彼の心は今までのように決して平穏でいられる筈はなかった。まず以前にも増して幻聴に悩まされるようになった。大抵寝ている時かうとうとしている時だが、声が聞こえるのである。
[出して…お願いだからここを開けてよ。]
その声が聞こえる度、和範はうなされて飛び起きた。叉あの被害者遺族の言葉、彼に良心を呼び起こしたあの一言一句が、何をしていても頭から離れない。何をしていてもその言葉が頭に浮かび、彼の良心を針のように突き刺すのだ。和範は思う。
[自分はまだ…何一つ償っていない…]
それでも今の生活の中で自分に何が出来るのか…?和範は迷っていた。妻の正代は勿論両親や弟夫婦も、最近の和範の様子に間違いなく不安を感じているようだった。以前の和範なら、何事もなかったかのようにエリートとしての今まで通りの生活に戻るのだが、自分のやるべきことを自覚し心に刻み込んだ今、以前のように平然と暮らしていくことなど絶対に出来ない。自分にはやらなければならないことがある。それは償い…自分の犯した過ちを自分で償うことだ。あの四人の住所はわかった。そして遠藤の母親の住所、当時の担任の先生の住所も…引っ越ししていなければ同じ住所に住んでいる筈、今は躊躇うより行動を起こす時なのだ。そう考えた和範は、迷った挙げ句先ず自分の両親に今の心境を綴った手紙を書いた。書きながらも和範は、両親がこの文章を読んだらどれだけ心を痛め嘆き悲しむだろうとそう案じずにはおれなかった。それでもこの手紙を書かなければならないのだ。自慢の息子が、今人としてやり直せるかどうかの瀬戸際なのだから…自分の覚悟を罪を償って人としてやり直したいという強い決意を、和範はその手紙の中で二人に余すところなく正直に訴えた。そしてあなた方の自慢の息子は、人の命を見殺しにするという最低の行為を犯した、卑怯で卑劣な人間だという事実から目を背けないでほしいとも伝えた。そして和範は両親へ手紙を書いた後、退職願を書いてその夜妻正代と向き合った。会社を辞める覚悟は当に出来ていた。だが、その前にやるべきことがある。最も理解を求めるべき相手はすぐ近くにいた。それは他でもない、妻の正代だった。彼女にも勿論事実を…そして今の自分の気持ちを有りの儘に話さなければならない。それは夫としての自分の義務なのだ。和範は明日会社に退職願を出して、仕事を辞めるつもりだった。そうなると当然妻は、生活の不安を抱かなければならなくなる。和範には夫として責任がある。自分の気の済むように行動し、許しをこうべき相手に心から謝罪した上で、たとえどんなに非難され罵倒されようと自分が十分罰せられたと思うなら、十分罪を償ったと思うなら、叉生きる糧を得る為に何らかの仕事に就かなければならなくなるだろう。だが、今はとにかく自分なりの自分で出来る形で、罪を償う為の行動を起こすしかない。これから先ずしなければならないのは、最大の迷惑をかけることになる妻に全てを話し、その上で自分の気持ちを包み隠さず話すこと…それが夫である自分のやるべきことなのた。そう考えた和範は、その夜今の自分の心境を静かに妻に伝えた。自分が十五歳の時、どんなに卑怯で卑劣なことをしたのか…いじめにこっそり加担しただけでなく、その果てに一人の人間を見殺しにしてしまったこと…そしてそれを反省することなくそれを悔いることなく、二十年近い歳月を平然と生きてきたこと…正代は最初硬い表情で夫の告白を聞いていたが、和範が語り終えると溜め息をついて静かに目を閉じた。言葉はない。和範は妻がショックを受けて何も言えない状態なのだと思ったが、それでも口を開いた。今の正代の心境がどのようなものであろうと、自分の覚悟は話しておかなければならなかった。
[僕は退職願を書いた。明日にも会社を辞めるつもりだ。そして贖罪のためにこれからの人生を生きる。そうなると勿論君に迷惑をかけることになる。君には不安な思いはさせたくない。これは僕の罪だ。僕一人が償わなければならない。だが僕の奥さんである限り、君にも迷惑がかかるだろ。もし君が離婚を望むなら応じるつもりだ。そして当面の生活の不安をなくすために、君には出来るだけのことをする。急にこんなことを言い出して混乱してるだろうね。本当に済まない。さぞ僕という人間に失望しただろう。言った通り僕はエリートなんかじゃない。それどころか人の命を平気で見殺しにしたエゴイストだ。そんな自分を悔い改めることすらしてこなかった…思えば、僕に子供が出来ないのも当然なのかもしれないね。きっとこれは神が僕に与えた罰なんだろう…命の重さが全くわかっていなかった僕に、親になる資格はない。本当に罰が下ったんだよ。こんな自分と一緒にいても君は幸せにはなれないし、僕のせいで一生親にもなれないかもしれないね。]
和範は心を尽くして、今の心境を正代に正直に語った。自分がどんなに過去の過ちを悔やんでいるか…そしてもう思い悩むことなく、罪を償ってやり直したいと考えていること…すると黙って聞いていた正代は、意外にも首を振りながら少し笑みを浮かべて口を開いたのである。
[やっぱりね。]
[やっぱりって?]
[私、あなたが昔から無理な生き方をしているような気がしてならなかったの。自分を偽っているというか…優等生を演じてる、そんな気がしてた…私は中学生の頃からずっとあなたを見てたわ。ハンサムで頭も良くておまけにスポーツ万能…私もそうだったけど、女の子は皆あなたに夢中だった。確かにみんな恋心は抱いていたわね、無論私も…でも当時はライバルが多くて…あなたの周りはいつも華やかだった。そしてあなたは優等生であり続けた。先生からもクラスメートからも信頼されていたあなたは、当時から間違ったことは絶対しなかった。いつも品行方正で、とにかくいい子で…でもね、人間息を抜く時がなければストレスが溜まってしまう。緊張の連続で生きていける筈はないのよ。私はあなたが息を抜いてすのままの自分をさらけ出すことが出来る場所は、多分家庭なのだろう。そして何か勉強以外の趣味があり、それがあなたという人間を保っているのだろう。ストレスを解消させているのだろうと、そんな風に勝手に思ってた…]
[正代…]
今まで妻を大人しいだけの従順な女性だと見ていた和範は、驚きの表情で正代を見つめた。それが結婚してからならともかく、もう何十年も前から妻は自分という人間を鋭い洞察力で見つめていたのだ。そしてそんな驚く夫を前に正代の話はつづく。
[でもね、中学三年の時二人共生徒会の役員になったじゃない。あなたが生徒会長で私が書記、私は勉強が出来たから担ぎ出されたって形だったけど、やっぱり目立たない存在だった。だからあなたはあんまり覚えていないかもしれないけど、色々な行事について話し合う為にあなたの家に役員が何度か集まった時、私はっきりわかったのよ。家でもあなたは無理してる。優等生を演じてるって…]
[君が…そこまで…]
そこまで見抜いていたのかと和範は言いかけて思わず口を噤んだ。話をする妻の顔に、彼が今まで見たことのないような悲しそうな表情が浮かんでいたからである。動揺する夫を前に、妻は更に話を続けた。
[あなたのご両親にとってあなたは自慢の息子で、それ以上の何者でもなかった。ご両親はあなたに期待し、あなたのすることに百パーセントの信頼をおいていた。あなたのすることに絶対に間違いはないと…それは何度かあなたの家にお邪魔する度に、私は嫌でも痛感したわ。あなたには勉強以外の趣味もなかったようだし、大体趣味自体が勉強でありスポーツだもの…でも何をしてても、あなたが自分の本音をさらけ出すことはなかった。羽目を外すこともなかった。私思ったわ、この人は相当無理してる。どこでどうやってストレスを発散させているのだろうって…当時はずっと考えてた。あなたのことばかり思ってたから…それでもわからなかった。でもまさか、そんな形でストレスを解消させてたなんて…]
[正代…]
妻はそこまで言うと大きく溜め息をつき、今度は強い口調で夫を見つめながら厳しい言葉を浴びせた。
[あなたが自分を責めるのは当然よ!遠藤君が閉じこめられているのを知っていながら知らん振りしてそのまま帰ってしまったなんて、あんまりひどいんじゃない?人として決して許されることじゃない。あなたがそんなひどいことをしてたなんて、私夢にも思わなかった。遠藤君は死んでしまったのよ!取り返しがつかないのよ!人の命を、あなたがそんなに軽く考えていたなんて…]
[済まない…]
妻の思わぬ激しい叱責に和範は戸惑ったが、頭を下げてとにかく謝った。謝るしかなかった。和範には、内心正代なら自分の味方になってくれる…きっとそう怒らないで、自分に優しい言葉をかけてくれるのではないかとそういう期待があったのかもしれなかった。和範は今自分が動揺していることに、内心そういう思いがあったことをはっきり自覚した。そして同時にそんな甘い考えを抱いていた自分を情けなく思った。潔いことを言って自分をさらけ出したつもりでいても、その実自分はまだまだ甘えていたのだ。そんな夫を前に、厳しい口調は少し和らげたものの正代の言葉は続く。
[私は、あなたが償わなければならないのは当然だと思う。遠藤君のお母さんや先生に謝り、遠藤君の墓前でも気の済むまで頭を下げるべきだわ。その上で後はどういう形で償いが出来るか、あなたがしっかり考えるべきよ。あなたはいじめでも勿論許されないことをした…遠藤君を直接いじめていたあの子達以上に、遠藤君にひどいことをしてたのよ。私は直接いじめてた子達を庇う気持ちは毛頭ないけど、でもねわかって欲しいの。隠れて陰湿にいじめる方が、直接何かされるより却って心は傷付くものなのよ。あなたは当時から確かにエリートだったけど、同時に人の痛みがわからない最低の人間だったと思う。遠藤君が死んだと聞かされた時、切っ掛けをつくったあの子達動揺してか泣いてたわ。あの子達だけじゃない、私も彼が可哀想で涙が止まらなかったしクラスのみんなも泣いてた。特に先生の動揺が一番激しかった。葬儀の時号泣してらしたわ。でもあなたは、あの時もやっぱり冷静だった。クラス委員として当然のように冷静に振る舞っていた。私にはあなたが、悲しみを押し殺してクラス委員として立派に対応している…そうも見えたけどそうじゃなかったのね。裏ではそんな卑怯なことをしてたなんて…]
[僕は…]
妻の詰問に戸惑いながら、思わず言いかけて和範は正代を見た。遠藤の死という悪夢のような出来事を、自分は本当に記憶の片隅にでもおいておかなかったのか…全て忘れ去って、この二十年近い歳月を平然と生きてきたのか…彼はよくよく考えた。過去の自分が償うべき過ちを思い起こさせる切っ掛けになったのは、確かに和範が思いがけず裁判員に選ばれたことだった。特に被害者遺族の意見書を聞いた時から、偽善者という言葉が彼自身の耳に何度も響くようになったのではないか…それは、彼自身が封印していた良心の呵責が、やっと芽を出してきた兆候かもしれなかった。だが…和範は思った。自分はこういう時が来るのを心のどこかで予想して、或いはそれを待っていたのかもしれない。償う機会が必ず訪れることを予期し待ってさえいた…と、そこまで考えた時、妻の正代が不意に顔を上げて夫に吹っ切れたように力強く言い放った。
[あなたを責めるのはここまで!私には確かにショックだった。あなたという人間に不信感を持ったし怒りも覚えた。でもあなたは、どんな形であるにせよ心から自分の過ちを反省し償おうとしている。ここから先はあなたがやること!あなた自身の問題よ!お義父さんやお義母さんが何と言われようが、あなたが自分の罪を償う為に全てを捨ててでも本気で行動を起こすというのなら、私はあなたについていくわ。どこまでも応援する…]
[いいのかい?今までの安定した生活が一変することになるんだぞ?]
思いがけない妻の言葉…それも非難しつつもしっかり応援してくれるという正代の言葉に感謝しながら、和範は生活の不安は感じないのかと率直に尋ねた。だが正代はあっけらかんとした表情で淡々と言葉を続ける。[私は生活の為にあなたと結婚したわけじゃないわ。あなたの奥底に人として素晴らしい人間性を感じたからあなたの妻になったのよ。あなたの話はショックだったけども裏切られたとは思ってない。あなたが罪を償う為に行動を起こそうとしたのは、私が感じた通りの人間性を確かにあなたは持ってたと思うから…]
[正代…]
[でもその代わり…]
[えっ…]
[その代わりね、全てが済んだら…あなたが罪を償って一人の人間として叉新しい人生のスタートが切れる時がきたら、私のやりたいことを通させて…]
[やりたいこと…?]
[ええ…]
正代は静かに頷くと、不意に遠くを見つめて穏やかな表情で切り出した。
[私ね、田舎で暮らしたいの。畑で作物を作って自給自足の生活を送りたい。といっても、そう簡単なものではないだろうけど…]
[正代…]
少し驚いた表情で自分を見つめる和範に対して、妻はあくまで静かに話を続けるのだった。
「結婚生活には満足してる。私は幸せ者だと思ってた…都会生活は便利だけど、でも正直言って疲れることも多いのよね。あなたと共にやり直せる時がきたら、私田舎で作物を育てながらのんびり暮らしたいの。今はどうしても色々と考えてしまうけど、これから見聞きするだろう修羅場とか、あなたが味わうことになるだろう苦しみなど避けて通ることの出来ない経験も…私だってあなたをしっかり支えられるかどうか、自信がある訳じゃない。だけど乗り越えようと思ってる。そして辛いことがあっても、大自然の中でなら癒せるかもしれない。そう考えるから…甘いかしら、この考え…]
[正代…]
和範はあくまで自分についていくという妻の決意を聞き有り難く思うと同時に、これから経験することになるであろう厳しい試練を前にして、気持ちが高ぶるのをどうすることも出来なかった。和範はその後会社に退職願を書き、そして遠藤の母親に宛てた長い長い謝罪の手紙を認めた。その手紙には今の自分の正直な気持ちと同時に、当時の自分がどれだけ卑怯で卑劣な人間だったのか余すところなく赤裸々に綴った。 確実に届くかどうかわからないが、もしちゃんと届き遠藤の母親がこの文章を読んだら、どれだけショックを覚えどれだけ苦しみそして和範に対する怒りを募らせるだろうか。或いは民事裁判を起こし、損害賠償を請求されるかもしれない。だが、もしそうなっても構わない。自分は誠意をもって応じるつもりだ。妻の理解と支えを得て、和範の覚悟は今やびくとも揺るがないものとなっていた。然しながら身内の戸惑いと反発は、和範が予想した通りすぐに行動となって現れた。翌日の夜和範の両親と弟が慌ててやって来たが、母親と弟は和範に強硬に翻意を迫った。特に弟の言葉は和範の行動を軽率だと非難するものだった。
[手紙読んだよ、母さんから電話もらって…驚いたよ、亡くなった生徒さんのことは勿論僕も覚えてる。だけど…今更こんなこと黙ってりゃわからないじゃないか!兄さんは長男としての責任があるんだよ。その責任を投げ出すのかい?今の生活まで投げ出して、無責任だよ。兄さんが直接閉じ込めたわけじゃないんだろう?直接いじめてたわけじゃないんだろう?それに当時はまだ子供だったんだし、ましてや会社まで辞めて家を売り払ってまで償わなくても…兄さんにはそこまでの責任はないと思うよ。]
和範の決心を手紙で知った両親は弟の久範にも手紙の内容を伝え、翌日には三人連れ立って和範宅を訪れたのだった。口火を切った久範の言葉に母の貴美子も相槌を打つ。
[久範の言う通りよ、もう二十年近く前の出来事じゃない。時効っていうか…忘れるべきよ。確かにその、遠藤君?その子にはひどいことをしたと思うけど、でも当時はおまえもまだ子供だった訳だし、今更何もかも投げ出して償おうとしなくても…]
[母さん、ごめんよ。でもね、僕のしたことは子供だったからという一言で許されるものじゃないと思うよ。][和範…」
二人の反発は、和範にとっては予想していた通りのものだった。 特に、母貴美子にとって和範は自慢の息子そのものであり、長年ずっとそう考え誇りに思って生きてきたのだった。そんな息子からいきなり過去の過ちを打ち明けられ、その罪を償うために今の自分の全てを投げ出して行動を起こすと聞かされたのだ。彼女が混乱するのも無理からぬことだった。その時だった。
[義姉さん、義姉さんはどう思うの?]
[私は…」
せっつくように問い掛ける久範に対して、正代はためらいつつも口を開く。
[私は、この人の今の思いを大切にしたい。そして、これからやろうとすることにも賛成してます。勿論この人から今回のことを打ち明けられた時は、ショックでしたし怒りも覚えました。何よりも人の命が失われてるんです。取り返しのつかないことが起きてしまったんです。私は思います。人は何らかの罪を犯した時、それが命に関わるような重大な事だっ時、黙っていればわからないとか子供だったからじゃ済まされないと…
自分でその過ちと向き合い罪を償おうとしない限り、人は決して救われない。私はあの時のみんなの涙、先生の涙、遠藤君のお母さんの涙を未だに忘れることは出来ません。でもあの時、この人は冷静で沈痛な表情だったけど泣いてはいなかった。私はあの時クラス委員という立場上しっかりしなければいけないから、この人には涙はないのだとそう思ってた。でもまさか、裏でそんな酷いことをしてたなんて夢にも思わなかった。思えばこの人には、いつもエリートというレッテルがついてまわってたように思います。私は昔から、そんな和範さんが無理して自分を偽って生きてるような気がしてならなかった。優秀な子だから…この子に頼めば間違いない、間違いなど起こす筈ないとそんな周囲の視線からくるプレッシャーが、和範さんを卑怯な行動に走らせたのかもしれない。そんな風に思えて…でもね、本当のエリートは人の心の悼みがわかる人のことをいうんです。人を思いやる優しい心を持った人のことをいうんです。人を傷つけてしまったら最低の人間でしかなくなるわ。特に相手がどんなに傷ついているか考えようとしない人、相手を平気で傷つける人にエリートの資格はない。私はそう思います。]
[あなたは私達の育て方が間違ってたとそう言いたいの?]
[いえっ、そこまでは…]
[そう言ってるようなものじゃない。確かにあなたの言ってることは正しいんだろうけど、でもあなたは和範の妻なんだし、そこまで厳しい言い方しなくても…」
正代の言葉に母貴美子が戸惑いつつも直ぐに反論する。だがそんな貴美子の言葉を遮って父の知範がゆっくり口を開いた。
[おまえ達の気持ちはよくわかった。おまえ達がこれからやろうとすることは、人として正しい道だと思う。私は反対するつもりはない。]
[父さん!]
[あなた!]
知範の思いも寄らない言葉に貴美子と久範は思わず戸惑いに満ちた抗議の声を上げる。だがそんな二人に構わず、知範は息子を見つめて静かに話を続けた。
[父さんも母さんも、確かにおまえに期待し過ぎていたのかもしれないね。考えてみれば、おまえにはいつもいい子であることを無意識のうちに強要していたように思う。おまえは確かに、素のままの自分をさらけ出すということがあまりなかったように思える。自慢の息子か…でも、他人を傷つけても何とも思わないような人間にだけはなって欲しくなかった。]
[父さん…]
[現実に人の命が奪われている以上、おまえはおまえの責任を果たさなければならない。子供だったからでは済まされない。私達の育て方は間違っていたと思う。その時に気付いていれば尊い命が消えることはなかっただろう。それだけは残念だ。]
[父さん…済まない…]
母や弟と同じように自分達のやろうとすることにてっきり頭から反対すると思っていた和範は、少し驚いた表情で父を見た。そんな息子を見つめながら、父知範はあくまで穏やかな口調で更に続ける。
[おまえは幼い頃から何をしても優秀で、私達も子育てしながら自然と優越感を覚えたものだ。とにかくおまえを育てることが楽しくてならなかった。鳶が鷹を生んだ…まさに我が家の子育ては、その諺を地でいくものだ…そう思えてね。私は昔からそう大した人間ではなかった。普通に学校を出て普通に就職し結婚して家庭を持った…平凡で地味な在り来たりの人間の在り来たりな生活だった。顔だけはそこそこにもてるぐらいに生まれてきたけどね。それもおまえに遺伝してくれたのか、おまえはハンサムで学業優秀、おまけにスポーツ万
能…まさに非の打ち所のないエリートそのものに育ってくれた。周囲にちやほやされ私達は自慢の息子だとおまえを誇りに思い、世界一幸せな親だと自分達のことをそこまで自負してきた…だが私達の期待がおまえから良心を消し去り、まさか友達の命を危険に晒しても、自分の保身に走るようなことをさせていたとは…]
そこまで言うと堪らなくなったのか、知範は肩を震わせ言葉を詰まらせた。それは勿論、和範が初めて見る頑固なまでに誠実な父の姿だった。そんな父の姿に胸を痛めつつも、今は頭を下げるしかない和範だった。[ごめんね、済まない…父さん達の期待を裏切って、今はこんな自分が本当に情けないと思う。思えばこの事に対する自分の良心は、あの時から…あの彼が亡くなった日からずっと封印してしまっていた。自分が悪いんじゃない、みんなに助けを求めなかった彼が悪いんだとそう考えるようにして…そう自分に言い聞かせてきたんだ。でもね、僕が罪を償う為に行動しようと思ったきっかけは、手紙に書いた通り僕が裁判員に選ばれたことだ。裁判員に選ばれてあの被害者遺族の意見陳述を法廷で耳にした時、偽善者という言葉が突然僕の耳に聞こえてきてその時はっきり、あの時自分が見て見ぬ振りをして彼を見殺しにしたことを思い出したんだ。自分がどれだけひどいことをしたのか自覚出来たんだ。心の奥底に封印してきたことをはっきり思い出すことが出来て、これは運命なんだとそう思えてならなかった。そして裁判員に選ばれたことは、僕に今からやるべきことを示す指針となった。自分は過去に犯した過ちと向き合い、そしてその罪を償わなければならない。そうしなければ、自分という人間が救われない。今は心からそう思う。]
知範は息子の強い決意を聞くと、今度はしっかり頷いて口を開いた。
[わかった…おまえのやるべきことをやるんだ、しっかりな…たとえどんなに罵られようと修羅場になっても怯むんじゃないぞ!そして全てが終わって新しいスタートが切れる時がきたら、今度は私達の前に一点の曇りもない飛びっきりの笑顔を見せに来てくれ。]
[父さん…]
息子に自分の思いの丈を伝えると、知範は今度は正代に頭を下げるのだった。
[正代さん、こんなことになって本当に済まない。こんな息子についていくことを決心してくれて、心から有り難いと思っている。これからどんなことになるかわからないが、これからも息子を支えてやってくれ。お願いします。]
[お義父さん…]
知範の温かい言葉に心を打たれたのか、正代はそれだけ口にすると後はただ頷くだけだった。そんな父の励ましに勇気を得た和範は、今度は母と弟を見つめゆっくり口を開いた。
[母さん、久範も本当に済まない。だけど今は、僕のやりたいようにやらせてくれ。二人にも迷惑をかけることになるかもしれないが、僕はそれでも人として悔いのない生き方をしたいんだ…]
[和範…]
溜め息をつきながら息子を見つめる母貴美子に対し、和範はあくまで穏やかな口調で話を続けた。
[裁判員は裁判の内容を家族に告げちゃいけないんだが…それでも伝えたい。僕を変えてくれた言葉だ。被害者遺族は、裁判の中の意見陳述でこんなことを言っていた。何の罪もない人の命を奪っておいて平然と暮らしても、人は決して幸せにはなれない。心から反省しその罪を本当の意味で償わなければ、その人は永久に救われないと…確かに僕は、彼の命を直接奪ったわけではない。だが、助けられる立場にいたのに見殺しにしたのは事実だ。僕の罪は重い。被害者遺族の言葉を聞いたその日から、僕の耳には偽善者という言葉がついて離れなくなった。いつでもその言葉が聞こえるんだ。それは良心の呵責からくる僕自身の声だったのかもしれない。今この世界のどこかに凶悪な事件を起こしておいて、何食わぬ顔で暮らしている人間も少なからずいるだろう。だが、僕はその中の一人でいたくない。僕はあくまで血の通った人間でいたいんだ。人生を終える時いい人生だったと…父さんの言葉通りの一点の曇りもない笑顔で旅立っていけるような、そんな人間でいたい。だから、今まで通りの生活は出来ない。償いの為に僕はこれから生きる…]
和範の切々とした訴えにじっと耳を傾けていた母と弟は、彼の堅い決意を聞いて少し涙ぐんだ表情になったが、それでも諦めたように頷くと知範と共に和範の家を後にした。渋々だったが、二人がこれからやろうとすることを何とか認めてくれたようだった。三人が帰った後、和範と正代は言いようのない虚脱感に襲われた。と同時に、緊張感を強いられるこれから先のことを考えずにはいられなかった。これからは生活が一変することになる。仕事も辞めなければならないだろうから、暫くは貯金を取り崩して生活する事になるだろう。叉事情を知った周囲からは好奇の目で見られたり、或いは誹謗中傷の言葉さえ投げつけられるかもしれない。たとえ事情は知らなくてもあのエリートが何故…?と誰でも不思議に思うに決まっている。それでも、もう後戻りは出来ないのだ。自分達は、進むべき道を決めたのだから。その上で、和範にはもう一つやっておかなければならないことがあった。それは、こんなことになっても自分を励ましついてきてくれる妻正代に、もう一度意志を確認した上で感謝する事だった。
[正代、本当に有り難う。もう一度訊くが、君は本当に僕についてきてくれるかい?]
[あなた…]
[後悔はない…?これからは勿論、苦労することになるよ。暫くは生活の不安を感じることもあるかもしれない。僕と一緒にいることで、君も辛い思いをすることになると思うが…君は悪くないのに僕のせいでね。]
夫の言葉に正代は笑顔をみせると、首を振りながら静かに答えた。
[後悔はないわ、実は私ね今日あなたのお父さん見直したの。口下手で怖そうに見えて正直言って苦手だったんだけど、今日はっきりわかったわ。あんなに誠実な人はいない。あの人の血を受け継いでいるあなたならきっとやり直せる。そう信じるから私はあなたについていく。改めてそう誓ったの。]
[正代…]
きっぱりとした口調で語ってくれた妻のその言葉は、今の和範自身の心を確実に奮い立たせ勇気を与えてくれたのだった。[有り難う…]改めて妻に頭を下げた和範…そして考えた。もしかしてこういう日がくることを自分は心の奥底で見通して、このどちらかといえば地味で大人しそうだが実は心の強い女性を妻に迎えたのかもしれない。正代を妻にしたのは、彼女の人間性を見抜き自分を本当に支えてくれる存在だと、無意識のうちにそう自分が判断したのだろうと、そんな気さえしてくる和範だった。