再びエリクシールへ2
秋元所長を先頭にして警部と桐生は休憩室に入った。ドアの前には警官が立っていて、退屈しのぎに携帯で音楽を聴いていた。警部が来ると、あわててイヤホンを外し、「お疲れ様です」と言って敬礼した。
休憩室の広さは研究室と同じくらいで、奥に喫煙ブースがあり、中央には飲食するためのテーブルと椅子が数脚あいてある。飲料用の自動販売機が入口の近くの壁に設置されているが、全て売り切れの表示が出ていた。その右隣りに細長い台があり、その上に電気ポットと電子レンジが置いてある。その横には冷蔵庫があった。
警部がここを調べようと思ったのは、セキュリティルームで、ここのカードキーが使われた形跡があったからだ。所長は手前の椅子にドスンと腰をおろした。
「どうぞ、好きに調べてください」
「ちょっと確認しておきたいんですが、この部屋は事件以後は誰も出入りしてないんですね?」
「警部さんにそう言われたので、出入り禁止にしてましたよ」
それを聞くと、警部は満足そうな顔をして歩き出した。警部はドアのすぐ横の壁にある自動販売機の前で止まった。
「セキュリティルームに侵入したやつは、まさか飲み物を買いにここに来たわけじゃないよな」
所長は薄くなった頭をなでながら警部に言った。
「あの時間にここに来ても、その自販機で飲み物を買うことはできませんよ。18時には、電源が切れて買うことができなくなりますから。まあ省エネの一環ですな。今電源が入ってないのは、立ち入り禁止だから切ってるんです」
「そうですか」
「あー、ココア飲みたかったなあ」桐生は名残惜しそうな顔で通過する。
警部はその隣りにある電気ポットと電子レンジを調べる。特に異状はない。その横には、家庭用よりも一回り大きな冷蔵庫が置いてある。中を開けると、ペットボトルの飲料や缶コーヒーが並んでいた。
「警部さん、もうしわけないが、そこからミネラルウォーターを1本取ってくれませんか?ふたのところにアッキーって書いてあるやつです」と所長が声をかけた。警部は6本並んでいるペットボトルのふたを見ていく。所長が言ったものはなかった。
「ないですよ」
「ない?いやそんなはずはない」所長は立ち上がって、冷蔵庫に向かってくる。
「あれ、ほんとだ。ないな」6本のペットボトルのふたを調べる。
「名前が消えちゃったんじゃないですか?」
「消えるとは思えないですね」所長は屈みこんで奥を調べる。
「この6本のミネラルウォーターとは違う種類なんですか?」桐生が聞く。
「違います。あれは私が出勤途中のコンビニで買ったものですから」
「他になくなってるものはありますか?」桐生も覗きこむ。
冷蔵庫には他に缶コーヒーが4本ある。
「なくなってるのは、私のものだけですね。この6本のペットボトルと缶コーヒーは備え付けのものだから。毎週週末に、ここの清掃をする時に、ついでに冷蔵庫の中もきれいにするんです。残ってるものは廃棄して、新しく6本のペットボトルと缶コーヒーが置かれるんです。事件のあった日の午後に清掃をして、その時にこの本数にセットされたんです。まあいいやこれを飲もう」と言って、備え付けのペットボトルを手にとった。
「ミネラルウォーターがなくなってるか」警部はそうつぶやいて冷蔵庫を閉めた。
警部は奥にある喫煙ブースに入っていった。ブース内は壁に沿って長い椅子が置かれている。中央に灰皿が2つ設置されていた。警部はその灰皿の中を見る。灰皿には1本も吸い殻はなかった。
「秋元さん、ここも週末に掃除するんですね」
「そうです」
警部は上着に手を入れて、何かを探している。
「あーそうだ。オレ禁煙してたんだった。吸いてーなー」
「禁煙何日目なんですか?」桐生が聞く。
「禁煙3日目だ」誇らしげに答える。
「まだ始めたばっかりじゃないですか」
「3日目がつらいんだよ」
2人は喫煙ブースを出た。他に見るべきところはなかった。
「秋元さん、もうこの部屋はけっこうです」
「そうですか、じゃあ私は仕事があるんで戻りますよ」
「あっ、そうだ」警部は、坂上と高部が話していたロボット業者についてたずねた。
「彼に会いたいんでしたら呼びましょう。それから平原君でしたね」
休憩室を出てから1時間後、警部と桐生が駐車場に停めてある車で待機していると、1台の軽トラックが入ってきた。運転席から1人の小柄な男が降りてきて、辺りをきょろきょろと見ている。警部は車を降りて男に近づいていく。
「向島さんですね」
「はい、そうです」男は長身の警部を頭からつま先にかけて、何度も視線を往復させる。
警部は事件について簡単に説明した。
「それで、向島さんはあの日ここに来て、ロボットに充電する器具を男に渡したんですね」
「はい、そうです。その人はエリクシールの社員の者だと言ったものですから。ちゃんと胸に社員証もつけてましたし、はい」
「男は1人だったんですか?」
業者は少し考えてから、
「そうでした、1人でした、はい」
「その男はどういう格好をしてました?」
「格好と言っても、大きなコートをはおってました。顔はマスクとサングラスをしていて、ほとんど見えませんでした、はい」
「あなたはいつもそうやって、社員の人に器具を渡してたんですか?」
「いつもは私が中に入ってセキュリティルームに持っていくんです、はい」
「その男を怪しいと思いませんでしたかね?」
「うーん、少しへんだなとは思ったんですけど、とても落ちついてたもんですから、社員の方だと思い込んでしまいました、はい」
「社員通用口のドアはその時、開いてましたか?」
「いえ、ドアは私が開けるんです。カードキーを持ってるんです、はい」業者はカードキーを出してみせた。
「器具を渡してから、どうしたんです?」
「そのまま次の取引先に向かいました、はい」
警部は業者の証言を電子手帳にメモした。業者に礼を言って帰した。業者が帰ってから、20分ほどしたころ、赤い軽自動車が敷地内に入ってきた。その車は警部の横に停まった。運転席から小柄な女性が出てきた。女性はブラウンのコートに身を包んでいる。髪はショートカットで前髪が眉の上できれいに切りそろえられている。警部は大きな人形が出てきたのかと思った。警部はこの女性が平原彩華だと思い、彼女に近づいていった。桐生も警部の後ろからついていく。
「あのー、平原さんですか?」
「はい、そうですけど」女性は低い声で答えた。トーンからすると、あまり機嫌がよくないようだ。
警部は事件の経緯を説明した。
「それでちょっと確認をしておきたいと思いまして。平原さんがドローンで荷物を受け取ったのは正確には何時ごろでしたか?」
平原の意志の強そうな眉が中央に寄る。
「20時15分ごろだったと思います」
「その部屋には1人でいたんですか?」
「はい、1人でした」
「荷物は会社で使う備品と聞きましたが、その時間に荷物が届くのはよくあることなんですか?」
「そんなに多くはないです。一週間に何度かあるくらいです」
「ここを出る時に何か不審なものを見たり、聞いたりしませんでしたか?」
「とくになかったです」
警部は平原の顔をじっと見ながら質問をしていた。うそをついているようには見えなかった。
「帰る時、出入り口のドアは閉まってましたか?」
「それが開いてたんです。おかしいなと思ったんですが、たぶん、他の社員の方か業者の方が閉め忘れたんだろうと思いました」
警部は首をふってうなずきながら電子手帳にメモをした。それから警部は、これは決してあなたを疑っているわけではないと前置きをしてから、
「創薬研究所に立ち寄ったりはしませんでしたか?」と聞いた。平原は表情を変えもせずに、
「4階の備品倉庫からまっすぐに1階に向かいました」と答えた。
「相棒、聞きたいことは?」
警部の背後から桐生が顔を出す。
「ええと、平原さんが帰る時、リンダちゃんを見ませんでしたか?」
平原は桐生を、なにか動物園にいる動物を見るような眼差しで眺めた。
「リンダちゃん?あっ、掃除ロボットですか。うーん、見ませんでしたね」
「そうですか、ぼくが聞きたいのはそれだけです」
警部はこれで話は終わりだと言うと、平原はどこか急いだ様子で車に向かった。平原の運転する車が見えなくなると、2人は車に乗りこんだ。警部はシートを倒して大きく伸びをした。
「あーあ、なんか手がかりが得られると思ったんだけどな」
「手がかりならあったじゃないですか」桐生はコンビニの袋からフルーツ味のグミを取りだして食べ始めた。
「グミを食ってるのか、女子高生みたいだな。手がかりって何だ?」
「もぐもぐ、掃除ロボットの掃除ルートから計算すると、さっきも言いましたけど、創薬研究所のドアは、19時47分ごろには開いてたことになるじゃないですか。その時間は爆発があった時間よりも1時間以上も前なんです」
「1時間も前に、超常研の連中とは別の人間が中に入ったっていうのか。それは誰なんだ。オレにもグミをくれ」警部は桐生の持っている袋からグミをつまむ。
「うーん、あそこに入るにはカードキーが必要なんだよなあ」と言ったきり、桐生は黙ってしまった。
「まあ、とりあえず署に戻るか。ここにいてもすることがないからな」