再びエリクシールへ
翌日、楠警部が運転する車は、エリクシールに向かって一般道を走っていた。あと30分ほどで到着すると、ナビ画面に出ている。警部は大きなあくびをしながら、コンビニの袋に手をつっこんで、おにぎりを取り出した。
「相棒、悪いけど袋を開けてくれないか。うまく開けられたためしがないんだ。朝飯がまだだったら袋のなかにサンドイッチとかあるから食っていいぞ」
「ぼくは今朝、牛丼定食を食べてきたから大丈夫です。それにしても、楠さん眠そうですね。事件のことで夜更かしでもしたんですか?」
その言葉に警部はにっこり微笑む。
「いやあ、あれからプレイワンに行って、ボウリングをしてきたんだよ」
「あれからですか、深夜10時をすぎてましたよね」
警部は桐生が開けてくれたおにぎりを受け取る。
「プレイワンは24時間やってるんだ。集中すると時間が経つのを忘れちまうんだ。気づいたら朝の4時だった」
「それじゃ、ぜんぜん寝てないんですか?」
「車の中で3時間は寝たぞ」
桐生はこの警部は、どんだけボウリングが好きなんだよと思った。それから窓の外を見ると、海岸線が見えてきた。まもなくエリクシールが見えてくるはずだ。外は昨日とは打ってかわって快晴で、遠くまで一望できる。昨日見た時よりも、海岸沿いには工場がたくさん見えた。
「それにしても、おまえからエリクシールに行きたいって言い出したけど、何か調べたいことでもあるのか?」警部自身もエリクシールに行こうとは思っていた。
「昨日、研究室に掃除ロボットがあったじゃないですか。あれが気になって。ちょっと実験してみようと思ったんです」
「実験?学生時代を思い出したか」警部は大きな口でおにぎりをたいらげた。
「着いてから教えます」
「学生時代っていえば、おまえのことあんまり知らないんだよな。このへんの出身なのか?」
警部が聞きだした桐生の個人情報は以下の通り。桐生はF県のいなかで生まれて、大学進学のために上京してT県に引っ越してきた。大学はT大学の理学部。本来なら企業に就職するか、研究職に就くのが一般的だが、桐生は周囲の反対を押し切って警察官になる道を選んだ。警部が理由をたずねると、ミステリー小説が好きで警察に憧れていたことと、ひ弱な自分を鍛えたいからだと答えた。学生の時は体育の授業が一番の苦痛だったらしい。ドッジボールではたいがい、一番に当てられるし、野球は三振しかしたことがない。マラソンはビリかビリから2番目。スポーツはそんな感じだったが、勉強はできたようだ。学校の教科書は夏休みまでにはすべて終えていて、個人的にいろいろなことを勉強していたと語った。女性とは付き合ったことはないと恥ずかしそうに言った。手を握ったこともないし、ここ数年は女性といえば、お母さんとしか話したことがないそうだ。趣味は意外にもロマンチックな天体観測。それに、読書、プラモデル作り、テレビゲーム、要はインドア派。
他にも警部が聞きだしたことはいろいろあるが、主なものは以上だ。
「話を聞いてると、ますますおまえがこの業界に来たのが不思議だな。この世界はけっこう体力勝負のとこがあるからな」
警部の運転する車がエリクシールの駐車場に入っていった。駐車場には警察車両が一台と数台の乗用車が停まっているだけだった。警部は入口に近い駐車場に停めた。社員通用口を見ると、1人の女性が立っていた。速水メイ研究員だ。
2人は車を降りて、速水に近づいていく。
「おはようございます、速水さん。ちょっと調べたいことがあって」
「おはようございます、どうぞこちらへ」
研究所の中は昨日と同様に静まり返っていて、3人の歩く足音だけが、こだまする。
「やけに静かですね」警部が押し殺した声で言った。
「従業員がいないんですよ。所長は今週いっぱいは休みにするって言ってました」
エレベーターの前に着いた。
「私はリンダを持ってきます。お先に行っててください」と言って、速水はエレベーターに乗らずに、廊下を左の方へ歩いていった。警部と桐生はエレベーターで2階へ向かう。
創薬研究所の前には、警官が1人立っていた。ドアの残骸は爆発の痛々しさを物語っている。
「お疲れ様です」警部を見ると、立っていた警官があいさつした。
「何か異常はなかったか?」
「何も異常はありません」
警部は他にも、セキュリティルームと休憩室の前にも見張りをつけていた。速水がリンダを持ってやってきた。
「じゃあ、ここに置いときますね。私はこの中にいるので、終わったら声をかけてください」速水はそう言って中に入っていった。
入っていこうとする速水に、桐生が声をかけた。
「あ、ちょっと待ってください」桐生は速水に、リンダがどういうルートで掃除をするかをたずねた。
「わかりました。じゃあちょっとお借りします。楠さん、1階に行きましょう」
2人は1階に降りると、廊下を右に歩いていく。そのまま歩いていくと左手に掃除用具と書かれた部屋があり、速水はここからリンダを持ってきたらしい。さらに歩いていくと、行き止まりになっていた。そこの壁にリンダを充電するコンセントが見える。
「ここで充電して、掃除を始めるんですね」桐生はリンダを床に置いて、スイッチを入れて起動させた。リンダはどういうルートで掃除をするのか、あらかじめ何コースか設定されていて、その設定は変えていないらしい。桐生は速水から聞いたコース1を選択する。リンダが動き出した。リンダは床を舐めるように進んで行く。
「相棒、こいつの動きをずっと見てる気か?」
「はい」
「それで何が分かるんだ?」
「昨日、この掃除ロボットが研究室の中にあったじゃないですか。ってことは、このロボットの動きから逆算すれば、いつあのドアが開いたのか分かるんじゃないかと思って」
警部の目が鋭くなった。
「ああ、そうか。こいつで時間を割り出そうってわけか」
リンダは警部たちが思っていたよりも、すばやい動きで廊下を掃除していった。1階の廊下を全部掃除し終えるのに約30分しか、かからなかった。リンダは閉まっているドアの前では、そのままそこを通過した。ドアが開いていれば、中に入って掃除をしていくようだが、開いているドアはなかった。1階を終えると、エレベーターの前に来た。リンダから何か金属的な音がすると、エレベーターのドアが開いた。
「エレベーターにも乗れるのか」
2階に着くと、リンダは右へ進み、掃除を始めた。研究所の前にたどりつくのに約20分かかった。桐生はロボットを床から取り上げて、スイッチを切った。それから研究室に入っていって、速水を呼んだ。
「どうでした、何か分かりました?」速水がリンダを受け取りながら聞く。
「ちょっと聞きたいんですけど、このロボットって、いつも決まった時間に掃除を始めるんですか?」
「はい、19時にセットされてますね」
「それから、昨日の掃除も、このコース1だったんですか?」
「コースもいつもいっしょです」
桐生は携帯のストップウォッチの表示を見た。47分となっていた。
「そうすると、19時47分か。爆発があった1時間以上も前ですね」
「爆発の1時間も前に、このドアが開いてたのか」警部は、坂上と高部の証言を思い出した。彼らは、この中に入ったがサンプルと資料はなかったと言っていた。
「あいつらの言ってたのはうそじゃなかったのか」そう言ってから、言いにくそうな口調で速水に聞いた。
「速水さん、気を悪くしないで聞いてもらいたいんですがね、ここで働いてる連中はエリクサーの存在については皆、知ってるんでしょうね?」
「ええ、もちろん知ってます。それをネタにして、いろいろおしゃべりしてました。これが完成したら、どういうCMがいいかとか。ドリンクタイプだから、栄養ドリンクみたいに気軽に飲める感じのCMがいいいんじゃないかとか言ってました」
「でも、本当にエリクサーが完成して、そんな気軽に飲めるんなら、オレも飲みたいですよ」
「私たちが目指しているエリクサーは、それを事前に飲んでおけば、24時間以内の死に効果があるものなんですが、それが…」
「それが、どうかしましたか?」
「それが、今回のサンプルと研究結果はうまくいかなかったんです」
「うまくいかなかった?」
「はい、副作用の問題が出てしまって、また1からやり直さなければならないんです」
「そうですか、それはたいへんですね」
「でも、私たちの仕事は、うまくいかないことの連続ですから」そう言って、ぎこちない笑顔を見せた。
廊下から研究所所長が姿を現した。事件発覚時よりも、いくぶん元気そうに見えた。
「捜査は順調ですか?」抑揚のないトーンで警部にたずねた。警部は掃除ロボットでの実験を話した。
「なるほど、ではドアが破壊される1時間以上前に、ここに入った人間がいるんですね」
「それでちょっと聞きたいんですがね」警部は坂上たちがレンタカーでこの研究所に来て中に侵入したこと、研究室に入ったが、エリクサーと資料がなかったと証言したことを話した。
「彼らを全面的に信用するわけじゃないんですが、あの爆発があった日、ここで働いている連中の中で、あの時間にここにいた人間なんていなかったですかね?」
研究所所長は顔をしかめた。
「それは、うちの社員の中に犯人がいるとお考えなんですか?」
「まあ、いちおう参考までに聞いておこうと思いまして」
「たぶん、聞かれることがあるだろうと思って、私も昨日調べておいたんですよ。通常、ここは午後6時には無人になるんですが、事件の時に、20時20分まで中にいたのが1人いました。平原彩華という女性です。彼女は4階にいたようで、事件については何も気がつかなかったと言ってます」
「彼女がその時間までいたというのは、どうやって分かったんですか、出退勤を管理するタイムカードか何かですか?」警部はカメラの映像が消去されていた事実を思い出した。映像が残っていれば、確認することもできるのだが。
「彼女は宅配ドローンで荷物を受け取ったんです。ドローンが4階の窓まで来て、彼女に渡したそうです。中身は研究で使う器具でした。彼女の証言によると、1階の出口は開いていたそうです。ふつうなら、社員カードをスキャンしてドアを開けるんです」
掃除ロボットの側面を調べていた桐生が質問した。
「その社員の方は出口のドアを閉めていったんでしょうか?」
「閉めたと言ってます」
「そうですか」と言ったきり、またロボットを調べだした。
「その社員の方は今ここにいるんですか?」
「今はいませんが、近くに住んでるので、呼べばすぐに来てくれると思いますが」
「じゃあ、呼んでいただけますかね。それから、今から休憩室を調べてみたいんですが」
所長はうなずいて、ポケットから携帯を取り出した。