伝わるもの伝わらないもの
まだ学生の方も、もう社会に出て働いている方も他者から助言を受けることはよくあると思う。
その通りだと素直に受け入れられることもあるだろうし、こちらの事情もよく知らないくせに何を言いやがると反発を覚えることもあるだろう。
大概助言というものは、与えられる人のことを考慮してのものなので、余程のことがない限り的外れのものは少ない。
それでも、案外すんなりと受け入れられることの方が少ないのではないかと思う。
人の言動はその人自身の体験が基準になっていることが大半だろう。自分の経験に照らし合わせて、「これは良い」「これは間違えている」と判断する。
現状の自分に不足しているものに対して苦言を呈されても、それは既に自身で否定してしまっているか、まだ経験したことがないので「そんなことを言われてもね」となってしまう。
他人から頭ごなしに自分の経験や価値観を否定されて、素直に相手の意見を受け入れることは難しい。しかし、その価値観も不変なものではない。それこそ経験によって変化していく。
ただ、その価値観の源たる経験は自身の実体験によるものであることが多い。他人の意見によって、自身の価値観が変わることは滅多にないと思う。自分で直接体験しなくては、心から納得することはできない人が多数ではないだろうか。
かくいう僕も若い頃に言われて柳に風と聞き流していたことが、この歳になって得心がいくことも多々ある。それは実際に酷い目にあったことが原因の場合が大半だ。
逆に無駄に積んだ経験が災いして、「そんなことは分かっているけど無理」と逃げてしまうこともあるけれども。
誰だって「より良い自分」を目指したいだろう。でもそれは中々に困難なのだ。厄介なことに、一番の大敵が自分自身の経験だからだ。人の意見より自身の実体験を優先してしまう。
何にせよ、今書いていることだって、僕が経験から実感していることに過ぎないのだが。
普通は実生活で他者と接しながら経験を積んでいくのだが、読書だって捨てたものではないと思う。
実体験に比べれば、所詮擬似体験に過ぎないかもしれないけれど、他人の苦言と比較すれば受け入れ易いだろう。何故なら自分で選んで読むからだ。
僕もある作家の考え方に触れて、「頭をぶん殴られた」ような衝撃を受けたことがある。
実例を挙げれば「何故人を殺してはならない」かだ。
人は障害がなければ、容易く他人の命を奪ってしまう。これでは安心して生きてはいけない。誰だって殺されたくはない。だから殺人には厳罰を課す。劣情に身を任せて罪を犯してしまっては、割りに合わないと思わせる。殺されたくないから殺してはならないルールで縛る。
これはすんなりと納得することができた。まだ10代そこそこだったなら怪しいが。多分「人間はそんなに酷い生き物ではない。無条件に他者の命を尊重する」と反発を覚えただろう。
でも悲しいことに、そんなピュアな心は既に持っていなかった。欲望を優先して行動する例は嫌になるほど目にしてきた。自分も含めてだが。
コンビニでバイトしていた時に、強盗に包丁を突きつけられたこともある。その後に課せられる罰則に比べれば、とるに足らない額の現金を手に入れるためにだ。
これらの経験から、人の善性を無邪気に信頼するより、この冷たい印象のロジックの方がすんなりきたのだ。
とは言うものの、これが「だから殺されても仕方がない」というニュアンスで書かれていると感じたなら、どうだったろうか。
そうではなく、曖昧なものにはっきりとした論理を提示することで、相手を納得させようとする意図を自分なりに感じたから受け入れられた。それに「自分がされて嫌なことは、他人にもするべきではない」という、自分の価値観を否定するものではなかったからでもある。
実際に口にするにせよ、言葉を書き連ねるにせよ、その考えを他者に伝えるということ自体は簡単だ。しかし、納得してもらうことはそうではない。そこに受け手が既に構築してしまっている価値観との戦いがあるからだ。
これは映画や漫画、小説のようなフィクションでも同じだろう。
幅広く受け入れられるものは、大多数の人々の経験や価値観に背くものではない。
「人生も世の中も、そんなに悪いものではないはず」
「勧善懲悪はなされるべき」
「怠け者より勤勉な者が報われることが正しい」
「悲劇的な結末よりはハッピーエンドが好ましい」
これらのお約束を踏まえているからといって、その作品が素晴らしいとは限らない。しかし、不特定多数の人々を楽しませることを目的として創作されるものならば、敢えてそれらに抗う必要はないだろう。
別に全ての創作物がこうあるべきと考えている訳ではない。
言葉は悪いが「世の中なんてクソだ」という主張のために作られたって良いだろう。それはその作者の自由だ。それが受け入れられるかは別問題だが。
さて、「なろう」においてはどうであろうか。ここは特殊な場のように見られることが多いようだ。支持を集めるものは所謂「テンプレ物」がほとんどで、作者も読者もあり得ない世界に浸って、内向きの楽しみに没頭していると。
少々厳しい見方かもしれないが、真っ向から全否定はできないのではないかと思う。
実際に、作者の分身たる主人公に優しいだけの世界を築いて、辛い現実から逃避するために書かれたとしか思えないものも多い。
しかし、本当にそんな作品が多くの支持を得ているのだろうか。
そんなことはないと思う。支持を集め続けている作品では、世界は主人公に無条件に優しいだけではない。
チートだったりハーレムだったりしても、ある程度は困難があるのだ。そして、それなりに労力を費やして克服しようとする。世知辛いようだが「主人公に優しいだけの世界なんかあり得ない」のだ。
他者の共感を得よう、楽しませようとする意図があるからこそ、作者や読者に心地よいだけの世界を否定する。例え虚構だろうが、「都合が良いだけの世界」を心から楽しむことなんてできないからだ。自分の経験がささやくのだ。「こんなことはあり得ないよ」と。
以前も書いたが、僕は創作のスタンスは自由だと思っている。
作者は自分の書きたいように書けば良い。
しかし、自身の願望や妄想を書き連ねた物語を、多くの人が読むべきと思っているのならば、それは無理な話だと思う。
例え、楽しむことのみを前提として描かれたものでも、人は今までの自身の経験によって築かれた価値観と照らし合わせてしまう。
それが肯定してくれるものならば受け入れるし、否定するものなら「何か違うよね」となってしまう。
要は目的に合った手段で、書きたいように書くべきなのだろう。
自分の作り上げた世界を愛でることが主な目的ならば、他者の評価なんか無視して突っ走ればよい。
先ずは読んでもらいたいのならば、他者の評価は気にするべきだろう。この物語を読んだ人はどう思うのか。他者の価値観とずれていないか。どう話を構築すれば読んでもらえるのか。読者に受け入れられると思えるものを模索して書いていけばよい。
書きたいことがそのまま大多数に受け入れられることもあるかもしれない。しかし、そうそう起こり得ることでもないだろう。
助言や提言と作り話では条件が異なる。前者は基本的に一対一だ。しかもこちらの意見を納得させて、相手の間違えを正すためのものだ。
後者は不特定多数が対象で、しかも楽しませるためのものだ。
しかし、「伝える」という目的は変わらない。助言にせよ、物語にせよ、ただ自分の意見を押し付けるだけのものは相手には届かない。
人は基本的に自身の実体験に基づくものを優先するのだ。その上で、どうすれば伝わるのかと葛藤したものが相手に響くのだろう。
ズルい物言いかもしれないが、実はこの駄文も誰かに伝わるとよいなと思いながら書かれている。
でもそれは僕が強制できることではない。それでも書いてしまった。何故だろう。承認欲求や自己顕示欲もあるだろう。
しかし、最大の理由は決して100%理解し合うことは無理と分かっていても、他人と考えを分かち合うことに喜びがあるからだと思う。
全ての人に受け入れられないとしても、創作を続ける人が絶えないのは、その共感の感動を忘れることができないからではないか。そして私事で恐縮だが、僕はそうやって懸命に創作に尽力する人々に好意を持たずにはいられないのだ。
そして物語に触れ続けることで、そんな人々と感動を共にしたいからこそ、本を読み続けるのだと思う。
ある作家が誰なのかは、ピンとくる人も多いでしょう。作家より作品を優先するのですが、この人は今でも僕の中では別格であり続けています。