出逢い
少し冷たい風が剥き出しの顔を冷やしていく
。枯葉を散らせた後の街路樹は寂しくも力強く立ち並ぶ。冬服の制服にマフラー、手袋では寒さを抑えきれなくなってきたなと肌で感じた。高校の西口門から柵に沿って真っ直ぐ一つ目の信号で曲がり、2人分ぐらいの細い道に入る。たまに同じ高校の人とすれ違う時もあるが、この道を抜けた先が住宅街であるのだから、いちいち誰がこっち方面なんて意識する必要もない。例えば、気になる女子が同じ通学路を使っていたとしても、帰宅する時間が違えば、一年くらい気づかないことも不思議じゃない。
垣根の間から出て来たのだろうか、元は真っ白だったはずの仔猫が、クラスメイトの女子にすり寄ってるのを見た。
クラスメイトは子猫を見つめるように見ていたが僕も僕で、その姿に熱い視線を向けていた。ロングの黒髪に透き通るような白い肌。長い睫毛にキリッとした二重まぶた。何年も見続けてきた。
接点なんて無く、クラスメイトでたまに席が近くになればそれで満足。好きだという気持ちを抑えられなくなるほどではないが、好意を持っていることは自覚している。
無防備なクラスメイトの立ち振る舞いに少なくとも見惚れていた。
木崎珠晴。全ての物事に対して冷めている俺でも、胸が高鳴る具合には美人な女子。成績は優秀と良く聴くが、それ以上の噂はない。
少し汚れた白の仔猫は、木崎珠晴の右足首にすり寄って一所懸命鳴いていた。その姿は愛くるしいのだが、それを見ている木崎の顔がくしゃくしゃにくずれて、涙を手で拭い、小さい声で嗚咽を漏らしながら、何かを呟いてる。その表情はあまりにも苦しそうだった。
木崎珠晴は暗い性格にみえるというわけではないが、かなり冷静で、表情の変化が全くない。1年間見続けた俺が思うのだから間違いはないだろう。
その木崎珠晴が、誰が通るかもわからない道の端で躊躇いもなく負の感情を垂れ流している姿に胸が締め付けられるように苦しくなった。駆け寄ることに躊躇はなく、木崎しか見えてなかった。木崎ではなかったら、こんな状況でも声をかけることはなかったと思う。自分から積極的に何かをして、後悔しなかった事がないからだ。17年という月日は既に色々な事を俺に学ばせている。
座り込んでいる木崎珠晴と同じ目線になる様に屈み込む。
『ど、どうかしましたか。』
緊張と心配と不安が混ざりあい、登った血が自分の顔を赤く染めて行くのを感じる。
声をかけただけだというのに、さっきまでの寒さが嘘の様に今は熱い。
木崎珠晴はゆっくりと顔を上げる。若干鼻水も垂れてしまっている顔を隠そうともせず、絶望に深く浸かってしまったかのような光のない眼を向けてくる。
『たす…け、て…。』
焦点の合わない眼で子猫を優しく撫でる左手はそのままに、右手で強く制服を掴まれる。その行動があまりにも鬼気迫るものだから、流れるままに、その右手に優しく手を添た。
『わかった。』
なんて答えるかに迷う事もなく、口から出た言葉は当たり前の肯定で、けれど無責任な安易な答えとは思わない。俺はこの言葉に後悔することはないと明確に誓える。心の中で意思は強く固まった。
『この子を飼ってくれるの?』
視線が子猫に吸い込まれる。
『…へっ。』
一瞬理解に苦しんだ。いや想定できたことなのか。状況をもう一度見返してみる。懐いた野良子猫。泣く木崎。いや、普通泣くか?野良の子猫に懐かれて、でも、家で飼えなくて、でも見限れなくて、割り切れなくてということなのか?
ここまで絶望することなのか…。
子猫に写していた視線を戻すと、唯一無二の救いの神を見上げるかのような木崎さんの表情に胸を撃たれる。涙を流しながらも、希望の光が見えた時の絶望からの脱却を許された瞬間、人間はここまで優しさと慈愛に満ちた表情が出来るのかと思考が停止しそうになった。が、実際俺の家で猫を飼う事が出来るのかというと出来る気がしない。一度も動物を飼った経験がなく、何回か犬を飼いたいという妹の意見が即座に却下されていたのを見たからだ。
一番嫌なパターンだった。赤ん坊や子供の泣き声に胸が痛くなる時の虚しさ。正義感を勘違いして捉えながら、可哀想だと原因の経緯も知らずに同情してしまう時の心の機微。
慣れていくものだと思っていたが、仔猫の木崎の手に擦り寄って暖を取っているような振る舞いに心が折れる。
もしかしたら、この感情の延長で木崎珠晴は耐えられずに泣いていたのかなあと、親近感の様なものを勝手にいだいてみる。
仔猫の方に近付いて逃げない事を確認する。白い毛が所々土でよごれ、泥棒草が所々付いていた。
試しに仔猫の方にゆっくりと手を差し出すと、ひるむ事なく仔猫は鼻をつんと当てて、首の当たりを指に擦り付けてくる。
汚いとは思わなかった。もふもふとはしてないがふわふわした肌触りが気持ちいい。今度はこちらから撫でてみる。よく漫画や動物番組でみる、耳の付け根当たりや、顎の下を指先で撫でるように触った。すぐに仔猫はごろごろいい出し、顎を上げて目を閉じる。その撫で方が気持ちよかったからなのか、後転しそうになった仔猫をマフラーで包み込んで持ち上げる。マフラーの間から寝顔を覗かせた仔猫の体は両の手の平の大きさほどしかなく、とても小さかった。
猫の飼い方調べないとな。
『仔猫貰っていくね。』
俺の決意は決まってしまった。くしくも、木崎珠晴が言ったからというわけではなく、仔猫の愛らしさに心ぞこ自分がときめいている事に気付いてしまった。
家に帰って、まず何を用意すべきか考え始めると、同時に呼び止められる。
『ま、まって。』
木崎は涙を拭いて若干赤い鼻をずずっと鳴らすといつものキリッとした、表情にもどった。
『猫、飼ったことあるの?』
『ない・・です。』
『私はある。』
『…おぉー…。』
『私は猫飼ったことありゅっ…ある。』
まだ、若干精神が持ち直せていないらしく、噛むし、何を言いたいのか伝わってこない。 木崎珠晴の意外な一面に興奮しながらも、困惑が頭の中を占める。
とりあえず木崎の情報から整理するに、猫を飼っていたけど、飼えなくなってしまったけど、猫は好き、涙を流すほど好き。仔猫を自分で飼うことも出来ないのに、他人に押し付けてしまった罪悪感があるとすれば、面倒をみることを手伝いたいと考えている。そして、猫を飼ってくれますか?と頼んだ手前自分から一緒に面倒見させてくださいとは言いづらいということなのかもしれない。
コミュ障の自覚がある自分の思考回路はこの結論が限界だった。
『…飼い方教えてくれます?』
そして、正解に行き着いたらしい。
『うん。』
短い返事と可愛らしい小さなうなづき、それと、笑顔が返ってきた。密かに脳内シャッターを切り、その瞬間を記憶の最下層にしっかりと保存した。