疑念 その16
「お母さん。小人よ」
小鬼というものを今まで見た事も無いカノンは、その生き物を単なる小さな小人程度にしか思っていなかった。
「小人?」
逆に、小鬼を以前見知っていて、他に小鬼のような生き物を知らない母の方が聞き返す。
小鬼に警戒心が無いカノンは、床に倒れ伏す小鬼に恐る恐る近付いて行った。
「ギーッ。ピキーッ」
小鬼は、手足を振り動かし、体にまとわりついた蜘蛛の巣や埃を振り払っていた。
猫と同じくらいの大きさで、体の三分の一にもなる大きな丸い頭は少し剥げ上がった中年親父のよう。肉付きが良く、手足は小さいながらもぷくぷくと身が締まっている。
その激しい動きを見て、カノンは小鬼まであと一歩の所で足を止めた。
暴れ猫のように引っ掛かれてはいけない。カノンは、しばらく小鬼の様子を見る事にした。
小鬼は、何度も蜘蛛の巣がついた顔を両手でこすっている。
こすっては手を払って蜘蛛の巣を払おうとするが、それがなかなか取れずに苛立たし気に甲高い声を出している。
「ふふ……」
カノンは、それを見て笑ってしまった。どことなく滑稽に見えて可愛らしい。
カノンの目には、小鬼が危険な生き物では無く、犬や猫のように愛らしいものに見えていた。
第一、見た目が人間ぽいのである。
自然の獣のように、いかにも大きな牙や爪があればカノンも警戒していただろうが、柔らかそうな肌、子供のような手足、不器用なまでに不釣り合いな頭部の大きさを目の当たりにすれば、恐怖や不安も頭をもたげる気も失せるというものだ。
小鬼は、そんなカノンに気付いて、慌てて体を起こした。
そして、すぐ側にいるカノンに驚き、丸い目をさらに大きく見開いて走り出そうとした。
が、小鬼は、すぐにその丸い顔を歪めて、両手で足を押さえてしまった。
「あら、この子怪我してるわ」
カノンは、小鬼の太腿がギザギザに切れて血が流れているのを認めた。
「ちょっと、見せて」
小鬼は、よく見ようと顔を近付けるカノンを怯えるような表情で見ている。なるべく、カノンからも逃げ出したい感じだが、足の痛みとここに辿り着くまでに疲弊した体のせいで最早一歩も動けないようだ。
「可哀相……」
カノンは、苦痛を我慢する小鬼にすっかり同情していた。
「待ってて」
カノンは、急いで狭い家の中を横切ると、壁に吊るしてあったくたびれた布切れを取って小鬼の前に戻って来た。
カノンは、まず布切れを一部破り取ると、小鬼の傷口から流れ出る血を拭き始めた。
「ちょっと、そんなに暴れないで。傷口が広がっちゃうじゃない」
小鬼は、カノンが自分に何をしようとしているのか分からず、体を押さえ付けていたカノンの手を必死に外そうともがいた。
カノンは、バタバタと動く足に苦労しながらも少しずつ血を拭いて行った。
始めは、カノンの手から逃げ出そうとしていた小鬼だったが、カノンが何をしようとしているのかが分かると、急に大人しくなって、不安そうな表情をしながらも、カノンのするがままに任せるようになった。
「そうそう。じっとしていれば痛くしないからね」
カノンは、小鬼の血を拭き終えると、残った布切れで傷口を縛った。
「薬とかは無いのよ。ごめんね。これで我慢してね」
カノンの柔らかい声に少し落ち着いたのか、小鬼の表情は次第に警戒が解けていった。
そんな小鬼が気に入ったカノンは、小鬼の頭に手を乗せた。
普段なら、人間が触れる事を嫌う小鬼だが、カノンのさせるままにしている。
「あら、気持ち良いのかしら?」
カノンは、小鬼の頭をゆっくりと撫でた。
「お母さん。この子、怪我が治るまでここに居させていいよね?」
「あなたの好きなようにしなさい。私は、反対しないわよ」
そう言いながらも、カノンが抱き上げて見せた小鬼を見た母は、一瞬表情を凍ばらせた。
「カノン。それ、小鬼よ」
「え? この子が小鬼なの?」
母に指摘されて、カノンは、意外そうに抱きかかえている小鬼をもう一度見た。
小鬼は、カノンと母の雰囲気を察知して、再び心配そうな顔になる。
「でも、この子、大人しいわよ。ほら、全然悪戯とかしないし」
小鬼を不安にさせてはいけない。
母の不安を他所に、カノンはにこやかに微笑んで小鬼を見た。
「そう?」
確かにこう見ると、只の小さな子供みたいに見えない事も無い。
小鬼に対して、何の警戒心も抱いてないカノンは、小鬼をそこらの野良犬や野良猫と同じに見ているようだ。
しかし、聖剣戦争中、連れ合いと各地を放浪して来た経験がある母にとって、その間、小鬼の被害に頭を悩まされた事は記憶に新しい。
「……」
今は、怪我をして大人しくしていても、動けるようになると何をしでかすか分からない。第一、カノンが仕事に行っている間、小鬼の相手をしなければならないのは自分なのだ。
母は、カノンと小鬼をしばらく見比べると、軽く溜め息をついた。
「分かったわ。好きにしていいわよ」
もう、自分は先が短い。カノンには苦労ばかりかけて来た。あと少しの人生、カノンの思うようにさせてあげよう。
例え、小鬼がまた元気になって、暴れ回ったとしても、自分が我慢すればいい事だ。
「ほんと? ありがとう、お母さん」
カノンは、嬉しさのあまり、小鬼を強く抱き締めていた。
「ポキッ。ピキロ、ペッテ!」
小鬼がカノンの腕の中で声を上げながら痛みを訴える。
「あ、ごめーん。痛かった?」
慌てて、カノンは力を緩めて小鬼に謝った。そして、布で縛ってある太腿を優しく撫で始めた。
「ほら、もう痛い事はしないから、心配しないでね」
カノンが太腿だけで無く、全身を頭も撫でてやると、小鬼は不思議な表情でされるがままになっていた。
当然である。小鬼は小鬼だ。
人間だけで無く、他の生き物からそんな事をされよう筈が無い。
今までに無い経験に、小鬼は戸惑っていた。




