疑念 その12
紫夜の七月二十二日。朝ふたつ。
揚々(ようよう)と大地から顔を覗かせた光の女神がトラ=イハイムの隅々にまで一日の始まりを告げる温もりを与えている頃。
明け方から降り始めていた雨は既に止み、石畳を濡らす水がようやく乾き始めていた。
貴族達に仕えている使用人達は、朝の準備を終え、それぞれに物足りない朝食にありついている。
公爵邸の玄関が開くと、いつものように無表情を貫く執事のオーウェンが軽く一礼し、シロリオを中に入れてくれた。
今も密輸船から逃げ出した船員の捜索は続いている。
さらに、捕まえた船員の護送手配や総督府への報告書作成の指示等で眠る時間はほとんど取れず、シロリオは疲れた体を引きずりつつ公爵家に赴いている。
「公爵様は食事中ですので、後程顔を出されます」
オーウェンはそう伝え、セーブリーの元に向かった。
だが、いつもは時間を掛けて食事をする筈のセーブリーは、この日は早々に切り上げて、シロリオを執務室に呼んだ。
やはり、夕べの件が耳に届いているのか。
シロリオは、緊張で感覚が過敏になっているのに気付き、ひとつ深呼吸をした。
体は疲れているが、さすがに疑惑の相手との対面に頭は冴え切っている。
ノイアールが言っていたように、ここは平常心で臨まないといけない。
相手がセーブリーだけなら何とか切り抜ける事が出来るかもしれないが、謀反を計画した容易ならぬ仕掛け人がどこかで見ているとすれば、下手な芝居は禁物だ。
シロリオがいつものように執務室の扉を叩くと、中から「入れ」という声が聞こえた。
「失礼します」と、警戒する素振りも見せずに中に入る。
もし、セーブリーがシロリオを捕まえるつもりなら、屋敷に顔を出した瞬間に襲われている筈だ。ここは、普段通りで行くしかない。
部屋の中は、窓から漏れ入る日光が暗闇を貫いていた。
光の中を埃が踊り舞う側で、セーブリーは呼吸も荒々しく深く腰掛けていた。
「どうした? こんなに早い時間に」
いつものように書類に目を落とす素振りを見せる。
他に人影は見られない。しかし、目で見る物が全てでは無い事くらいは知っている。
シロリオは、他者の存在を頭に置きながら平静さを装った。
「はい。実は、夕べ密輸に携わっていた大型船を捕えましたので、ご報告に伺いました」
セーブリーは、隠し事が上手い方では無い。
今も、シロリオの言葉を聞いて、僅かに視線を厳しくした。
「それは、警備隊の仕事の範囲だ。わざわざ、報告するものでは無いだろう」
「確かにその通りなのですが、実は密輸された船荷が貴族層向けの高級品ばかりでしたので、これは公爵様のお耳にも入れておかなければと思いまして……」
セーブリーは落ち着きを払い、両手を組みながらシロリオを見た。
「成程、貴族達を管理監督する立場から、確かに知っておかなければならない内容だな」
シロリオは、頷いた。
「で……、密輸の元締めは見付かったのか?」
その時、セーブリーの目がシロリオに張り付いた。
もし、自分の名前が出たら、この場で命を奪いかねない勢いだ。
「……いえ、大変申し訳ありませんが、実行役の商人は既に姿をくらました後で、捕まえる事の出来た船長や船員達は、詳しい事を知らされていないようでした。船内も調べてみましたが、特に証拠になるようなものは発見されませんでした」
当然、シロリオも仮面を装い、素知らぬ体で話す。
「……他に怪しい物は無かったのか?」
セーブリーの視線は幾分和らいだようだが、それでも言葉の端々に緊張感を漂わせている。
「はい。それが残念です。今は、国王警備隊全力で、その商人の追跡に力を注いでいます」
セーブリーは、それを聞いて手を振った。
「いや。いかんいかん。何を言ってるんだ。今、お前達は死妃の娘捜索をしているではないか。そんな事に集中している時では無いだろう」
机を叩きながら強弁する。
「は……。ですが、このご時勢、密貿易を見逃す訳にはいきません。貴族だけが良い思いをしているなどと民に思われましたら、後々に不穏の種を残す事になりますし、その隙を他国に狙われるきっかけにもなりかねません」
シロリオは、流暢に通り一遍の反論を口にした。それなりの姿勢を見せなければ、相手に怪しまれてしまう。
「確かにそうだが、しかし、死妃の娘捜索は森の民との約束がある。これを疎かにする事は許されん。だから、密貿易の方は、わしが引き継ごう」
来た。こういう展開になるのは、ノイアールとの計画で分かっていた。セーブリーは、今思い付いたという表情を作っているが、シロリオには、その下心が見え見えだった。
「ですが、こういう事は、いつも携わっております我々の方が良いのではないでしょうか?」
シロリオは、一応戸惑いを見せながら、抵抗する振りをした。
「状況が違う。密貿易の捜査は後に延ばす事が出来るが、死妃の娘の捜索は、緊急の課題だ」
ここで、シロリオは納得いかない表情を見せる。
「いいな? 命令だぞ」
本来なら、警備隊の副長が公爵から命令される謂れは無い。
シロリオは、公爵の手前、若干の不満を見せながら、を演技した。
「では……、公爵様のお言葉に甘えます」
それを聞いて、セーブリーはほっとした表情を見せた。
「うむ。そっちの方は、頑張ってくれ」
「あの……、それではひとつお願いがあるのですが……」
シロリオは、ここで声を潜めながらセーブリーに一歩近づいた。
この提案をする事は、ノイアールの策だった。
「実は、積荷の中に東方カナシラの珍しい水差しがありました。それをひとつ頂いてもよろしいでしょうか?」
シロリオの言葉に、セーブリーは一瞬動きが止まった。
シロリオの意外な願いに、セーブリーは虚を突かれたのだ。
「ん……、むふふ……。あっははははっ」セーブリーは、顔を上げて大笑いした。「そうか、そうか。そんなに気に入ったのか……」
「はい。……本来は、許されない事だと思いますが、大変美しい品物でしたので……」
「そうじゃな。お前は副長だからな……。む、はははっ」
セーブリーは、ひと笑いした後も喋りながらまだ腹を抱えている。
「別に構わんぞ。それは、密輸を摘発したお前の報酬として取っておけ。他にも欲しい物があれば持って行ってもいいぞ。……むふ、あはは」




