プロローグ その7
神竜の巨体が白皇宮の一番高い塔、《物見の塔》を登って行く。
右手を不自然に握り締め、左手と両足で石壁を剥落させながら巨体を揺らしている。
眼下では、すでに森の民と異獣の一団が白皇宮の城門を破り、宮殿に雪崩れ込んでいた。
レフルス兵はその波に飲まれないように踏ん張っているが、ひとりまたひとりと血を流し、最後の断末魔を上げながら地面に転がっていく。
使用人や老若男女から成るにわか仕立ての守備隊も大した抵抗も出来ずに被害を増やしていくだけだった。
ようやく、神竜が塔の頂上に辿り着いた時には、戦いも終焉に向かっている所だった。
◇
神竜は、物見の塔の頂上で大きく羽を広げた。
普通に考えたら、飛べる高さでは無かった。
一応、物見の塔のすぐ横には、崖下にラトアス河が流れている。
それでも、頂上からラトアス河の河面まで二百メタル程である。
上昇気流は無く、風を捉えて滑空する事は難しい。
しかし、神竜は、翼を満々と広げたままナパ=ルタに目を向けていた。
じっと首を伸ばし、鼻をひくひく動かし、何かを待っていた。
天を突く塔のさらに上で神炎に輝く神竜の姿は、見る者全てに神々しい思いを抱かせた。
暗黒の天を背景に、赤月の光に負けじと炎を揺らめかすその姿。まさに天に愛されし存在だった。
神竜の視線の先にナパ=ルタの大海が横たわっている。
トラ=イハイムからは、数百メタル先の波を見詰める神竜。
もはや、闇夜に包まれ、海と海岸の区別さえも人目には全く認識出来無い暗黒の空間。
しかし、その闇の中に動くさざ波さえも神竜の目は捉えていた。
そのさざ波が生み出す白い泡が今までよりも大きく飛び散り始めたのを神竜は見逃さなかった。
泡が舞い散った次には、海岸の夕凪草が儚げな淡い花弁を大きくしならせ始めた。
神竜は目を細め、その僅かな動きの変化を見定めると、ラトアス河に引き込まれるかのように長い首を伸ばし、巨体をゆっくりと塔から離していった。
河に落ちて行くという表現が正しいだろう。
神竜は、何の躊躇も無く、滑らかに、そして真っ逆さまに河面に向かって落ち始めた。
落ちている時も、神竜はラトアス河を遡る『見えない固まり』を冷静に測っていた。
物見の塔を過ぎ、宮殿を過ぎ、人々の視界から消え、トラ=イハイムの城壁の下に切り立った崖を滑るように落下して行く。
もうすぐで河に飛び込んでしまうという所で、神竜は広げていた翼を緩やかに丸く湾曲させ、角度を変えた。
すると、河面の寸前で神竜は、急に体を起こし、そのままラトアス河の水面すれすれに滑空し始めた。
普通なら、神竜の巨体は、河に引き込まれてしまう所だが、神炎に触れて急激に温められた空気が神竜と河面に挟まれた狭い空間で膨張し、神竜を支える浮力となっていた。
神竜は、巧みにラトアス河の水面を舐めるようにナパ=ルタの海に向かって進んだ。
そこへ、ナパ=ルタから遡って来た強い海風が神竜の翼に力強い推進力を与えた。
神竜は、向かい風を得ると、再度翼の角度を変えた。
翼を立てて、まともに風を受け止めると、神竜の体が軽々と上昇し始めた。
一度の向かい風で百メタルまで浮き上がると、そこで大きく羽ばたき、さらに高く、一気に高度を上げて行く。
一度勢いがついた神竜の体からこぼれ落ちる神炎の炎は、長い輝きを後に残し、綺麗な軌跡を暗闇に映し出している。
つい先程まで人々の目に見えていた神竜の姿は、早々と漆黒広がる闇空を背景に小さな姿を見せるばかりになった。
もう十分な高度を得た神竜は、輝く翼を広げると、ゆっくりと弧を描き、ナパ=ルタの海上からスカルの大地に方向を向けた。
阿鼻叫喚の広がるトラ=イハイムを中心に円を描くように回った神竜は、再び二度三度と羽ばたくと、遥か北方にあるスカルの尾根、カムレイの頂に向かって真っ直ぐに飛び去って行った。
我欲と汚濁にまみれる人間世界を顧みる事も無かった。
神竜は、ただ前のみを見据えていた。
その先にあるは神の峰。
《竜の巣》の頂。