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死妃の娘  作者: はかはか
第四章 疑念
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【導入部】

 一羽の鷹が大空を舞う。


 高く高く、静謐せいひつな上澄み水の如き、満天の蒼空。

 頭上に広がるその永遠なる深みを憧れるも、人は決してその高みに登る事は出来無い。


 孤高の鷹は、その空間を自在に我が物とする。

 天空の支配者の如く悠々と風を受け、神の視点から全てを見晴るかす。


 その目に入るのは、遥かな地平。地上を画布に、一面塗り広げられた色彩美。

 遠くまで続く、生の戦場。

 死のとばりが下りるまで終わらぬ小喜劇。




 クセレサは、青空に続く緑濃き小丘を駆け上がっていた。


 彼の長い旅路の終わりが近付いていた。



 シェザールとレフルスの大戦が故郷の人々に与えた損害は計り知れない。


 軍勢が通り抜け、避難民が根こそぎ奪い尽くした農地を復興させるには、残された民では難しかった。

 自分達も難民として新しい生き場所を求める事になるのは、当然の成り行きだった。


 彼らは、様々な土地に足跡を残して来た。しかし、どこも根を下ろすには決め手に欠けていた。

 少なくとも、仲間の命が失われない程度の食と環境が求められた。

 だが、それだけの場所を見付けるのも困難な時代だった。

 戦が終わっても、習慣や言葉の違いだけで簡単に憎しみ合える世界が広がりつつあった。


『シェザールの支配が確立した土地なら安全だ。フィリア出身の高官が民族間の争いを解消してくれる』


 そんな噂を聞いた父母と村の生き残りの人々は、最後の望みとしてトラ=イハイムを目指す事にした。


 一家にとっては、まだ七歳のクセレサと幼い妹のテニを連れての流浪生活だった。


 食う物が尽き、野草や樹皮を胃に詰め込む。野盗に襲われ、叔父や従兄弟達の悲鳴を置いて逃げ惑う。金が無く渡し船に乗れない為に、橋の壊れた川で女子供が次々と流れに呑まれて行く。


 目の前で繰り広げられる悲劇の毎日。


 それでも、彼らは歩みを止める事は無かった。

 この地獄が終える日を夢見て、志半ばで倒れて行った仲間達の犠牲を無駄にしない為に。


 栄養失調で骨に皮が張り付いたような状態だったテニが亡くなったのが、半年前の事だった。

 寒さ深まる秋の終わり、厳しい冬の寒さが顔を覗かせ、山々の景色が単調な白色に塗り替えられようとしていた頃。

 野ネズミの肝に当たったのか、父が素手で掘り起こした草の根に腹を痛めたのか、猛烈な苦しみに泣き叫んでいたテニが、ある朝、母の腕の中で久方振りの穏やかな表情を見せながら静かに息を引き取った。

 生まれてから一度も満腹を知らずに終えた生涯だった。


 その日以降の母の落ち込み様は酷いものだった。

 テニを埋めた木の下に魂を置いて来たのかと思わんばかりの姿。笑顔を失い、焦点の合わない目を漂わせ、己の体も厭わずに、手に入る食物を全てクセレサに与えていった。


 父が幾ら注意しても聞かず、衰え行く身を引きずるように進むその歩みは、死人と見紛うばかりだった。

 母の足並みに合わせていた父とクセレサは、当然の事ながら、仲間に離されるばかりになった。

 集団から外れてしまえば、食料にありつける機会も激減する。野盗に襲われる危険性も増す。

 それでも、父は母を支え続けた。子供のように軽くなった母の体を背負い、道行く人々に物乞いし、辛うじて母の命を繋いで行った。


 ただ、冬の冷気は、容赦無く三人を襲った。

 体力にも限りがある。何とか気力を奮い立たせようにも、筋肉に力が入らなければどうしようもない。


 ある日、ちらつく雪を背負いながら、父と母の亡骸の側で座り込む枯れ木のような少年を拾ったのは、好奇心旺盛なトラ=イハイムの高官だった。


 不思議な男だった。

 その高官は、たまたま父母の死骸を見た所、その着ていた見慣れない服装に興味を持ち、隊列を止めたのだった。

「少年。お前達は、何処いずこより来たのだ?」

 高官は、馬から下りると、精力的に死体をあらゆる方向から観察し、手に持っている羊皮紙に文字を書き連ねていった。

「この父親の胸に彫られている入れ墨の模様には何の意味があるのだ?」

 男は、口も動かせない程弱っていたクセレサに対して畳み掛けるような質問を浴びせた。

 クセレサの返事も待たず、しばらく夢中になって死骸を調べていた高官は、父親が下げていた首飾りに注目した。

 それは、知識豊富な高官でさえも見た事も聞いた事も無い図案が施されていた。

「これは……、何と巧みな業物わざものだ……」

 高官は、まるで宝物を手にしたかのようにその首飾りを光にかざした。

「見事だ……」高官は、初めて視線をクセレサに向けた。「小僧。この首飾り、私に譲ってくれまいか」

 しかし、クセレサは、微動だにせず姿勢を動かさない。

 高官は、その反応を肯定と勝手に読み取って、首飾りを懐に納めた。

「心配するでない。この首飾りを頂く代わりに、お前を引き取ってやろう」

 高官は、クセレサの命を代価に、首飾りを買ったのだった。

 ひとりの命がかくも軽んじられる時代だった。


 高官は、部下に命じ、両親から視線を外さないクセレサを強引に荷馬車に乗せてやった。

「私の名は、ラプトマッシャルという。トラ=イハイムの副総督だ。言葉分かるか?」

 クセレサは、その時、トラ=イハイムの単語を耳にして、ようやく微かに反応した。


 それから、数ヶ月。食の心配だけは無くなったクセレサは、まだ細い体ながらも健康を取り戻し、走り回れるまでになっていた。

 ラプトマッシャルが率いる警備兵は、トラ=イハイム総督付きの優秀な兵だ。そこらの野盗も手が出せない程の装備を備えている。

 少なくとも、クセレサに命の心配は無くなっていた。


 約一ヶ月後。

 ラプトマッシャルの一団が雪深い山あいの登り道に差し掛かった時の事だった。

 その長い道に沿って、多くの死体が行き倒れているのが見られた。

 体の半分が雪に埋まり、腐るよりも先に凍りかけている。

 それらの死体のほぼ全てが痩せ細り、着る物の他にはほとんど荷物を持っていなかった。

 何れも外傷らしきものは無く、何者かに襲われたという雰囲気も無い。


「これは……。何とも悲惨な光景だな」

 ラプトマッシャルは、延々と続く死者の列に言葉を失っていた。


 その死者の列に祈りの言葉を捧げていた地元の神官に話を聞いてみると、この人々は、遠くの国から遥々歩いて来た避難民だと言う。やっとの事でここまで辿り着いたが、最後の山を越える体力も無く、食料も無く、恵んでくれる家も無かった為、この場所で死を重ねるしか無かったのだ。


 クセレサは、荷馬車の上から路傍の死者達を凝視していた。

 お喋り好きだった牛飼いの娘がいた。若衆の指導者的人物だった男がいた。人々を率いていた村長がいた。村一番の庄屋の若夫婦が手を繋いでいた。

 その先で夫婦の赤ん坊が鍛冶屋の娘の腕の中で身じろぎをしていた。

 よく見てみなければ分からない程の小さな動きだった。


 ラプトマッシャルは、赤ん坊を拾い上げると、クセレサの荷馬車に運んで行った。

「この集団死体の中に、お前の父親と同じ入れ墨が入った遺体があった。この様子では、たったふたりの生き残りになりそうだ」

 それを聞いても、クセレサは何の感慨も浮かんで来なかった。

 これまでの経験が、彼から感情を奪い取っていた。

 幾多の死を見過ぎていた。人間が耐え得る限界を肌で感じていた。

 自分の身に降りかかる悲劇を受け止める心がまだ形作られていなかった。


 ラプトマッシャルが言った通り、峠を越え、下りに差し掛かった時には、行き倒れの死体を見る事は無くなっていた。

 もう、死ぬ事の出来る人間は登りで尽きていたという事だった。


 途中、ラプトマッシャルの仕事で幾つかの町に寄って、さらに数ヶ月が経過した。

 訪れた町では、ラプトマッシャルの仕事を手伝い、友達も出来た。徐々に心に落ち着きが生まれ、笑顔を取り戻していた。

 ただ、精神的安定を取り戻すには至って無かった。

 父と母と妹、そして村人達が自分に残してくれた『もの』の大きさを知るには、まだ早かった。


 季節は、いつの間にか春を迎えていた。


 ある時、荷馬車に乗るクセレサの側に馬を近付けたラプトマッシャルが言った。

「あの小高い丘があるだろう。あの丘の先にお前が目指すトラ=イハイムがある」

 衝撃の瞬間だった。

 クセレサは、言葉を失っていた。

 いよいよ、トラ=イハイムに着く。

 その事実が恐ろしくもあった。街に辿り着いた時、自分はどうなるのだろう。自分は、何か変わるのだろうか。

 物心ついてから、彼は旅のし通しだった。街に定着するという事をした事が無かった。

 トラ=イハイムは、一体自分をどう変えるのだろうか。

 そればかりは、父も母も教えてくれなかった。


「まだ、半日の距離だがな。どうだ。先に行って見てみるがいい」

 ラプトマッシャルが指差す先には確かになだらかに盛り上がっている丘があり、その裾を道が回り込んでいる。

「このまま真っ直ぐ突っ走れば、丘の向こう側の道で拾ってやる」

 クセレサは、ラプトマッシャルの言葉を受けて、荷馬車を下りると一目散に走り出していた。


 とうとう、終わるのだ。

 村人達が死を賭けてまで辿り着く事を願った希望の街。

 あらゆる民族の人々が共に暮らし、仲良く肩寄せ合う街。

 食う物に困らず、住む場所に困らない街。

 この世界で一番死から遠い夢の場所。


 何もかも投げ打って始めた旅がもたらすものは、自分に最高の贈り物をくれる筈だ。


 クセレサは、初めて疲れを感じていなかった。

 全力で走る躍動感、萌え上がる緑を踏み締める心地良さ、最高潮に高まる期待感。


 足元に芽吹く草花。

 あの時、この草花が自分達の食糧だった。

 足音に驚く鳥や虫達。

 今もその姿を見れば、捕まえて口に放り込みたい衝動に駆られる。


 小さな丘の筈なのに、なかなか頂上に辿り着かなかった。

 懸命に足を動かすのにかえって遅く感じられた。

 心ばかりが先に先に進んでいた。



 そのクセレサの頭上を一羽の鷹が舞っている。

 大地を這いずり回るように走るひとりの少年を睥睨へいげいし、悠々と風に乗る。


 丘の向こうには、確かに夢にまで見たものがあった。

 遠くラトアスの大河の側に横たわる石造りの無骨な建物群。

 スカル世界随一の長大な城壁。

 街の隅に輝く、ささやかな王宮の尖塔。




 鷹は、小さな人間の営みを一瞥して広野こうやをひと飛びする。


 誰にも邪魔されず、己が望むままに野を飛び、山を越え、海を渡る。

 そこには、好きだの嫌いだの、不安や恐れ、幸せや楽しみといった些末なこだわりは欠片かけらも無い。


 あるのは、広大な広がり。

 永遠の空間。

 究極に引き延ばされた遥けき青の奥行き。

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