プロローグ その6
すでに闇が天を覆い、兵士達の怒号も散発的になっていた。
戦いは、王宮の城門での攻防に移っていた。
森の民の掛け声。その声に呼応する異獣の唸り声。激しい音を立てて軋む城門。自分達の手足でそれを押さえる兵士や使用人達。
もはや、最後の時が迫っていた。
何頭かの身軽な異獣は、すでに城門を越え、王宮前で兵士達に襲い掛かっている。
こんな状況で、トレジが居ても立ってもいられずに始終動き回っているというのに、トレジの胸にしがみ付いているオーシャは、澄ました表情で静かに身を任せていた。
すでにテルファムが王宮を出たという話は聞いていた。
時折、鋭い声が城門の方から響いて来る。もしかしたら、テルファムが兵士達を督励しているのかもしれない。
トレジが窓の外を見ている間にも、城門の辺りで複数の松明が動き回り、「押さえろー」「何でもいい。支えになるものを持って来い!」という悲鳴に似た声が増え始めた。
もはやこれまでか……。
トレジは、観念していた。
この様子では、生き延びれそうもない。しかし、この腕に抱かれる温もりの源だけは……。
姫様だけは……。
助かる方法はないものだろうか。
◇
トレジの視界に、黒々とした巨体が見えたのはその時だった。
その瞬間。まるで、世界が静止したように見えた。
トラ=イハイムの空を覆っていた生臭い血の臭いが消え、一瞬の間に鮮烈な冷気に切り替わっていた。
世界は変わりないが、この一帯を包む何かが変化した。
下界の騒乱が、城門の破壊が、港からの悲鳴が、この圧倒的な感覚の前に無言と無音を強いられてしまった。
直接肌に感じられるだけで無い。まるで、体の内全ての血肉が畏れる。そんな感じ。
と、トレジの目に天翔る神竜の輝きが飛び込んできた。
体を貫く聖なる竜気と心を鷲掴みにする異なる存在感。
それは、偉大でもあり、神聖でもある。とにかく、あらゆる生物、竜族の中に於いても他とは全く異なる存在。
ここ、この場に身を置く全ての者が、己の今現在の置かれている状況を忘れ去る中、神竜は、徐々に旋回しながら、高度を下げて行った。
少しずつ、神竜の体が大きくなっていく。
やがて、白皇宮の周りを二度三度と旋回し始めた。
その体全体から噴き出す熱気は、トレジのいる部屋まで距離があっても、目を背けたくなる程の放射熱を持っていた。
トレジもレフルスの人間である。
カムレイやカムアミの峰を飛ぶ竜の姿は、珍しいものでは無かった。
それだけで無く、レフルス王は竜騎士と時折接触を持っていた為、王の側に仕えるトレジは、飛行竜くらいなら目の当たりにした事もある。
他の人々よりは、竜族は近しい存在だった。
それでも、神竜を目にする事は滅多に無い。
その存在は神に等しく、その声は神に等しく、その体は神に等しく、その眼は神に等しい。
その姿を目にする事は、世界を目の当たりにする事と同じだと言われて来た。
その神竜が一直線に白皇宮に向かい、王宮の基部に『着地』した。
神竜が白皇宮に捕まった瞬間、地響きのような轟音と共に激しい揺れが襲い掛かった。
その揺れで体勢を崩したトレジは、激しく床に体を打ち付けてしまった。
「姫様、大丈夫ですか?」
倒れる時、トレジは咄嗟に両手でオーシャを隠すように守り、身を捻って背中を下に向けていた。
それでも、倒れた時の衝撃は大きく、オーシャの頭が腕の中で大きく振れてしまった。
トレジが焦ってオーシャの顔を覗き込むと、オーシャは、相変わらず素の表情で何食わぬ顔をしていた。
それを見たトレジが安堵の溜め息をついた時、今度は、神竜が壁に爪を立てる音と共に塔が左右に小刻みに揺れ始めた。
先程よりは全然小さな揺れだったが、それでもトレジにとっては、塔が折れ曲がってしまうのではないかというくらいの恐怖を生み出すものだった。
トレジは、オーシャが怯えないように、オーシャの体を撫でていたが、それは、無意識に自分を落ち着かせようとする不安の現われでもあった。
「大丈夫、大丈夫ですよ。大丈夫……」
オーシャは、そんなトレジをじっと見上げるだけで、ただトレジの腕に大人しく抱かれているだけだった。
神竜が移動する毎に壁から化粧石が剥げ落ちる音が聞こえて来る。
石は、何回か白皇宮の壁にぶつかりながら鈍い音を立てて地面に激突している。
下の方からは、それを避けようとする人の悲鳴が聞こえて来た。
トレジは、落ちた石で誰も被害に遭わないようにと思った。
額から汗が流れ落ちた。
トレジは、部屋に熱がこもって来ている事に気付いた。
思わず周りを見渡したが、特に部屋に火の手があがっている訳でも無い。それなのに、今では大粒の汗が滲み出る程暑くなっていた。
一体どういう事だろうか。
トレジは、この熱がどこから来ているのか、もう一度周りを確認した。すると、外から窓を通って、熱の固まりが侵入して来ている事に気付いた。
この熱の元は、《神炎》だった。
神竜の体には、神炎が覆っている。
神炎とは、その名の通り、神の炎である。これは、神竜の胆力を表し、気高さを示す。
神炎を身にまとう神竜は、神の化身であり、神そのものである。
神炎を失う時が神竜の命の絶える時である。
龍神は、神竜として選びし竜にこの神炎を授け、選ばれし神竜はこの炎で身を焦がしながら天を統べるのである。
それは、熱いというものでは無く、心に突き刺さる力だった。
神炎は人間の弱さを燃やし、人間の欲望を焼き尽くす。
人間の存在自体が神炎の前には意味を失う。
トレジは、その熱からオーシャを守ろうと、オーシャを抱き上げ、部屋を出ようとした。
ここにいては、オーシャも熱にやられてしまう。
(待て……)
トレジは、足を止め振り向いた。誰の声だろう。
(こっちに来い……)
まるで、直接頭に語りかけられているような感じだった。
その声には、心だけで無く全身を鷲掴みにする力があった。
白皇宮を震わす『足音』は、次第に大きくなり、部屋の振動も大きくなっていく。神炎の熱もそれに合わせて上昇していく。
にも関わらず、トレジはオーシャを抱えたまま少しずつ窓に近付いて行った。
『声』を聞いてから、トレジの思考は停止していた。
ただ、言葉通りに従わないといけないという思いに囚われていた。
いよいよ、神竜の足音が窓のすぐ側まで近付いて来た。
内壁の調度品が音を立てて跳ね返り、床に落ち始めた。
東方の貿易国フィレル渡来の鮮やかな硝子の水差し、西方の伝説の国ウイレーカより贈られたという奇妙な動物が描かれた器等、あるものは粉々に砕け落ち、あるものは床に叩き付けられた衝撃で大きく変形した。
しかし、トレジは、頭の中では大変な事になっていると分かっていても、体は近付く存在に吸い寄せられていた。
神竜から噴き出す神炎は、窓の外に広がる光景を陽炎のように揺らめかせている。
いよいよ立つのも困難な程、振動が大きくなった所で、神竜の横顔が窓の外を支配した。
あまりに大き過ぎて、見えるのは大きく真っ赤な瞳と顔の一部に過ぎないが、この世の頂点から世界を見晴るかすその巨大な眼は、間違い無くトレジの姿を視界に捉えていた。
神竜の視線。
トレジは、その視線に串刺しになり、微動だに出来無かった。
全身を拘束され瞬きひとつできず、呼吸をするのも困難で、ただ立ち尽くすだけだった。
(……その子を預けよ)
もう、トレジの体は何の感覚も持っていなかった。
神炎の暑さも、神竜への畏れも、オーシャの存在も……。
ただ、神竜の言葉をそのまま受け入れるだけの受け皿しか残ってなかった。
それでも、トレジの頭の片隅には、ひとつの思いが引っかかっていた。
この子を手放したくない。
オーシャは、レフルス王の子供であるが、長年一緒に暮らし、誰よりも側に寄り添って来た。トレジにとって我が子同然の存在である。すでに、母親としての使命と愛情に溢れ、オーシャと離れてしまう事は考えられなくなっていた。
その強い思いが、天上の支配者である神竜の絶対的命令に対して僅かに拒否反応を見せていた。
神竜もそんなトレジの感情に気付いていた。
(案ずるな……。我が懐に置くだけだ)
神竜の目が半分程細く閉じられた。
トレジは、その動きに神竜の表情を感じた。
神竜の思いを感じ取れない人間に見せた神竜なりの気遣いだった。
信じろ。そう語りかけてくれている、とトレジは思った。
トレジは、操られているかのように一歩一歩窓に近付いて行った。
噴き出す神炎の風に髪が靡き、服が激しくはためいた。
トレジが窓辺に立つと、神竜が手を差し伸べた。
その手も神炎の業火に包まれ、生き物のように炎が走っている。
(さあ、その子をこれへ……)
この子をその炎の中に入れるのか。とは思っても、体は神竜の言葉通りに動いている。もはや、神炎の熱に身を焦がされ、顔が火照り、体中から汗が噴き出している。
トレジは、これ以上、我慢出来無い程の苦痛を感じていた。
窓の外に差し伸べたトレジの手からオーシャがこぼれ落ちた。
小さな体が炎の中に受け止められる。神炎の死の手は、あっという間にオーシャに襲い掛かかった。
姫様……。
トレジは、思わず神炎の熱も忘れ、オーシャに向かって手を伸ばした。
窓から身を乗り出し、手が神炎に焼かれながらもオーシャから目を離さない。
あっという間にオーシャは炎に包まれ、服が燃え上がってしまった。
トレジは、息が止まり、両手を激しく動かした。
見ている間に、神竜の手がオーシャを握り締めた。
トレジは、その様子をただ見ているしか出来なかった。
オーシャを受け取った神竜は、次の行動に移った。
神竜の顔は視界から去り、オーシャを握る手もそれに続いた。
激しく足音を響かせながら、神竜は、さらに塔の上を目指して壁をよじ登って行った。
トレジは、再び揺れ始めた窓枠に振り落とされそうになり、慌てて部屋の中に体を戻した。
疲れ果て、床に崩れ落ちるように座り込む。
服の袖が神炎の熱で燃え落ち、手が焦げ、髪の毛も先の方が熱で縮れてしまっていた。
それでも、トレジは熱さも痛みも忘れていた。
「姫様……」
さっきまで自分の腕の中で静かに身を任せていたオーシャはいない。
トレジは、これで本当に良かったのか、大きな不安が胸に広がって行くのを感じていた。
オーシャは、無事なのだろうか。神竜に委ねて良かったのだろうか。様々な思いが頭を駆け巡った。
ただあるのは、かけがえの無い存在を失ってしまった喪失感だった。
トレジは、大きく喘ぎながら、茫然と窓の外に目を向けていた。




