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死妃の娘  作者: はかはか
プロローグ
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プロローグ その5

 乳母のトレジは、まだ三歳にもならないオーシャを抱きかかえながら、おびすくむばかりだった。


 オーシャは、テルファムの次女である。

 白い肌に漆黒の髪を持ち、丸みのある目には燃えるような赤い瞳がたたえられている。

 姫は、表情に乏しく、いつも寂し気な表情を見せている。でありながら、トレジがいると必ず側に寄り添い離れる事が無い。

 ただ、時折、窓の外を凝視して動かない時がある。昼と言わず夜と言わず、それが一刻いっときも続く事がある。まるで、何かに吸い寄せられるように、呼吸する胸の動き以外身じろぎもしないのである。トレジはそういう時、この姫が普通では無いと感じてしまう。


 トレジは、三年前、子供を亡くしている。

 オーシャが生まれた頃、二歳にならない内に病死したのだ。

 その為、レフルスの有力部族の血筋であり、利発で穏やかな性質を見込まれたトレジは、オーシャの乳母に抜擢される事になった。

 今では、オーシャはトレジ以外には全く懐かず、起きている間はトレジの側から離れる事が無い。


 トレジは、今朝は朝靄あさもやの中、真っ青で澄んだ空を眺め、真夏の暑い盛りの中、涼やかなひと時を過ごしていた。

 いつも通り、《守り女神の井戸》で顔を洗い、水を汲み、給仕人達と談笑しながら朝食をした。

 彼女らは、三日間に渡り繰り広げられているシェプトアンヅマの大祭の話題に盛り上がった。


 この三日間は、レフルスの民は龍神に祈りを込めて、三日間の無事を願い、共に生きる仲間の事を願い、最後に家族の事を願う。

 厳しい環境で生きて来たレフルスの民にとって、家族よりも力になる仲間とその共同体の祈りの方が先になるのは当然の事だった。

 夜は、一日の無事を祝い、盛大な祭りが行われる。


 白皇宮の使用人は、この三日間を交互に休み、祭りに参加する事が出来る。

 トレジは、一日目に休みをもらい、仲の良い友人と祭りを楽しんだ為、今日祭りに行く仲間にお勧めの催しや美味しい屋台を教えていた。


 朝食の後は、身支度をしてオーシャを起こす。

 オーシャは寝付きが良く、早起きで、この日も寝台の上で体を起こしたままトレジが来るのを待っていた。

 トレジは、窓を開けながらオーシャに声をかける。

 オーシャを膝に抱き、体を拭いてやり、髪をいた。

 オーシャに朝食を与えた後は、午前の散歩をし、部屋に戻って物語を読み聞かせる。

 昼寝の間にテルファムにオーシャの様子を報告し、昼過ぎに再び散歩とオーシャの遊び相手をする。


 いつもの一日の筈だった。

 突然鳴り響いた獣の遠吠えを聞くまでは……。


 トラ=イハイムの周りに森の民と異獣の集団が集まっているのを見たのは陽も傾き始めた昼六つを過ぎた頃だった。


 オーシャの部屋の窓からは城壁の外を見通す事が出来る。

 城壁の内側は、壁の側まで家々の屋根がひしめき合い、城壁の外側は、畑が広がり、小さな林が散在している。フィリアの平原が視界の届く範囲まで遠く横たわっている。


 城壁の向こう側から近付きつつある森の民は、異獣に乗っている者もいれば、徒歩の者もいた。

 各々弓矢を背負い、剣を腰に差し、個々に数頭から十数頭の異獣を率いていた。


 森の民は、細身であるが筋肉質で、浅黒い肌をしている。顔や上半身に単純な入れ墨や鮮やかな色の模様を塗っている。この彩色は、部族の偉い者程、使う事の出来る色を増やす事が出来ると言われる。


 異獣は、幼い内に選び出されたものを森の民が調教し、飼い馴らす。だからと言って、その全てが従順というものでも無い。一旦、飼い主の手を離れると、言う事も聞かず、疲れ果てるまで暴れ回る異獣もいる。敵を見付けるだけで手が付けられない程興奮する異獣もいる。


 トラ=イハイムの城壁の上では、事の次第が把握出来てない兵士達が外を見ながら慌ただしく動き回ったり、声を掛け合って守備についている。


 トレジは、オーシャを抱いたまま、その光景から目が離せなかった。

 後ろでは、部屋の外から、不安そうな声を上げながら通り過ぎる使用人達の足音が聞こえていた。


 森の民や異獣は、確かに恐ろしい相手だ。特に異獣は、扱いに慣れている者でも、その爪牙の被害に遭う者が少なくなかった。

 トレジの父もかつて若い頃に、比較的温和だと言われている豚獣とんじゅうに足を斬り裂かれて、生死の境を彷徨さまよった事があるし、親戚では何人も命を落としている。

 それでも、異獣は神の使いだと信じられて来た為、安易に拒否する感覚を持ち得なかった。

 誠心込めて付き合えば、心が通じるのだと教えられて来た。


 ただ、今のこの感覚は、何かおかしな事が起こっていると自分に伝えていた。

 この距離でも、森の民や異獣から感じられる雰囲気は、まさに異様としか言い様の無いものだった。

 いつもの感じでは無く、ピリピリとした緊張感が漂っていた。

 ここからでもそう感じるのだから、城壁上の兵士達が受けている感覚は相当なものだろう。


 ふと、上下や両横に頭を振ると、自分と同じように窓から顔を出す人々を認める事が出来た。王宮の使用人や衛兵達だ。

 彼らの顔には、一様に不安と恐怖の表情が浮かんでいた。もちろん、トレジ自身にもであるが。


 いつしか、空には曇天が広がっていた。しかし、雨の匂いは全くせず、空気は相変わらず乾燥していた。少しばかり強い横風は、この季節にも関わらずにひんやりと冷たく、夏の暑気もどこへ行ったかという程涼やかだった。


 何かが起こりそうな……。


 トレジは、この時になって改めて気付いた。今日がシェプトアンヅマの三日目だという事を。


 白皇宮を震わさんばかりの吠え声が上がったのは、その時だった。

 一頭の異獣から放たれたひと鳴きは、たちまちの内に周囲の異獣達を興奮の渦に引き込み始めた。

 あちこちの異獣から同じような吠え声が上がり、その振動は最も離れた場所にある王宮にも届き、トレジ足の先から頭の先まで共鳴させていた。


 囲みの一番後ろにいた森の民の指揮官から戦闘開始の銅鑼どらが鳴らされた。


 その次に広がる光景に、トレジは息を呑んでしまう。


 森の民の合図に異獣がトラ=イハイムの高い城壁を駆け上がり、兵士達を襲い始めたのである。


 レフルスは、トラ=イハイムを囲うラメの香木を一切残らず斬り倒していた。

 それは、レフルスの民にとって嫌悪すべき対象であったし、森の民を信頼しているからこそ必要無いものだった。

 その為、異獣は何の障害も無く壁に近付く事が出来たのだ。


 トレジの周囲からありとあらゆる悲鳴が沸き起こった。


 トレジは、オーシャを胸に抱えながら、その光景から目が離せなかった。

 思考が停止していた。

 遠目ではあるが、目の前でレフルスの兵士が次々と血祭りにあげられていた。

 誰もが分かる。異獣を相手にしては、抵抗する事はおろか生き延びる事も不可能だ。


 トレジの背中に声が飛んで来た。

「早く逃げましょうっ」


 振り返ると、王宮の清掃役をしていた女性が部屋の入口に立っていた。

 足元は落ち着かず、今にも走り去ってしまいそうだった。


「でも、どこへ行くの?」


 トレジがオーシャを抱きながら聞くと、その女性は答えに詰まってしまった。


「港に決まってるだろ。行くぞっ」

 廊下の見えない所から男性の声が聞こえて来た。


 トレジに声をかけた女性はトレジに返事せず、その言葉に促されるままに行ってしまった。


 慌てたトレジが駆け寄って部屋から顔を出すと、廊下にはもう人影が無くなっていた。

 ただ、遠くで混乱に惑う人々の声と慌ただしい足音が聞こえて来る。


 トレジは、置いて行かれた気持ちになった。

 恐怖が全身を襲い、オーシャを強く抱き寄せる事でしか落ち着きを得られなかった。

「待って……」

 トレジは、廊下の向こう側に誰に言うともなく呟くと、部屋に取って返した。


 オーシャを背中におぶさり、オーシャの服や布巾等をかばんに投げ込む。

 再び廊下に飛び出すと、トレジは足早に階段に向かい始めた。


 大広間に下りると、多くの使用人が足止めを食っていた。

 聞くと、王宮の城門は全て閉ざされ、脱出が出来無いという事だった。

 それに、港はすでに町の人間で混乱を極めていて、これから向かおうとしても、とても船まで辿り着けないだろうと言われた。


「我々の任務は、陛下をお守りする事にある。決して諦めず、落ち着いて行動するんだ」

 騒然とした中、衛兵長が両手を広げて語り掛けている。


 皆、その言葉を黙って聞いていた。

 その後、衛兵長の指示に従い、男達は慣れない武器を手に兵士に導かれながら宮殿を出て行った。

 女達は、男達が出て行った後の出入口を塞ぐ為に、手分けして椅子や机等を集めて来た。


「トレジ。君は、姫様をお守りするんだ。命に代えて……」

 衛兵長がトレジを見付けると、側まで近づいて来て言った。

「我々は君達を守る」

 衛兵長は、トレジの肩に手を置くと力強く頷いた。


「もう、姫様をお助けする事は出来無いのでしょうか」

 トレジの言葉に衛兵長は視線を落とした。

 その様子を見て、トレジはようやく実感した。今、自分達は只ならぬ状況に陥っている。

 すなわち死を覚悟しなければならない。


 衛兵長は、もう一度トレジの肩を優しく叩くと、何も言わずに行ってしまった。


 残されたトレジは、再び荷物を手にして大広間を後にした。

 先程下りて来た階段を逆に登って行く。

 一歩登る度に後ろの騒ぎが遠くなっていく。

 あの声が絶えた時、自分とオーシャの命も尽きる時だ。


 トレジは、故郷の山深い集落で畑を耕しているであろう父と母を思い浮かべていた。

 王女の乳母に抜擢された喜びを伝えると、父は、姫の為に己の全てを捧げよ、と返事をしたため、母は、険しい山を隈なく回ってくれたのだろう、故郷の薬草を箱一杯にして送り届けてくれた。


 トレジは、オーシャが成人した時には、いつか故郷に戻り、両親と共に狭い畑を守り続けるつもりだった。


 そんな時を迎える事はもう無いかもしれない。

 トレジは、全身から力が抜けるのを感じた。


 謁見の間を横目にしながら塔への階段に向かっている途中だった。トレジは、テルファムが執務室に向かう所を目にした。


 相変わらず堂々とした威厳のある風格を備え、まるで今の苦境も毎日の日課のひとつだと言わんばかりの落ち着き振りを見せていた。


 トレジは、「陛下っ」と声を出すと、足早にテルファムに駆け寄った。


 テルファムは、気さくな人柄で、使用人にも良く声をかける事があった。

 部下を気遣い、思い遣り、共感する。それは、決して演技では無く、本当に彼らの事を思っての事だった。だから、テルファムと共に死を臨む事を恐れる者はひとりもいなかった。

 それが、レフルスの王と民だった。


 トレジもテルファムに親しみの気持ちを持っていた。

 自分達の王というだけでなく、偉大な保護者のような近しい存在として。


 テルファムは、立ち止まってトレジが近付くのを待っていた。


 トレジは、テルファムの元に辿り着くと、膝をついて頭を下げた。


「姫か……」

 テルファムは、トレジの背中にいるオーシャを見て呟き、二度三度とオーシャの頭を優しくでた。


「これから、どうなるのでしょう」

 トレジは、オーシャをテルファムに見せながら首を回してテルファムに聞いた。

 さすがに気安く国王に声をかける事ははばかられていたが、トレジは聞かずにいられなかった。


 テルファムは、そこで初めてトレジに目を向けた。


 相手を見通すような鋭い視線。トレジは思わず目を伏せた。

 テルファムの前では、己の存在が小さく感じられるような、そんな畏れを感じた。


「この子は、特別な子だ。この子は、我々人類の未来を担っている」

 テルファムの言葉は穏やかで、それでいながら強い意志を感じるものだった。


「未来を……」


「この子を森の民に渡す訳にはいけないのだ……」

 テルファムは、「この子を頼む」と言うと、トレジを残して執務室に向かって行った。


(注:テルファムの言葉として『未来』と語らせているが、これは、読者が理解し易いように訳したものである。中世スカル当時の単語に『未来』という意味の言葉がまだ存在していなかったのは残された資料で確認出来る。いくつかの伝聞資料の中で、より信頼出来る説としては、「この子は、種族が違う。その力と頭で我々の子供や孫の代を、今より生き易い生活にしてくれるものと思っている」という内容が有力であるが、これでは分かりにくい為、現代風に変えさせて頂いた)

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