【閑話休題 弐】
喚声と怒号、悲鳴と嗚咽。
人間が獣と違うのは、神にその姿作られし後、『火』という物質と出会った事だった。
火は、不思議な存在である。手で掴めず、掬えず、触れず、それでいて、明らかにそこに『ある』。
木を燃やし、山を飲み、水を消し、人を焦がす。
その熱を感じると、人の心まで燃え上がる。
火は、人を変えた。
かつて人は、大自然の一員であり、大自然に隠れ住み、大自然の傘下に生きていた。
しかし、火を手にした事で、人は世界を支配しようとしている。
ただ、人は火を支配した訳では無い。
火は、時に人を襲い、人を騙し、人を困惑させ、人を土に帰らせる。
それは、この世界に有り、この世界からの支配を受けない、自由な揺らめき。
トラ=イハイムに居た者達は、今その火に追われ、逃げ惑う。
その顔に浮かぶは、絶望と狼狽。
僅かな生への望みを掴み取る為に、倒れた者を踏みつけ、子供を蹴飛ばし、愛する者さえも打ち捨てて行く。
それが人間の飽くなき執着と言えば、それまでである。
その混乱を横目に、レフルスの兵士達は、手に手に剣を取り、無謀な戦いに挑んでいた。
シェプトアンヅマの夜。
悲劇の一夜。
シェザールが全てを賭けて築いたカムアミの壁を易々と越えて、異獣が街に『落ちて』来る。
レフルス兵は恐怖を押し殺し、異獣に突進して行く。
それは、死への直下行。
松明の届く先から、堂々たる偉丈夫の森の民が、巨大な狼獣に跨って城壁を越えて来た。
二メタル程もある太い指揮丈を振り回し、周囲の森の民に命令を出している。
この森の民が一隊の長だと見たレフルス兵達は、誰に合図するとも無く、一斉に駆け出した。
その数、十人か二十人か。
森の民の長と狼獣は、群がるレフルス兵を片っ端から食い千切り、叩き殺し、払い除ける。
しかし、レフルス兵は途切れる事無く押し寄せて来る。
二十人が五十人になる。
長に率いられた部下の森の民達も必死で防戦をするが、その眼に決死の炎を滾らせたレフルス兵の熱量に次第に押され始めた。
五十人が百人になる。
レフルス兵の波にもまれた森の民の長と狼獣は、城壁まで押し込まれていた。
部下達は、助けようにも、レフルス兵の量に手こずるばかりだ。
それでも、森の民の長と狼獣は、疲れを見せずにレフルス兵を跳ね返す。
だが、肉弾と化した兵達は、死体を踏み越え、その上に屍を晒し、さらに乗り越える。
大勢で狼獣の四肢に食らい付き、狂気を纏いし者が狼獣の口に身を投げ出し、肉体の圧でその動きを止めようとする。
百人が二百人となる。
終いには、狼獣は死体で埋もれ、森の民の長とレフルス兵の視線は同じ高さになっていた。
狼獣を捨てて逃げる方法もあったろう。
部下達を置いて場所を移す方法もあったろう。
しかし、森の民の長は、最後まで敵に背を向けず、味方に背を見せず、己の信念を全うした。
ひとつの刃が体を貫く。その兵の頭を叩き潰す。
ふたつ目の刃が頬をかすめる。その兵を投げ飛ばす。
三つ目の刃が腕に食い込む。その兵を足元に押さえ付ける。
もう一方の腕を数人掛かりで掴み取られる。
剣を持ち襲い掛かる。
剣を失った者は懐の短剣を持ち身を投げ出して来る。
それも無い者は棍棒や石を掴み、力の有らん限り振り回して来る。
二百人が最早何人生き延びているのか。
血が舞い、赤月の照らす地面に鮮血の絨毯が広がる。
炎の明かりが、その結末を照らす。
死者が作りし歴史のひとコマ。
天に響きし、命の咆哮。
但し、人々の記憶に残り続けるのは、遥か先に見える白皇宮の出来事。
神竜が刻みし、鮮烈な刻印……。




