【導入部】
《歴史家ラプトマッシャル》
『中世スカルにおける知の巨人。
純粋なフィリアの民。
ラトアス河沿いの小さな農村カリアスの小作農の生まれ。男三人女ひとりの四人兄弟の三男。長男が家を継ぎ、長女は隣村に嫁ぎ、次男はラトアス河で漁師になる。九歳の時、付近一帯を飢饉が襲い、口減らしの為、ラプトマッシャルは叔父の家に養子に出る。
伯父は、フィリア貴族の元で書記官を務めていた為、ラプトマッシャルも叔父の元でフィリアの学問を修めた。それだけでは収まらず、古今の学問・芸術、他民族の言語・文化を学ぶ。その才能をシェザール貴族に認められ、シェザール王府で外交官見習いとして雇われる。
好奇心旺盛なラプトマッシャルは、各国を回りながら、その土地の風俗・習慣・文化・歴史等を皮切りに動植物分布や地理・言語に至るまで片っ端から記録に取り始める。
後にシェザールでは古文書管理官として、レフルス支配下のトラ=イハイムではフィリア統率担当・記録保管所担当として、シェザール再興政府では王都総督府副総督として活躍する。
八十有余年の人生で残した膨大な記録文書は、『スカル・リリュート(注)』として後世に伝えられ、その質と量は、世界最高の記録類集として異彩を放っている。
特に、この時代の竜族の記録は他の追随を許さず、現在に至るまで発掘されている竜の骨や生活跡等と照らし合わせても稀に見る正確さを誇っている。
また、彼が残した随筆『アリアリ』も、彼が生きた時代の空気を現代に伝える貴重な資料として有名である。
(注)『リリュート』とは、フィリアの言葉で、『万物』を意味する『リリット』と『影』を意味する『ニュート』を組み合わせた造語で、世界の表だけで無く、裏側も網羅し尽くしたというラプトマッシャルの自信が垣間見える。
「世界百科全庫・真歴三三四六年版 <歴史に生きた有名人・中世スカル編>」より』
最初は、あの名高い歴史家に雇ってもらえる事になって、興奮していた。
最早、歳は八十を越えているという。
公職からはとっくの昔に引退し、町内の世話役も数年前に辞め、今は隠居暮らしを楽しんでいる。
そう聞いていたから、穏やかな知的生活を楽しみにしていたのに……。
「おいっ。坊主っ。『ゲンブル記録誌』をどこに直したんじゃ。どこにも見当たらないぞ!」
主人ラプトマッシャルは、短気で性急で所構わず怒鳴り散らし、すっかり物忘れがひどくなっている。
私の名前さえも覚えてもらえず、いつも「坊主、坊主」と呼び回る。
正直、坊主と呼ばれる程の若造では無い。
だからと言って、私も最初の頃のようにいちいち苛立つ事無く、淡々と相手をしているだけになっている。
「先日、確認したい事があると言われたので、その文机の上に置いていましたよ。……ほら、足元に落ちていますよ」
主人の書斎は、既に足の踏み場も無い程、書類や古文書の海に覆われている。
確かにこれでは、どれがどれだか分かりそうにない。
つい先日片付けた筈なのに。
「おお、それじゃそれじゃ。ご苦労じゃった」
主人は、私から受け取った書物を大事そうに胸に抱えながら文机に戻ると、あっという間に私の存在も忘れ、一心不乱に紙の上に視線を注ぎ始めた。
正直、こういう所を見ると許してしまえる。
主人にとっては、黴臭いこの部屋で大量の書物に囲まれながら、あらゆる文字に目を通す事だけが生き甲斐なのだ。
皺くちゃの震える手で一文字一文字なぞり、豊かな白い眉毛の重みに耐えきれないかのようなしょぼくれた目で文字を追い、小さく痩せ細った体で覆いかぶさるように机に向かう。
朝から晩まで、陽の光を頼りに、蝋燭の灯りに助けられながら、子供のように夢中になる様は、微笑ましくもある。
その夜、私がいつもの通りに主人の後ろで床に散らばった文書を片付けていると、主人が机に向かったままひとり言を呟いた。
「違う。全く違う……」
いつもの事だ。
他の人の手による書物は、片っ端から読み通さなければならない性格。
それに書かれている事が自分の知識と違っていると、黙っていられない。
誤った情報を後世に伝えてしまう事を殊の外恐れている。
その筆者がまだ存命中ならば、ご丁寧にも訂正の手紙を送る程だ。
「死妃の娘は、こやつが言うような化け物では無いわっ」
とうとう、いつものように癇癪を起こしてしまった。
こういう時は、私が話相手をして宥めなければならない。
「そんなに酷い書き方をしているのですか?」
私は、床の書類を掻き集めながら適当に返事する。
「いいか、ここに書かれている『人の生き血を吸い。竜の背から世界を恐怖で覆い尽した』なぞ、大きな間違いじゃ。死妃の娘を馬鹿にしているも甚だしい!」
どうやら、主人の思い入れが強い死妃の娘の話らしい。
「そういえば、ご主人様は、死妃の娘に会われた事があるのでしたね」
私は、手を止めないまま話を合わせる。
すると、いつの間に癇癪を収めたのか、主人はゆっくりと私に振り返り、諭すような落ち着いた声で言った。
「そうじゃ。あの日の事は、いつまで経っても忘れられん。私にとっては、神のお導きとしか思えない事じゃった。今でもこう目を閉じれば、はっきりと見えるのじゃ。あの死妃の娘の凛とした姿、気高く神々しい心、我々と外見は同じなれど、その内に秘める力は全く異なる」
いつの間にか、『アリアリ』の口調になり、両手に力を込めて天を仰ぎ見ている。
私も主人の話は何回も聞いているが、死妃の娘の時になると、その口調は常に穏やかになる。
自分の主張を押し付けるという感じでは無く、自分の世界に入り込んでいるといった具合に。
「そんなに凄かったのですか?」
「少年よ。何でもかんでも『凄い』なんてお粗末な形容詞で片付けるもので無いぞ。死妃の娘は、そんな単純些末なものでは無いのじゃ」
「そうなんですか」
今度は少年か。正直、本気か冗談か判断つきかねる事がある。
仕方無く私は手を止めて主人の話を聞いた。
早く整理を終えて、主人から逃れたかったのだが。
「あれは、五十年前の事になるか……。いつか一度会ってみたいと思っていたんだが、実際に会ってみると、全く……。その姿をひと目見た時、雷に打たれたような感情に襲われたんじゃ」
五十回は聞いた。
「竜の血の成せる技なのだろうかのう。世界の運命を一身に背負っているかのような重々しさがあってな。一日一日と命を削る苦しみを欠片も見せずに生き続けていたのじゃ」
「そんなに何を苦しんでいたのですか?」
「人の世を救うか、竜の世を救うかの二者択一じゃ」
「え?」
それは、初耳だった。
「あの時、わしは気付かなんだが、死妃の娘は、世界の運命をその手に握っておったのじゃ」
「そして、人間達を救う事にしたんですね」
「ふふ……。ほんとに救ったのはどっちなのやら……」
「……」
「兎に角、彼女はこの世界から去って行った……。竜族と共にスカル世界から消え去ったのじゃ」
主人の目は、既に私の姿を捉えていなかった。
その視線の先にあったのは、遠い過去の輝きであった。




