プロローグ その1
その夜は、いつもよりひと際暗く陰湿だった。
闇が幾重にも塗り込められ、分厚い漆黒が天頂の虚無感を演出している。
それは、深く遠く、光を近寄せず、今にも堕ちて来そうな程重々しい。
粘着質があり、肌にまとわりついて抗いがたく、自分もその闇に飲み込まれそうな夜。
その深い闇に浮かぶは、深紅の満月。イェオヤの窓。
真っ赤な月が漆黒に紅の円を描き、赤月から放たれた鈍く冷徹な光が大地に注がれる。
勢いのある赤というものでは無く、空気の淀みの向こうに紅が漂っているような、そんな後ろ向きな赤色の粒子が零れ落ち、生き物達の興奮を誘っている。
今夜は、年に数回しかない赤月の夜。
その特別な赤月の夜でも、さらに特別なひと晩になる運命が待ち受ける、不幸にして幸いなる夜。
◇
赤月の表面には、『苦難と再生の兎神イェオヤ』が顔を覗かせている。
このイェオヤが、大地に『炎の眼差し』を向ける時、混乱と錯乱の中に奇跡が現れると言われる。
イェオヤは、人間の生まれる前、竜の世の始まりしすぐ後、矮小な身でありながら、神への裏切り行為を働いてしまった愚かで小さな一匹の兎だ。
自己肥大で知恵が足りず、過ちを己に落とし込まず、他者に追い被せる卑怯者だった。
そんなイェオヤがいつもと同じように行った行為が神々の怒りを買った。
神々の怒りを呼び寄せてしまったイェオヤは、逃げる間も無くあえなく捕まる。
泣き叫びならが頭を地にこすり付け、全身を投げ出し許しを請い、一生の労苦を提案するも、神々は首を縦に振らなかった。
二日と少しの協議の後。
《猛き赤月の神》により罰を下されたイェオヤは、遥か天空の赤い牢獄に投げ込まれてしまった。
自由に動けない狭い世界でひとり隔離され、地上世界の物事をただ見詰める事しか出来無い運命。
それは、己の心と向かい合い、罪の大きさを自覚させる為の刑罰だった。
イェオヤの罪は、何年も何世代にも渡った。
地上の生き物は、空に赤月の輝く時、イェオヤの悲劇を思い、己の身を振り返る。
一方、イェオヤも長い年月の間に変わって行った。
同じ過ちを繰り返さないように、二度と自分と同じ経験をする者が現れないように、心落ち着け祈る日々を過ごすようになっていた。
今は、その過去を反省し、自らの罪を悔い改めながら、敬虔な祈りを捧げる者の為に、新たな生きる道を指し示してくれる再生の神として崇められている。
そんなイェオヤだが、日々深い反省の夜を過ごしながらもやり切れない思いを捨て去れない気持ちが僅かながら残っている。
年に数日だけ、自分の犯した罪を嘆き、今置かれている我が身の状態を呪い、自らの怒りに身を震わせる日があった。
その日が、赤月に囚われているイェオヤの眼に炎の輝きが現れる『第一の赤月の炎の眼の三日間』、《シェプトアンヅマ》である。
このシェプトアンヅマの間、イェオヤの行き場の無い怒りが大地に降り注ぎ、世界を混乱に陥らせるという。その怒りを浴びた生き物達は正常ではいられなくなってしまうのだ。
人間達も常の冷静さを失ってしまい、過ちや失敗を犯し易くなる。行き過ぎると、戦争や騒乱が起こり、この世が破壊と殺戮の業火に包まれてしまう。
一説によると、一年で最も暑いこの季節は、シェプトアンヅマの三日間の為に作られたとも、尋常では無い程熱を帯びたイェオヤの眼が猛暑を呼び寄せているとも言われる。
その暑さが人の心を惑わすのか、この三日間は、時代を変える大きな出来事が起こり易い。
そして、この年がまさにそうであった。
この夜、混乱と悲劇の中で、ひとつの奇跡が現出した。
◇
聖ミネリア歴二三五年の赤月八月の二十日。
シェプトアンヅマ三日目。
広大な大陸の中心部に《スカル世界》と呼ばれる地帯がある。
北方に《カムレイ》、《カムアミ》の両山脈が白い頂を連ね、南に《ナパ=ルタ》の大海が座し、その狭間に横たわる大平原では、西からアメアス、ラトアス、シニアスの三大河が南北を貫き、ナパ=ルタへ膨大な水を湛えながら流れ込んで行く。
北の山脈地帯は、竜の住まう頂が並び、南の大河が形成した肥沃な平野は、人々を懐深く受け入れ、様々な文化を生み出す礎になっている。
三大河のひとつ、天河ラトアスの下流域に、《フィリア》と呼ばれる地方がある。
カムレイ、カムアミの両天険の南に《イーア山嶺》という山塊があり、そのイーア山嶺とナパ=ルタの海に挟まれた沃野を指す。
そのフィリアの野を、ラトアスの滔々(とうとう)たる流れが二分し、神々の海ナパ=ルタの懐に溶け込み行く河口で、人家十数万戸を収めるスカル世界第一の都であり、シェザール王国の王都でもある巨大都市、《トラ=イハイム》がその威容を誇っている。
トラ=イハイムは、フィリアの地を支配した流浪の民族シェザールにより、想像を超える巨費と人的資源と月日を投入して築き上げられた。
ラトアス河の河口に屹立していた急峻な小高い丘を中心として造られ、守るに易く攻めるに難く、ナパ=ルタ第一の港を備え、世界のあらゆる場所に通じる《覇王の道》の出発点になっている。
その長大で堅固な城壁と高層華麗な建築群は、トラ=イハイムに賭けた人々の並々ならぬ思いとこだわりを見せている。
シェザールの民は、元々はスカル世界の民族では無い。
彼らは、数千年前までは、スカル世界を越えた東方の深く暗い森の中で細々と生活をしていた。度重なる外圧や猛威を振るう風土病の為に長年悩まされていた小さな民族だった。
ある日、その彼らに対して、高名なる呪術師が天のお告げを明らかにした。
その呪術師の言葉によれば、陽の落ちる西方に安住の地があるという。今の生活地を捨て移住すれば、民族の繁栄は間違い無い、と。
お告げを受け入れた人々は行動を開始した。現在の生活に未練は無い。後ろ髪を引かれる事も無く、シェザールの人々は、安心して生活を送れる場所を探して民族移動を始めたのだった。
ただ、もちろんそれは簡単な旅では無かった。行く先々では先住民が先に根を下ろしている。移動して来たシェザールに対して簡単に土地を譲ってくれる筈も無い。満足に食料を得られないこの時代、当然シェザールは、移動する度毎に先住民との争いを巻き起こして行った。
つまり、シェザールの歴史は、移住の歴史であったと同時に戦いの歴史でもあったのだ。
それは、苦難と苦渋に満ちた歴史だった。
そのシェザールがスカル世界に侵入したのが数百年前。フィリアに腰を落ち着けるようになったのは最近の事だ。
始めは、スカル世界でも同じ事の繰り返しだった。シェザールの民は先住民との衝突を続けた。厄介者として、スカル世界の各民族から叩かれ続け、追われながらも挫ける事無く、何度も国を興した。
約百年前。
フィリアの東北ジェニサの地で何度目かの再建をした国が滅ぼされた後、シェザールの主だった者達は、さらに南方、ラトアス河流域に広がるフィリアの地に移り住む。
比較的平和的で温和なフィリアの民に目を付け、ここでも国家再興の戦いに踏み出す事にした。
それを指揮したのが、シェザール再興の賢王イハイムだった。
イハイム王は、各地に散り散りになっていたシェザールの民を短期間で糾合し、フィリアの地に新王国の礎を築いた名君である。
彼が旗を揚げる時に率いた僅か百騎足らずの兵達は、後に《立国の百騎兵》と称えられ、その立国の百騎兵が国家再興までに払った犠牲は、数々に物語になってシェザールの民に広く伝えられていった。
その犠牲の上に今のシェザール王国があり、二度と追放されないように造られた都がトラ=イハイム、『光輝なるイハイムの街』だった。
トラ=イハイムは、何千年も続いた苦難の日々を終わりにする為に、シェザールの貴族から庶民まで貴賤の上下を問わずに心血を注いだ巨大な芸術品なのである。
建築に不可欠な膨大な石材は遠く北方のイーア山嶺より運び込まれ、富裕な者は、船、馬、荷車等を提供し、貧しい者は、自分の仕事を終えてから無料奉仕で労働に勤しんだ。
シェザールの命とも言われる《ラメの香木》は、都を囲むように外壁沿いに隙間無く植え込まれた。
ラメの香木は、人間にとって恐るべき存在である《森の民》と《異獣》から身を守る為には欠くべからざる物である。
これは、シェザールの民が他民族に追われ各地を彷徨っている間も、血族の犠牲を厭わず守り抜いて来たものだ。このラメの香木があったればこそ、シェザールは戦いの日々に打ち込む事が出来たと言っていい。
ラメの香木がシェザールをシェザールたらしめていると言っても過言では無い程である。
森の民と異獣。それは、人間にとって常に脅威の存在である。
森の民は、人間とは違い、深い森に生活する人々である。
人間よりも頭ひとつ程背が高く、俊敏で遥かに力が強い。また、長命で、人間の倍程の寿命がある。
彼らの住処は、樹々の傘の下、山々の懐、湖のほとり等で、人間が近付けない世界の守り人である。
自然の中で生を受け、自然の揺り籠に守られながら死を迎える。
彼らにとって大切なのは豊かな森や山や水辺であり、そこから離れて生活する事は無い。日々の生活環境が守られればそれで良く、人間のような支配欲や競争意識を持たず、平穏に暮らす事を旨とする。
天の支配者である竜族を崇め、竜族を尊び、自ら竜族の眷属を任じている。
平野部は人間、森林部は森の民の生活圏というのは遥か昔から受け継がれて来た暗黙の了解だ。
そこに、人間が耕作地を広げて森を切り開こうものなら、いかに温和な森の民と言えど、その時は剣を携え、全力で抵抗する。
あらゆる森の生き物を自在に操る森の民は、人間にとって畏怖と恐怖の対象であり、決して手を出さないというのがスカル世界の人々の共通認識だった。
この森の民と同じように人間が畏れるのが異獣である。
異獣は、神々が人間を律する為に作られた生き物だと言われる。
動物の中でもひと際大きく、強く、攻撃的に『進化』した生き物だ。
各動物種毎に呼び名が異なり、狼の異獣は、《狼獣》、猿の異獣は、《猿獣》、虎の異獣は、《虎獣》、牛の異獣は、《牛獣》等と呼ばれている。
人間が森に近寄り難いのは、この異獣の存在が大きい。異獣にひと度狙われたら最後、無事に逃げ延びる事はまず不可能だ。その為、無闇に森の中に入り込む者は滅多にいない。
どうしても森に入らなければならない時は、森の民と交渉して、森の民に保護してもらう。森の民が一緒なら、攻撃的な獣や異獣が接近するような事は無い。
異獣は森の食糧が不足すると、森の民とは違い、度々森を出て人間の集落に出没する。人間の集落が森の近くを避け、緩衝地帯を作るかのように森から一定の距離を保っているのはその為だ。
また、森の民は、この異獣をひとり一頭は飼い馴らしている。
森の中の秩序を維持したり、森の中を暴走し暴れ回る獣を始末したり、遠出の際の足代わりにする。
もちろん、異獣の力は戦いの時にも役に立つ。森の民同士の争いは滅多に起こらない為、主に人間達への牽制の意味合いが強いが。
神々がスカル世界を生み出してこの方、数千年の長きに渡り、この森の民と異獣の生活を脅かす人間は現れなかった。森の民も人間も、それが当然と思っていた。
シェザールの出現までは……。
シェザールの民は、異色な民族だ。
これまでのスカル世界の民族とは違い、自分達の生活の為なら、環境を作り変える事に厭わない。他の民族が森の民や異獣を恐れて森に手出ししないのに、シェザールは行く先々で木々を切り倒し、生活地帯を広げていった。
これも、他民族に追い払われた先が人口密度の薄い森林周辺部だったという事情もあろう。
最低限必要な食糧を自給したり、自分達の居住地を確保するには、仕方無く森に侵食せざるを得ず、そこで森の民や異獣との衝突が避けられなかった。
そうなると、日々異獣の驚異に晒されるシェザールの民は、何らかの防衛策を打たなければならなくなる。でないと、一頭の異獣が現れる度に少なくとも数十人の命を奪われてしまうのだ。そのままだと、いつか全滅する危険をはらんでいた。
それを可能にしたのがラメの香木だった。
ラメの香木は、高さ二メタル程の細く柔らかい植物である。強い刺激臭を持つ木であり、その神経を貫くような臭いは、生き物達を寄せ付けない力がある。人間にはまだ我慢出来るが、動物には一種の神経麻痺を及ぼす程の効果がある。
シェザールは、そのラメの香木の臭いを利用したのだ。異獣がラメの臭いに毛嫌いしていると知ったシェザールの民は、ラメの香木で住居を囲んだ。そうすれば、異獣が近付く事はほとんど無くなる。
トラ=イハイムを始め、シェザールの住む町の周囲をラメの香木で取り巻いたのも、それが一番効果的な異獣対策だった為だ。
ただ、このラメの香木が一番効果的とはいえ、他の民族が簡単に使いこなせるものでは無い。
ラメの香木は、元々乾燥地帯に産する植物の為か、湿気や過度の栄養に弱いという稀な性質を持っている。その為、スカル世界の環境では、満足に育つ事が出来ず、その生育には並々ならぬ注意と努力を擁する。ただ漫然とラメの香木の苗木を植えるだけではいけないのだ。
長年に渡り、ラメの香木に対する知識を蓄積し、その性質を知り抜いて来たシェザールの民でなければ手に追えない代物だった。
他民族がラメの香木の事を知ったとしても、喜んでそれを使い始めるものでも無い。
他民族にとって、森の民や異獣は崇め奉る存在であり、毛嫌いする対象では無い。ラメの香木を使って関係を絶つよりも、森の民や異獣の存在を感じながら生活する事に厭わないのだ。
この為、ラメの香木は、他民族にとっては醜悪なものであり、決して必要とされるものでは無かった。
但し、このラメの香木のおかげで、シェザールは異獣の驚異を取り除き、他民族対策に力を入れる事が出来たのは確かだ。
間違い無く、ラメの香木は、シェザールの民を滅亡から救ってくれた『民族の守り木』である。
それに、ラメの香木は、シェザールの意識を他民族と隔絶させるきっかけにもなった。
ラメの香木さえあれば、人間は森の民や異獣と対等に立ち向かえる。その自信がシェザールにもたらしたものは大きかった。
森の民や異獣を含む大自然に対して恐れを持たなくなったシェザールは、自然を昔のように手の出せない聖域としてでは見なくなっていた。
いつでも自分達の都合の良いように改造出来る対象なのだという認識を持つに至ったのである。