モアミ その4
「……今日は、疲れたな」
シロリオは、燭台を手元に引き寄せて少女の前に膝をつくと、腰に下げていた布を取って少女の顔を拭き始めた。
戦いの汚れや返り血を丁寧に拭き取る。
少女は、最初一瞬顔を引いたが、それでもシロリオが布を顔に当てるのを見てさせるままにした。
「……あたしが怖くないのかい?」
「さあ、どうだろう。怖い気もあるし、その逆もある」
「……あたし、あんた達の言葉に慣れてないんだよね。それ、どういう意味?」
シロリオは、小首を傾げた少女を見て息を呑んだ。
こうして近くで見ると、どこかしら気品のようなものを感じる。
小さな体と細い手足が見た目の弱々しさを強調し、透き通るような白い肌と奥深い黒い瞳に、儚げな雰囲気が漂っている。
何も知らずに見てしまうと、一日たりともこの戦乱の世の中では生きられなさそうな小娘にしか思えない。
この子は、何者なんだ。シロリオは、その不思議な魅力に魅かれる思いがした。
「俺は、おま……君を敵だと思ってないんだ。君の力はすごいかもしれないが、戦う気がしない以上、無闇に恐れる気はしない」
「あら。そうなんだ。あいつらと一緒にいたから、あんたもあたしを殺すつもりなのかと思ってた。命拾いしたね」
少女は、髪をまとめていた紐をほどくと、簡単に手で髪を梳き始めた。
「後で櫛を持って来させる」
シロリオは、少女の服を叩いて埃を飛ばした。
「そんな事したら、あいつらに怒られるよ」
「構うもんか。大体、俺は森の民の家来じゃない」
シロリオは、アイバスが置いて行った板を取ると、少女を立たせた。
「石の上で寝るのは寒い。この上で寝るんだ。また明日にでも敷布を持って来る」
「どうして、そこまでしてくれるんだい?」
少女は、体に巻き付く鎖の重みを感じさせない動きで軽やかにシロリオが置いた板に乗った。
鎖の音だけが空しく部屋に響く。
「俺は、君を事件の容疑者として捕まえただけだ。君が無実なら、君を苦しめるつもりは無い」
「事件……?」
「ああ。クオーキー伯爵が内城壁の側で血を抜かれて殺されていた」
シロリオは、少女の前に胡坐を掻いて座り込み、単刀直入に聞いた。
「君が犯人なのか?」
シロリオの真剣な表情に、少女は突然高笑いをした。
先程までの神秘的な雰囲気は飛んで行き、シロリオの目の前には快活な女の子が舞い降りていた。
「驚いた。犯人だと聞かれて、はいそうです、なんて言う奴いるの? シェザールには、そういう馬鹿正直な人間が多いの?」
「いや。そんな事は無いが……」
少女は、目の前で戸惑うシロリオを面白げに見ている。
「じゃあ、教えてあげる。犯人は、あたしじゃ無いわ。そんな何とか伯爵なんて見た事も無いし、シェザールの誰かを殺した事も無い。どう? これでいい?」
少女は、いたずらっ子の表情でシロリオを見て笑った。
どことなく、楽しんでいる様子だ。
「しかし、森の民は、君が伯爵の血を吸い取ったと言っている」
「そんなの誰でも仕込める事じゃないの。ひょっとしたら、森の民があたし達を犯人にする為にしてるかもよ」
「何の為にだ?」
シロリオは驚いた。そういう事は考えもしなかった。
「この街に入り込む為でしょ。でないと、あんた達は森の民を連れ込まないでしょう」
「確かにそうだが……」
シロリオは、少女の説明にも一理あると思った。
シロリオは、少女の目の前で腕組みしながら考え込んだ。
森の民は、死妃の娘をどうしても捕まえたい為にトラ=イハイムに入り込むきっかけを作った。
人間には手の負えない怪物が街にいると聞かされたら、森の民と手を組む可能性もあるかもしれない。
森の民が死妃の娘相手に見せる執着を考えると、有り得ない話では無い。
もし、それが本当なら、大問題だ。それに……。
セーブリーがそれを見逃していたとしたら……。
少女は、黙り込んだシロリオの額を指で弾いた。
「痛っ」
シロリオが思わず額に手を当てると、少女はケラケラと笑った。
満面の笑顔でシロリオを見ている。
「君は、不思議な子だな」
シロリオは、額をさすりながら言った。
「え? どこが?」
「今、君は牢獄に入れられているんだぞ。怖いとか思わないのか?」
言われて、少女はまた小首を傾げた。
「怖い? ああ、そうね。怖いね。ひょっとしたら、殺されるかもしれないからね。怖いね、確かに」と言いながら、またいたずらっ子の表情に戻る。
シロリオが不審気な表情で見ると、少女は軽く手を振った。
「ちょっと、そんな目で見ないでよ。何か間違えた事言った?」
少女は、本当に平気な様子だ。
その様子と尋問部屋との不釣り合いな感じが、逆にシロリオを混乱させる。
そこへ、廊下から、アイバスが声を掛けて来た。「フォンバーリ殿が戻って来ました」
シロリオは、慌てて立ち上がると、廊下に飛び出した。




