追跡 その8
前方から森の民の怒鳴り声が聞こえて来た。
シロリオは、森の民の言葉を解さない為、何を言っているのか全く分からなかったが、他の森の民が後ろに顔を向けながら、ある単語を繰り返し叫んでいるのを見ると、何かを呼んでいるのだろうと思えた。
「何でしょうかねぇ」
アイバスが同じく後ろを振り返る。
今、森の民は標的を二区画先の建物に追い込んでいるという。
ひょっとしたら、彼らの指揮官であるフォントーレスの指示を求めているのかもしれない。
シロリオは、馬を駆って森の民が囲んでいる建物に急いだ。
そこは、トラ=イハイムの商業地区の一画にあり、貴族の邸宅並の広さがある木造倉庫だった。
中は、二階建てになっており、大量の商品の一時保管場所として、多くの商人が共同利用している。
この辺りは、街の内陸部になる為、生鮮食品では無く、保存が効く食材や日用雑貨等の置き場所になっている倉庫だった。
シロリオが倉庫に着いた時には、倉庫の前には標的に返り討ちにされた数人の森の民と異獣が横倒しになっており、激しい唸り声や呻き声の中、手当てを受けていた。
シロリオが馬を下りて倉庫に近付くと、森の民のひとりがそれを制して首を振った。
何か警告のような言葉を発している。
「どうやら、中に入るな、と言っているようですね」
アイバスがすぐ後ろについている。
倉庫の中では、まだ標的との格闘が続いているようで、建物を揺るがさんばかりの振動と音が響いて来ている。
数多くの森の民や異獣を倒した相手だ。簡単には捕まらないだろうし、人間がその中に入っても役に立たない事ぐらいの予想は付く。
仕方無い。
商業地区で人家は少ないとは言え、商人達の多くは、店舗兼用の自宅で住んでいる。
その商人達がこの騒ぎで表に出て来ないように警戒しないといけない。
シロリオが追い付いて来た部下達に周囲の警戒をするように指示を出そうとした時、後ろから地響きのような足音と腹の底から震えんばかりの重低音の唸り声が聞こえて来た。
この様子だと、新しい異獣を呼び寄せでもしたのだろう。
それにしても、この振動。余程の大物に違いない。
シロリオは、嫌な予感が全身を満たすのを感じていた。
振り返ると、横のアイバスが大きくのけ反りながら口を開けているのが見えた。
「どうした?」
シロリオもアイバスが見ている方向に目を向けた。
そのアイバスの視線の先には、とんでもない生き物の姿が現れていた。
道の向こうから数人の森の民に縄を括り付けられながら迫って来たのは、巨大な猿の異獣だった。
シロリオがその場に踏み止まったのは、副長という地位が成せるものだったのか。
初めてその巨体を目にした部下達は、恐怖の声を上げ慌てふためいたというのに。
辛うじて、まだ正気を保っていたシロリオとアイバスは、部下達に落ち着くように声を掛けたが、全く耳に入っていないようだった。
彼らのほとんどは、我先にとシロリオとアイバスを残し、近くの建物の影に逃げ込んで行った。
「これは……」
アイバスが改めて異獣を仰ぎ見ながら声にもならない声を上げた。
「……猿獣だ」
シロリオは、体中が緊張で強張るのを感じた。
数年前の記憶が一気に蘇る。
森の民がシェザールの民の集団を襲った時に現われた恐怖の使者。
人間の体を軽々と投げ飛ばしていた迫力。
腹の底まで響き渡る吠え声。
猿獣は、戦いの時に森の民が必ず一緒に連れて行く異獣である。
十数通りの指示を理解し、手先が器用で、立体的な障害も苦にしない為、人間にとっては最も恐ろしい生き物だった。
しかも、この猿獣は、五メタルはあろうかという大きさで、森の民が数人かかっても制御し切れない程の凶暴性を見せている。
こんな奴まで街に入れていたとは……。
シロリオは、フォントーレスでは無くセーブリーの顔を頭に思い浮かべていた。こんな獣が街で暴れてしまったら、取り返しの付かない事になってしまう。
その事を理解しているのか。
「待ってくれっ。ちょっと待てっ」
森の民達が倉庫の入口で猿獣の縄を外そうとしているのを見て、シロリオは慌てて止めに入った。
「冗談じゃ無い。こんな奴を自由にするというのか!」
しかし、シロリオは森の民に押さえられ、逆に引き離されてしまった。
「おいっ。その手を離せっ」
アイバスが間に入り、シロリオを掴む森の民に怒鳴った。
「ここは、国王警備隊の管轄にあるっ。お前達は、副長の命令に従わなければならない義務があるんだぞ!」
アイバスが森の民を押さえている間に、シロリオがもう一度猿獣に向かおうとすると、森の民もさらにひとり、ふたりとシロリオを押さえにかかった。
森の民も何かを叫んでいるが、意味が通じないシロリオは構わず抵抗する。
その騒ぎの中、ついに猿獣を拘束していた最後の縄が解かれた。
シロリオや警備隊の隊員達の恐れを他所に、自由を得た猿獣は、両手を大きく広げ、トラ=イハイム全体に届かんばかりの咆哮を上げた。
闇夜を昼の如く照らし上げる多くの松明の炎に浮かび上がるその姿態は、禍々(まがまが)しくも荘厳さを感じさせ、大地が作り出した圧倒的な力が生み出す美を垣間見させた。
シロリオとアイバスは、その全身を震わせる圧力に気圧され、立っているのがやっとの状態だった。
「副長……。これは、天の意思でしょうか、それとも、煉獄の復活なのでしょうか」
信仰心篤いアイバスが声を震わせて言った。
眼前の出来事を見せられ、シロリオも心穏やかならぬ状態だったが、上司としてアイバスに弱音を見せる訳にはいかないという思いだけがシロリオを奮い立たせていた。
猿獣が全身を震わせ臨戦態勢に入ると、側にいた森の民が、猿獣に指示を与えて倉庫を指し示した。
猿獣は、指示を理解したらしく、その森の民の後に続いて体を揺さぶりながら倉庫に向かって行く。
さすがに倉庫の入口は、猿獣が通るには高さも幅も足りなかった。
猿獣は、入口に手をかけると、一気に押し広げ、強引に中に入って行った。
引き裂かれた入口に体をこすりつけながら入る猿獣。
倉庫全体が大きく左右に揺さぶられ、今にも崩壊するかと思われたが、何とか猿獣は倉庫を倒す事無く中に入って行った。