魔都トラ=イハイム その2
白美神の柔らかい光が闇夜を薄く見透かしてくれる。
街の郊外に広がる農耕地に隠れながら、ユイナはトラ=イハイムへと走っていた。
腰には使い慣れた長剣を差し、懐に短剣を忍ばせ、弓矢を背負い込み、いざという時の備えは万全である。
その視線の先にあるのは、トラ=イハイムの黒い威容。
まだ、十分近付いてないというのに、既に視界の半分を占めている城壁には、さすがのユイナも穏やかならぬものを感じていた。
人間というものは、大地に深い傷を与えて、このような途方もない代物を作る事が出来るのか……。
ユイナは、森の民が批判しているシェザールによる自然破壊には、何の感情も抱いてはいないが、それでも眼前に迫る石造りの山を見ると、一体この世界はどこまで改変されてしまうのだろうかと思わずにいられない。
世界の生き物達、動物や森の民や竜族でさえ、生きる為に自然と共存している。共存する以外の発想を持てないし、自然から離れて生きてはいけないからだ。
勿論、人間だって山や海や森が生み出す資源に頼って生きている。しかし、人間はその自然を己が支配物と考え、自然が邪魔になった時は自分達の好きなように作り替えてしまう。
自分達を支えてくれるものへの敬愛を持ち得ないその所業は、同じ人間同士の嫌悪や敵意に繋がっている。
それが分からない内は、人間達に平穏が訪れる事は無いだろう。
トラ=イハイムの周囲は長年のラトアス河の堆積物が広がり、湿地状の低地を形成している。
その中でも、唯一大地が盛り上がった場所がある。
ユイナは、思わず足を止めた。
そこは、農耕民の崇拝を受ける神域となっていて、小さな神殿が建っているのだが、その神殿付近から異様な臭いが漂って来るのを感じたのだ。
その鼻に突く臭いは……。
異獣だ。
ユイナは、麦畑の中に身を伏せて周囲を警戒した。
森の民と異獣がトラ=イハイムに来ている噂は本当だった。
ここで、奴らに見付かってはならない。ユイナは、海風が流れて来る方向に注意した。
まだ、距離が離れていて異獣の姿は見えない。
ユイナは、風向きに気を付けながら臭いから遠ざかり始めた。
しばらくトラ=イハイムに向かって畑を斜めに進んで行く。
ようやく、異獣の気配が消えた頃、トラ=イハイムの城壁は視界のほとんどにまで迫っていた。
それでも、まだ城壁まで距離がある筈だった。ユイナは、トラ=イハイムが誇るカムアミの壁の巨大さに目を見張った。
ここまで来ると、海風が運んで来る潮の匂いに混じってラメの香木の酸い匂いも漂って来た。
トラ=イハイムの城壁を囲むラメの香木の樹林がすぐ側に迫っている。
ユイナは、近くに誰もいない事を確認すると、一気にラメの樹林帯まで駆けた。
滑り込むように辿り着くと、懐の短剣を抜き、ラメの木の枝をひとつ切り取り、自分の首筋と両手首にラメの香りをすり込ませた。異獣に自分の匂いを悟らせない為だ。
短剣を直し、ラメの樹林を進む。枝や葉が体に当たらないように気を付けるが、走り抜ける風圧で枝がそよぐのは仕方無い。海風と紛れる為、音を耳にしても気にする者はいないだろう。
ラメの樹林を抜けた先には、ラトアス河の水を引いて造られた水堀を挟んで、トラ=イハイムの城壁がそそり立っていた。
城壁は、堀からそのまませり上がっており、足場になるような空間は無い。
それでも、ユイナは足を止める事無く逆に全力で堀に向かって走り、一気に飛び越えた。
堀は、狭い所でも十メタルはあるのだが、ユイナの体は宙を滑らかに移動すると、確実に城壁に『着地』した。
城壁に取り付いたと同時に、ユイナは耳を澄ませた。
誰かに音を聞かれてないか注意を払う。
スー姉だったら、音を立てる事しないのにな……。
ユイナはそう思いながら、慎重に石垣を登り始めた。
恐らく、城壁の上にはシェザールの守備兵が警戒をしている筈だ。
特に、森の民や異獣が周辺をうろついているのだ。緊張感もひとしおだろう。
「グビチャッ」
突然の声にユイナは驚いた。
慌てて周りを見回す。
何と石垣の隙間から小鬼がユイナに向かって顔を見せていた。
「ケヒャヒャヒャッ」
小鬼は、ユイナの驚いた顔を見て、楽しそうに笑った。
上手く行ったという満足気な表情をしている。
その小賢しい顔にユイナは腹が立った。
「うるさい」
こいつの声のせいでシェザール兵に気付かれてはいけない。
ユイナは手を伸ばすと、小鬼を難なく捕まえた。
驚いたのは小鬼だった。
小鬼は、小柄ですばしこい。とても、人間に捕まるようなものでは無い。
それが、目にも見えない速さで自分の体を鷲掴みにされたのだ。
小鬼は、始め何が起きたのか分からずにいた。
ようやくこの娘に捕まったのだと気付いた小鬼は、全身を使ってユイナの手から逃れようとした。しかし、ユイナの前に小鬼如きの力では成す術が無かった。
ユイナは、小鬼を石垣の隙間から引きずり出すと、遠慮無く後ろに放り投げた。
勿論、小鬼も必死に抵抗した。石垣に爪を引っ掛け、全力でユイナを振り解こうとしたが、石に深い爪痕を残しただけでしか無かった。
「キーーーーーーッ」という怒りとも泣き声ともつかない叫び声を上げながら、小鬼は堀に落ちて行った。
「ボケ。余計な所で出て来るから」
ユイナは、すぐに小鬼の事は忘れて再び城壁を登り出した。
登り切ったユイナは、矢狭間から歩廊を覗き見た。
城壁は、凡そ十メタル程の厚さがあり、櫓毎に数名の兵士が警備している。
ユイナは、左右の櫓を見て、機会を見計らっていた。
街の中に入れば幾らでも身を隠す所があるが、この上ではそうはいかない。細心の注意を払う必要がある。
ユイナは、空を見上げた。
白美神が天頂に座しているが、少しばかりの雲が周りを漂っている。
ユイナは風の流れを見極めた。しばらく待てば、雲が白美神を隠してくれる。
ユイナは、櫓から見えないように隠れながらその場に座り込んだ。