雨中の戦い その15
魔術師フォンカイナグは、苛立たし気な気持ちを表に出さないようにしながら、長老フォンデルラの元に向かった。
「どうした? 何か気に入らない事でもあるのか?」
フォンデルラは、フォンカイナグの顔を見るなり、その心の内を見透かしたように言った。
年の功恐るべしという奴か、さしもの魔術師も隠し切れない雰囲気を感じ取られたのだろう。
慌てて片膝をついて頭を垂れた魔術師は、ひと通りの挨拶を述べて、再びフォンデルラを見上げた。
フォンカイナグは、せめて動揺を悟られないように改めて気を引き締めた。
「死妃の娘襲撃に魔獣を使われたと聞きました。本当の事でしょうか?」
そこは、洞窟の壁を穿って作り上げられた簡単な部屋だった。
死妃の娘襲撃の為に探した洞窟。そこに急いで作られた簡素な手彫りの部屋。名門フォン一族の長老には申し訳無い程狭く暗く息苦しい場所だ。今も、居心地悪そうに蝋燭の灯りに照らされて立っている。
フォンデルラは一瞬だけフォンカイナグを見ると、口を真一文字に引き締めたまま場違いな程立派な椅子に座り込んだ。
「本当だ」
フォンデルラは、フォンカイナグを一瞥して言い放った。
洞窟内は湿気が高い。歩くだけでも汗ばんで来る。息をするだけでも肺の奥まで重苦しい。
この重苦しさは純粋に湿度のせいだけなのか、一族の長老に意見する緊張の為か。
「理由をお聞かせ願いたいものです。異獣を百頭も使いながら、尚も魔獣が必要なのでしょうか?」
フォンカイナグは、フォンデルラの威厳に圧倒されないように、意識して胸を突き出している。
「その百頭の異獣でさえも相手にならなかった事は聞いてはいないか?」
フォンデルラは、海のように深く様々な光を内包する瞳でフォンカイナグの『辺り』を見詰めている。
「は?」
フォンカイナグは、目を点にして思わず長老を凝視した。
「捕まえられなかったのですか?」
「しかも、レビアン=モアミひとりにだ」
「竜の子ひとりに異獣百頭が全滅ですか? 本当に?」
フォンカイナグは耳を疑った。まさか、あれ程大騒ぎして集めた異獣がたったひとりの為に……。
思わず非礼を忘れて伏していた体が起き上がる。
フォンデルラは、無言のまま重々しく頷いた。
「信じられない……」
フォンカイナグは、何度も首を横に振った。
「我々は、竜の子らの力をまだ甘く見ていたようだ。我らがフォン一族を恐怖に陥れた悪魔の力は、この世界の理を遥かに越えていたようだ」
「百頭の異獣を……」
フォンカイナグは、まだ信じられないという風にもう一度首を振った。
「最早、あの化け物らと対等に戦えるのは、魔獣しかいないのだ」
フォンデルラは、そう言い放った。
それは、断固とした決意でもあった。
森の民にとって、竜の子は最大の敵であった。その存在を消し去る為にフォン一族は全力を尽くしている。森の民でも異獣でも相手にならないのならば、最後の手段を取らなければならないと言う事だ。
だが、何もその手段が魔獣でなくてもよかろうに。
魔獣は最後の手段でも使ってはならない手だ。
フォンカイナグは、一歩前にせり出した。
「とは言え、魔獣はお止め下さい。魔獣は魔界の生き物です。この世界に持ち込んでは、世界を支える秩序と安寧が乱されます」
「だが、お前達魔術師はその魔界の力を使うでは無いか」
フォンカイナグは、フォンデルラを言いくるめようとは思ってはいなかった。どちらにしても、長老の前では浅はかな考えは通じない。
魔術師として高い能力を備えていたとしても、森の民が持つ繊細な感覚も負けず劣らず優れている
「お言葉ではございますが、確かに我々魔術師は魔界の力をこの世界で使っておりますが、それは、あくまで魔界の法力を借りているだけなのです。魔界の力をこの世界に呼び出す呪文を唱え、印を結び、我々の精神力で操る事の出来る力だけを呼び出すだけでございます。我々魔術師は、我が身の限界を心得ております。己を破滅に導くような愚かな真似はいたしませぬ。魔術師が最初に学ぶのが、自らを律する心を鍛える事、己が身の内から湧き上がる欲望を己の力で押さえ付ける事なのです。魔界の力は、とても強力で我々の精神に影響を及ぼす特徴があります。只、力を借りるだけでも危険なのです。ましてや、魔界の生き物である魔獣そのものをこの世界に持ち込んでしまうと、どのような影響があるか予想だに出来無いのです。この世界の法則そのものが魔獣によってねじ曲げられてしまう恐れさえあるのです。これは、本当に危険極まりない事なのです。お願いです。すぐに魔界へと戻して下さい」
「……ふむ」
フォンカイナグの必死の説得にも、フォンデルラは聞いているのかいないのか、上の空で耳だけを傾けていた。
「わしは愚かか?」
「いえいえ、滅相もありません。それは、例えで言ったまででございます」
フォンカイナグは、可哀想な程床にひれ伏して言い訳をした。
森の民は、長老達に絶大な権力が集中している。長老達が一族の行く末を定め、他の者は命令を粛々(しゅくしゅく)と聞いて行くしかないのだ。
その為、下の者が長老に意見するという機会は無く、あるとしても、その意見を公の場で測るという事も無く、長老の一存で取捨選択される。
それに、元々意見されるという文化も無い為、大方は聞くに値しない代物として相手にされない事が多い。
そんな習慣の中、フォンカイナグがフォンデルラに意見出来ているのは、魔術を習う中で自然と身に付く批判性や客観性の成せる技か。
この世界における魔術師という専門資格は、どれだけ他者よりも多く魔界の法力を操作出来るかという精神力の鍛錬、魔界とこの世界を隔てる異空間を結び付ける為の自分の魔力の強化、魔界の力を魔界からこの世界に呼び出す為の正確な印の作り方と呪文の記憶等、民族の別無く、ある程度の才能と努力を用いる事が出来れば身に付ける能力である。
その為、魔術師は森の民だけで無く、人間世界でも何人も存在している。シェザールやフィリア、レフルス等魔術師がいない種族はほとんどいない。そして、魔術師のように自分達とは異質な力を持つ者に対しては尊敬や憧れの念だけでは無く、畏怖や疎外感、嫌悪感といった悪感情が目覚めるのも仕方無い事で、自然、自分達の身を守る為に魔術師同士の連帯感や結束が強くなって来る。
フォンカイナグも魔術を学んだのはレフルスの魔術師からであり、自己研鑽に励むと同時に最新の魔術の技を学ぶ為に各地の魔術師との連絡は重要視している。その中には、フィリアやシェザールの魔術師も入っており、それぞれの間には過去の民族間の紛争によるわだかまりや恨みといったものは存在しない。只、あるのは魔術を扱う者としての誇りであり、矜持であった。
「四百年前の事を考えるに、やはり我が民や異獣だけで事を収めようとするのは無理があったのだ。あの竜の子らは、竜族の力でしか押さえられないのだ。だから、魔獣を呼び寄せたのだ」
ならば、竜族に頼んで今回も捕まえてもらわないのか、とは言えない立場である。
フォンカイナグは、長老の言葉に深く頷く振りをしながら慎重に口を開いた。
「確かに、竜の子はこの世界では有り得ない程の力を持っております。但し、それが、魔界の力を利用して良いなどという理由にはなりません」
フォンカイナグは、その瞬間雷電の如く全身を貫くフォンデルラの怒りの目に貫かれた。
己の話している事は、フォンデルラにとって好ましくない内容だ。恐らく、他の一族の誰も口にしない事であろう。下手をすれば一族の中で干されてしまう結果を招きかねない。
しかし、それでもフォンカイナグは話し続けずにはおれなかった。ここで、長老の意志に屈してはならない。フォン一族の一員としての立場よりも、この世界を守る立場の方が大事だった。魔術を扱う者として守らなければならない一線は死守しなければならなかった。
「魔界の力で気を付けなければならない事は、その強大な力ではありません。その力が持つ不可逆な浸透性にあるのです。何の抵抗力も持たない者がその力に触れてしまうと、魔力が持つ悪辣な奸計に心を侵されてしまって、最終的には魔力に支配され、この世界を滅ぼす尖兵として乗っ取られてしまうのです。つまり、魔獣がこの世界に現われるだけで危険なのです。お分かりでしょうか? 長老様にこの策を授けた者は、その危険を全く知らないのです。すぐに、魔獣は向こうに返して、魔力に冒された者がいないか徹底的にお調べになって下さい」
もう、最後は地に身を投げ出さんばかりの懇願になっていた。
フォンカイナグは、長老の怒りへの恐れと魔獣がこの世界に現われた事に対する動揺で全身が小刻みに震えていた。
今、自分が世界を守らねば、何もかもが終わってしまう。
しかし、フォンデルラは、そんなフォンカイナグを冷ややかに見詰めるだけだった。
目の前で行われている、死を覚悟の忠告も耳の端にも登る事は無かった。
「下がるが良い」
冷厳なひと言だった。
最早、聞く耳は持たないという事だ。これ以上、何を言っても無駄であるし、余計な事を言ってしまえば死を宣告されかねない。
それでも、フォンカイナグは最後に許可を願い出た。
「では、せめて竜の子の件は私にお任せ願えませんでしょうか。必ずや、竜の子をここに連れて来ます」
「いらん」
フォンデルラは、興味を失ったかのように魔術師には目もくれなかった。
「お前の力が必要な時はこちらから呼ぶ。それまで顔を出すな」
この瞬間、フォンカイナグは、己の判断で行動する事を心に決めた。
本来、魔術師と言えども一族の意志を越えた動きをする事は許されていない。
しかし、フォンカイナグはフォンデルラの許しが出ないまま、スーシェル達を捕まえようと決心した。
それが、魔獣を魔界に戻すのに一番の近道になる。
この世界を救う、只ひとつの方法なのである。