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死妃の娘  作者: はかはか
第二章 雨中の戦い
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雨中の戦い その5

 胸に激痛が走る。

 歩くだけでも辛いが、今はそんな事を言っていられない。


 ユイナは片手で腹を押さえながら、スケープに体を支えてもらって移動している。

 胸の痛みは、猿獣の激突と落ちた時の衝撃がもたらしたものだった。骨が折れた訳では無いが、歩くのも厳しい程だった。

 崖から落ちている時は夢中で痛みは感じなかった。空中で体を回転させて、大きな吠え声を上げる猿獣を下にして地面に落ちた為、他の痛みを負う事は無かった。

 落ちて慌てて起き上がった時に胸を突き刺すような鋭い痛みに気付いたのだ。


 ユイナの下敷きになった猿獣は、命を落とす事は無かったが、激しい打撲の余り、悲鳴を上げながら森の奥に逃走して行った。


 猿獣は逃げ去っても、先に落ちて来た他の狼獣に襲われてはならない。痛む体を我慢して、ユイナは何とか上半身だけ起こし剣を構えた。

 しかし、周囲に横たわる異獣達もあの急峻な崖を落とされている。さすがに真っ逆さまに落とされて、ユイナを襲う程五体無事な異獣はほとんど残っていなかった。

 それでも、ユイナが落ちて来たのに気付いて襲い掛かった異獣は数頭いたが、後から降りて来たスケープの助けも合って何とか撃退出来たのだ。


 もう、向かって来る異獣がいない事を確かめて、ユイナはふと崖を見上げた。

 普段なら登れない事は無い。

 だが、この体の状態では登る事は難しいし、満足に戦えない。

 ユイナはモアミを心配しながらも、今の自分では手助けにもならないと判断し、安全に身を隠せる場所を探す事にした。そうすれば、スケープだけでもモアミに返す事が出来る。

 それに、追手がフォントーレスの一派だけとは限らない。他の群れが来ているかもしれないし、家に残して来たメルとスーシェルも気になる。


 胸の痛みは、打撲だけならしばらく時間を置けば元に戻るだろう。とにかく、今の最善手は身を隠す事だ。


 こうなれば、悪天候はこっちに幸いしている。雨で音は消えるし、匂いで跡を付けられる心配も無い。

「おいで、スケープ」

 ユイナは、隠れ場所を探す為、スケープと共に森の中を転がり落ちるように急いで下って行った。

 他に森の民が異獣を潜めてなければ、自分だけ家に戻り、代わりにスーシェルにモアミの手助けに行ってもらえばいい。

 次第に痛みは大きくなっているが、家までそんなに遠くは無い。

 そんな計画を思い浮かべていた時だった。


「待って、スケープ」

 その時、ユイナは行く先に変な違和感を捉えた。

 急にスケープを止め、腰を下ろして周囲を見回す。


 スケープは感じていないのか、ユイナを振り返った。


 しかし、ユイナは、森の先におりのように溜まる黒い不快な気を感じ取っていた。

 それは、今までに味わった事の無い感覚だった。


 何これ……。


 その気は、重々しくユイナとスケープの周りをまとわりついて来る。じわじわと圧迫されているようだ。

 胸を押さえ付けるような圧力。息をするのも苦労する。そして、皮膚に絡み付く負の気配。ユイナの心を捉えて離さないのは、何が待ち受けるのか分からない不安感や嫌悪感。


 「それ」が次第に近付いて来る。


 樹々を押し退ける様子も無い。足音がしない。生き物臭さもしない。


 しかし、間違い無く何かが近付いていた。


 その感じにスケープも気付いたようだった。スケープは、ユイナの横で全身の毛を逆立て始めている。只、余りの重苦しさに、唸り声ひとつ上げられない。


 ユイナはそのスケープを片手でなだめながら、自らも緊張が高まって来るのを感じていた。


 死が近付いている感覚に襲われる。

 樹々の奥がぼんやりと揺らぎ出した。

 まるで、世界を彩るように森の奥から黒い染みのようなものが広がって来た。



 それは、暗黒だった。


 全ての光を飲み込む分厚い漆黒だったが、その中で何かの反応のように小さな赤い稲妻がいくつもきらめいている。

 象程の大きさの体からふたつの太い腕が前方を確かめるように長く伸びては地面を踏み締める。

 頭は、只の黒い大きな丸が付いていて、さらに深い黒丸が目を表している。

 輪郭はぼやけてはっきりしない。風でも吹けば飛ばされて消えそうな不安定感がある。


 その『黒い物体』は、岩や木といった障害物を通り抜けながら動いていた。

 蝶の羽音でさえもそよぎそうな木の葉でさえも、その動きの前では無風の如く微動だにしない。

 降り続く雨さえもその物体を通過して、地面に落ちるばかりだ。



 何なの……。


 ユイナは、只々呆気に取られていた。


 こいつは、一体何なのか。


 竜の勘が、『黒い物体』がこの世のもので無い事を告げている。

 その物体が動いているのに、周囲の空間には何の影響も与えていない。その物体だけが他と隔絶して運動している。ここにいるのに、ここにいないかのような感じである。


 そんな存在とは戦う事さえ出来る筈は無い。

 どうして、こんな奴がここにいるのか。

 ユイナは、スケープを引っ張った。

『こいつとは戦えない』

 竜の血がそう言っている。この『存在』は、自分とは生きる世界が違う。まともに戦える相手では無い。

 幸い、向こうはまだユイナとスケープに気付いていないようだ。


 ユイナはスケープの耳元に囁いた。

「おいで。走るわよ」

 このままでは、その内見付かってしまう。その前に出来るだけ離れたい。


 この『黒い物体』がどんな動きをするのか分からないが、近くにいては危険だという心の声がユイナに伝わる。


 スケープの怯えが掌から感じる。

 ユイナは、出来るだけ音を忍ばせながら足を動かした。

 それでも踏み締める草の音、微かな衣擦れ、呼吸音を止める訳にはいかない。


 『黒い物体』は、ユイナに反応した。


 ゆっくりと『頭』をもたげ、こちらに『目』が向く。

 全く、『生』を感じさせない影絵のような動きだ。


 今しか無い。

 ユイナは、スケープの背中を軽く叩いた。


 瞬間、スケープの体が躍動し、地面を強く蹴り出した。ぬかるんだ土が勢い良く飛んで行く。

 胸の痛みを我慢して、ユイナはスケープの背中に飛び乗った。今は、まだ自分は全力で走る事が出来無い為、スケープの足に頼るしかない。

 雨で濡れたスケープの背中に強くしがみ付き、万一にも振り落とされないようにする。


 その瞬間、後ろから身の気もよだつ敵意と殺気がユイナとスケープに襲い掛かって来た。


 全身の毛穴から染み入るような感覚だった。


 何の抵抗も無く、『黒い物体』の強烈な意思が入り込み、精神を侵して来る。

 それは、今までに感じた事の無いものだった。


 スケープの毛が逆立ち、全身が緊張と恐怖に覆われるのが分かる。


 ユイナは、恐怖は感じなかったが、信じられない展開に戸惑いを隠せなかった。

 とにかく、この物体からは離れるべきだという危機感に募られる。

 ユイナは、スケープの体勢を崩さない為に後ろを振り返らなかった。

 ここは、スケープの速さが命だ。


「スケープっ。行って、行って!」

 最早、沈黙は必要無い。只々この物体から遠ざかる事。それが今の自分達にとって一番大事な事だった。

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