雨中の戦い その3
そこは、数百人は余裕で収容出来る大きな空間だった。
山頂がすぐ側で柔らかな頂を見せ、そう遠く無い下界が見渡せる。
ユイナとモアミは、広場から鋭角に切り落とされている崖を背に異獣達を待つ事にした。
重低音が効いた唸り声、地面を踏み締め軽い振動を感じさせる重量感、闇の中で光る有り得ない程大きく鋭い牙。
ふたりを囲むように広場に集まる黒い獣達は、次第に数を増し、広場でも収まり切れないくらいの光景を眼前に広げていた。
ざっと、百頭……。
暗闇ではっきりとは確認出来無い中、ユイナは肌に伝わる無数の闘気でその数を予測した。
横では、スケープを後ろに下げたモアミが腕まくりをしながら腰の剣に手を添えている。
ユイナは、思わず笑みを見せた。
全く、モアミからは動揺や怯えなんか伝わって来ない。逆に、これから起こる事に対して期待感で一杯の雰囲気を見せている。
こういう時には、頼もしい存在だ。
知らない間に月は厚い雲に隠されていた。
それでも、ユイナとモアミは夜目も効くため困る事は無い。
異獣は、ほとんどが狼獣だ。中には猿獣が数頭いるようだが、皆スケープと同じか、より大きいものばかりだ。
これだけの数の異獣をここに連れて来るだけでもひと苦労だろう。森の民のスーシェル達に対する執念を感じさせる。
ユイナとモアミは、距離を取りながらふたりを囲み始めた異獣達を油断無く見回す。何れも今にも飛び掛からんばかりに気力充実している。
一瞬、雷の光が辺りを輝かせた時、ふたりの目に背の高い森の民の姿が目に入った。
山頂付近で大きな地響きが広がる。
その森の民は、異獣達の間を抜けて、ふたりの前に進んで来た。
フォントーレス……。
モアミが思わず剣の柄を強く握り締めたと同時に弱い雨がぽつぽつと降り始めた。
「やあ。久し振りだね。また会えて嬉しいよ」
フォントーレスは、にこやかな表情を見せながら口を開いた。
「こっちは、別に嬉しくもないけどね。また、酷い目に遭いたくなかったら、そいつらを連れてさっさと帰りな」
ユイナが雨に濡れる髪を掻き上げた。
「これは、手厳しいね。この子達を前にしてもそんな元気があるとは……」
フォントーレスは、ほくそ笑みながら言う。
確かに、フォントーレスの後ろに控える異獣の数は尋常では無い。眼前に広がる広場にひしめき合い、後ろの方は他の異獣達の陰に隠れて見えない程だ。
「ひとつ、提案があるのだが」
フォントーレスは、指を一本立てた。
「さすがの君達でもこの子達の攻撃には耐えられないだろう。だから、今手を上げて降参してくれれば、何もしない。大人しくこの世界から姿を消して、竜の巣に引っ込んでくれれば命は助けてやる」
フォントーレスの言葉に、モアミが皮肉な笑みを見せた。
それを無視してフォントーレスは話を続ける。
「実は、うちの長老達の中には、それでも認めないという者がいてね。どうしても君達の命を奪わなければ気が済まないと言っているんだ。しかし、私は君達には同情を禁じ得ないんだ。竜の血を受け継いでいるというだけで、寝る間も無く我々に追われるのは忍びなくてね。竜の巣なら、オーシャもいるし、四人で楽しく生活出来るだろう」
「うるさいなあ。さっさと戦わせなさいよっ」
フォントーレスの長口上を聞き飽きたモアミが我慢出来なくなった。
ユイナが注意するようにモアミを見る。
ユイナとしては、この数の異獣を相手にふたり共無事でいる訳にはいかないと思っている。
百頭近い異獣は、そう簡単に集められる数では無い。それだけ、森の民は本気を出しているのだ。例え、この数を相手に生き残ったとしても、森の民は次の手を考えているに違いない。
冷静に考えれば、ここは逃げる方法を見付けるしかない。隙を見て山を下り、メルとスーシェルと合流して姿を隠すのだ。その為、フォントーレスが自分達を無駄に説得しようとしているのは時間稼ぎにもなる。
再び、頭上で稲光が走った。
空気には濃密な湿気が垂れ込め、雨脚が強くなっている。
雨が強くなれば、例え異獣でも鼻が効かなくなる。一度、追手を巻く事が出来れば何とかなる。
しかし、目の前には異獣、後ろは崖である。
崖は気を付ければ降りられない事も無いが、向こうが大人しく見てくれる筈が無い。
となると、方法は、ある程度異獣を倒して、敵が怯んだ隙に中央突破して再び森に入り込むしかない。
追われながらの戦いは疲労も激しくなるが、仕方無い。
ユイナは、ゆっくりと腰の剣に手を添えた。
モアミに説明する暇は無いが、モアミなら自分の動きで計画を感じ取ってくれるだろう。問題はスケープだが、この状況ではスケープを気にしながら戦う事は出来無い。自分の力で道を切り開いてくれるのを祈るしかない。
ユイナが剣に手にしたのを見て、モアミも喜んで右手に剣を持った。
異獣の大群を前にして舌なめずりをする。
「ちょっと、待ってくれ。そんなに死に急ぎたいのか? もう一度スーシェルと会いたいと思わないのか?」
フォントーレスは、場を落ち着けるように両手を開いた。
「会えるよ。あんた達を倒せばいいんでしょ?」
モアミはいとも簡単に言う。まるで、水汲みを頼まれたように。
フォントーレスは、やれやれという風に頭を振ると、何も言わずにそのまま後ろに下がってふたりから離れ始めた。
ユイナは、心の中で舌打ちした。
さっきまでなら、ひと飛びで剣が届いたかもしれないのに……。どうやら、フォントーレスも竜の子の力を舐めてはいないようだ。これ以上、説得は無理だと悟り、危険な位置から身を遠ざけていた。
やはり、只物では無い。
フォントーレスとは初めてでは無い。今までも何回かスーシェル達を追っている。
森の民の仲間が全滅した時も生き延びて来た。
只の臆病者では無い事は確かだが、自分が助かる線を巧みに嗅ぎ取る才能がある。と同時に失敗しても追手から外されないという事は、森の民の長老連中からの信頼も厚いという事になる。
百頭近い異獣をここまでひとりで率いて来たのだ。確かに並の能力では出来無い。
ユイナは、機会があればフォントーレスを始末しなければ、と思った。
「仕方無いな……。行けっ」
フォントーレスの言葉を合図に先頭にいた狼獣六頭がユイナとモアミに襲い掛かって来た。