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死妃の娘  作者: はかはか
第二章 雨中の戦い
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【導入部】

 雨が降る。

 霧雨に近いが、密度の濃い、息をすると濃密な雨を吸い込んでしまいそうになる程、隙間の無い雨だった。


 空には雲が厚く垂れ込め、世界を薄暗く覆っている。

 その溺れそうな大気の中、母と赤子は、ラトアスの大河の岸辺を歩いていた。止まぬ戦乱に追われ、着の身着のまま避難しているシェザールの民だった。

 シェザールの民は、同じ血を抱く仲間以外に頼る者がいない。周囲の民族に襲われ、森の民にも助けを求める事が出来ない。

 住む場所を追われ、食べる物も無い母子は、行く当ても無く彷徨さまよっていた。


 空腹が全身から力を奪い、一歩進むだけでも苦労する。

 赤子に至っては栄養不足の母の乳を貰えない為、手も足も細くなり頬もこけていた。

 その母子の後ろでは、村々を焼く煙がいくつもたなびいている。

 命を脅かす馬蹄の音が迫り、焦りが込み上げて来る。


 母子は、ラトアス河の流れに妨げられていた。

 この大河の向こうに行かなければ、いつ命を失ってもおかしくない状況だ。

 しかし、渡し船らしきものは、どこにも見当たらない。

 母親は、赤子を胸に強く抱き締めながら、ラトアスの岸辺で靄のかかる川面を何度も確認していた。




 それは、舳先へさきともが高くせり上がった小舟だった。舳先には、提灯のような灯りが吊り下げられて、行く手を明らかにしている。


 不思議な船だった。舳先には、真っ白に輝くばかりの外套を頭から被った森の民の女性が立ち、艫には野鼠のねずみのような顔をした生き物がかいを操っている。


 船は、ラトアスの流れに逆らって真っ直ぐこちらに向かっていた。

 それは、森の民の渡し舟だった。

 船には、猪や狼等の野生動物が大小十頭程乗っている。


 母親は、船を見てよろめきながらも走り出した。


 船は、何の障害も無くラトアスの岸辺に着くと、動物達を下船させ始めた。舳先に立つ森の民が動物達に何か言って見送っている。


「あ、あの……」


 母親が森の民に声を掛けると、森の民は焦点の定まらない目で母親を見た。

「何か言いましたか?」


 それは、心にまで染み透る程の透き通った声だった。

 母親は、疲労のあまりその場に座り込んでしまった。

「私達を……。私とこの子を船に乗せて下さい。助けて下さい」


 森の民は、そんな母親を何の感慨も見せずに船から見下ろしていた。

「助ける……?」

 森の民は、流暢なシェザール言葉を口にした。

 赤子を持つ母親の背後では、いくさの煙が幾筋も立ち上っている。

「ああ……。逃げて来たのね」


「は……、はい」


「ふ、ふへへ。自分達で起こした戦争に追われて助けてだと。そんなの分かり切っていた事じゃないか。どうして、逃げ場所を決めて置かないのかねえ」

 艫にいる野鼠に似た生き物が野卑な笑い声を上げた。


「これ。そう言うものではありません」

 森の民が優しく注意する。

「お前さん。助けて欲しいのか? 私達の船に乗りたいのか?」


 母親は、その言葉に慌てて船の側まで近付いて行った。

「はい。どうしても……。お願いします」

 母親は必死の表情で頼み込んだ。


 森の民は、船の上から母子を見詰めた。

「乗せても構わないが、これは森の民の船だ。シェザールの人間を乗せる事は出来無い」


「そんな……」

 母親は、船にしがみ付きながら、落胆の声を上げた。


「しかし、赤ん坊はまだシェザールの教えを受けていない。そういう面では、動物の赤ん坊と同じとも言える。だから、そのお前の子供なら乗せても構わないが、どうだ?」


「えっ?」

 母親は驚きの声を上げた。

「でも、私はこの子の親です」


「心配するな。ちゃんと向こう岸にいる人間に子供を育ててもらうようにする。それならいいではないか?」


 森の民の言葉に母親は思い悩んだ。


「子供の命は助かるのだぞ。悩む事は無いのではないか?」

 森の民は、悩む母親を意外に見詰めている。


「私は……、私は……」

 母親は、胸に抱く赤子の顔を見て決断しかねていた。

 母親としては我が子と離れる訳にはいかなかった。しかし、子供の事を考えると、命だけでも助かって欲しい思いで一杯でもあった。


「何をしてんだいっ。もう、船を出しちゃうぞっ」

 艫の方から苛立ちの声が投げ掛けられる。


「……という事だ。いつまでもお前を待つ訳にはいかない。さあ、どうするのだ」





 船は、誰も乗せないでラトアスの大河を横切っている。

 激しい流れも一切関係無く進んで行く。


「それにしても、人間っておかしな生き物ですねえ。子供だけでも助けようとしないなんて……」

 野鼠のような生き物が後ろの方から呆れた声を出した。


 結局、母子は船に乗る事は無かった。

 母親は、無念の表情を見せながら岸辺に上がり、再び逃亡を続けたのだ。


「あのままじゃ、ふたり共敵に捕まって殺されるだけなのに……」


 森の民は、相変わらず舳先に立って行く先を見詰めている。

「それが人間の情というものよ。子供だけでも助けるのも情。死ぬまで一緒にいるというのも情。問題は、情の強い弱いでは無いのよ。どの選択肢を選ぶのか、なのよ」

 森の民の声からは、同情の色は見えなかった。


「へー。おいらには、さっぱり分からねえなあ」

 野鼠の生き物は、興味無い口調で喋りながら、いつものように大河の川面を眺めていた。

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