疑念 その23
目覚めた場所は、埃立つ造りの悪い床の上だった。
節くれ立った形の悪い薄い木材を手荒に並べている暗い部屋の中。
完成美や建築構造などとは程遠い壁の隙間から漏れ入る光と音で、夕方が近い事とここが貧乏地区の建物の中だという事だけは分かる。
思わず吸い込んだ埃に咳き込みながら、後ろ手に縛られたゼラは痛む体を苦労して起こし、壁に背を預けた。
脱力感が全身を覆い、顔や手足、胸や腹、至る所に走る打ち身や傷で頭が満足に働かない。
ゼラは、どうして自分が生きているのか不思議に思った。
ノイアールを討ち漏らし、仲間をひとり失ったゼラに戻れる場所は無かった。
命令に二度も失敗したのだ。間違い無く命は助からない。
密輸船から引き揚げる途中でゼラは、『影』を抜け出す事を決めた。他の仲間に知られない内に姿を消すのだ。
集団で動くと、人目に付く為、『影』は基本的に離れて行動する。目的地が同じでもわざわざ各自別の道を選ぶのだ。勿論、帰りも同じである。ゼラは、その決まりを逆手に取り、知られずに身を隠そうとした。
しかし、その時だけはいつもと違っていた。仲間は、ゼラの側から離れようとせず、常に目を離さなかった。
その意味は、すぐに分かった。
仲間の腕は、ゼラも良く知っている。長年、互いに苦労を共にして来た者同士、どれだけ手強いか。
それでも、ゼラは逃げた。仲間が追いすがっても必死で逃げた。闇の中で互いの足音、呼吸音、闘気を頼りに剣を交え、逃げ道を感じ走った。
空気を切り裂く音で皮膚を斬られながらも、辛うじて致命傷を避け、道端に散らばる障害物に頭から突っ込み、限界を超えた筋肉や骨の悲鳴に気が狂いそうになっても、培った精神力が諦めを受け入れなかった。
……ゼラには、そこまでの記憶しか無い。
あの後、どうして助かったのか。どうしてこんな所に倒れているのか。全く分からなかった。
只、分かっているのは、ここは『影』の影響とは無縁の場所だという事、命だけは助かったという事だけ。
ゼラは、改めて周囲を見回した。
三メタル四方程の小さな部屋に藁やムシロ等が乱雑に積まれている。床を指で触ってみると、ひと掴み程の埃が手に収まった。
どうやら、ここは長い間使われずに放って置かれた建物らしい。壁の隙間から漂う空気を臭うと、湿っぽくてゴミ臭い異臭が鼻を突いた。
恐らく、ラトアス河の側に建てられた作業小屋なのだろう。今では打ち捨てられているのを誰かが目を付けたという訳だ。
ゼラは、用心深く外の様子を窺った。
少なくとも自分をここにぶち込んだ人物は、『影』の手から自分を救い出す程の実力者である事は間違い無い。
只、その人物が自分の味方である可能性は限り無く低い。何故なら、『影』に生きる者に表の世界の知り合いはいない為だ。
『影』の子供達は、二度と表の世界に戻らぬように慎重に『選ばれた』子らだ。例え戻るとしても、その時は物言わぬ体になってからだというのは、皆分かっている。
それなのに、自分は息をしている。未だに体中の痛みを感じている。
運が良いのか悪いのか……。
ゼラは、血が固まり引きつる唇の傷に顔を歪めながらにやけた。フラクスナ神から離れると、こういう目に遭うのだな。もし、次があるのなら、重々気を付ける事にしよう……。
痛みにも若干慣れ、気持ちも落ち着いて来ると、前向きな考えが頭をもたげて来た。
とにかく、自分をここに入れた人物は、少なくとも自分を殺そうとは思っていないようだ。となると、自分を生きている事で相手に何か利点があるという事になる。
今は、それが何かを明らかにするのが大事だ。
ゼラは、ここ数日の出来事を頭に思い浮かべた。
何か手掛かりがあるとすれば、クオーキー伯爵殺害以降の事だろう。ノイアール暗殺に失敗して、マグルブは自分を始末する事にした。ならば、自分が生きている事で困るのはマグルブだ。つまり、普通に考えたら、自分をここに連れて来た人物は、『影』かマグルブを敵視している事になる。
只、自分を救ったのはノイアールでは無いだろう。ノイアールは、己を襲った集団が『影』だと気付いても、『影』に対抗すべき力は持っていない。ノイアールの手下を使った情報網は認めるが、暴力的な破壊力は持ち合わせていない。
国王警備隊でも無いのは分かる。あの甘ちゃん副長が『影』の追手から自分を奪い取る程の芸当が出来る筈が無い。
ならば、誰が一体……。
ゼラは、壁の隙間から差し込む光の筋を見詰めた。その先には、床に広がる埃がぼんやりと確認出来る。
ゼラは、体を傾けてみた。床の上には自分が引きずられて来た跡が『無い』。
という事は、自分は抱えられてこの場に放り出された事になる。
にしては……。
分厚い埃を踏み付けて跡がついた床の足跡が、大人としてはあまりにも小さ過ぎる。子供程度の足跡が入口からゼラの位置まで進み、入口に戻っている。
さらに、ゼラは足を縛る縄を見た。
それはどこにでもある普通の縄だが、結び目を見ると、強い力で結ばれたらしく、縄が半分近くまで圧縮されている。これ程、強く結ばれた縄は、ついぞ見た事無い。
どうやら……。
ゼラは、当然導き出される結論に到達していた。
あそこで死んでいた方がマシだったかもしれないな……。
ゼラは、ゆっくりと息を吐くと、気たるべき第二の暗黒生活に向けて体力の回復を急ぐ事にした。
そう、今焦っても仕方無い。
『奴ら』の手の内に入ってしまったら、容易に逃げ出す事も出来無いのは分かり過ぎる程分かっていた。