疑念 その20
フラクスナ神は、シェザールの王家が密かに抱えていた隠密組織が信仰すると言われている女神だ。
話によると、それは数百年の昔から、虐げられた最底辺の人々に囁かれていた救いの希望だった。
『影』は、運に見放された、自力で生きられない弱者の組織である。
『影』として生きる道は、それ自身、人の道から外れた生き方だ。
死から免れるか、死を生み出すか、その二者択一しか選べない者達がすがる対象として、これ程適した神はいない。
そして、この事実は、シロリオとノイアールを狙った暗殺者集団は、『影』だという事を明らかにする。
「今、『影』はロクルーティ公爵が抱えていると言われています」
ラプトマッシャルは穏やかな言い方をしたが、それは公然の秘密であった。
「私があなたをこの部屋に招いた理由がお分かりでしょう。公爵家で育てられ、誰もが公爵様の庇護の元で安泰だと思っているあなたが、実は公爵様の『影』に狙われているのです……」そこで、ラプトマッシャルは改めてシロリオの表情を見詰めた。「この私でさえも、これ程驚かされた事はありませんよ。全く……」
シロリオは、その時、思わせ振りなラプトマッシャルの姿を見てなかった。
ノイアールは、どうしてラプトマッシャルに聞くように勧めたのか。
ラプトマッシャルは、只の知識人では無い。豊富な知識を駆使して、各情報同士の繋がり方から真実に迫る事が出来る。これでは、公爵の謀反まで気付かれてしまうではないか。
「いや、それは何かの間違いだったと思われます。幾ら何でも、わざわざ私のような孤児を拾ってここまで育てたのに、誰が始末しようと思いますか。しかも、自分で言うのも何ですが、警備隊の副長ですよ。もし、私が暗殺されてしまったら、クオーキー伯爵と同じように街は大騒ぎになりますよ」
ラプトマッシャルは、それを聞いて何度も大きく頷いた。
「確かに確かに。……いや、これは申し訳ありません。私の性格上、不確かな事はどうしても突き止めてしまいたいという欲が抑え切れませんでな。ほんとに申し訳ありません」
ラプトマッシャルは、続けてシロリオに対して申し訳なさそうに頭を下げた。
シロリオは、このラプトマッシャルの素振りに若干の違和感を感じていた。どこか、ワザとらしい動きが垣間見える。
「私も別に首を突っ込もうという訳ではありません。あくまで私は自分で調べられる範囲の事を調べているだけの事です。ややこしい事には、関わらないのが私の性分なのです。そのおかげで、これだけ色々な情報を集めても命長らえております。ですので、ウイグニー副長がどうしても言えない事まで無理に聞くつもりはありませんので、ご安心下さい」
成程、そう言う事か。
シロリオは、ラプトマッシャルの言葉に幾分か安堵した。
フィリアの貴族に仕え、今はシェザールに仕えるその柔軟性は、ラプトマッシャル自身が持つ価値だけでは無く、危険な場所には容易に足を踏み入れないという巧みな処世術の成せる技なのだ。
ラプトマッシャルは、その手に掴んでいる膨大な情報から導き出しているのだろう。
何か、公爵家でとんでもない事が起きている、と。
もしかしたら、真実に辿り着いているかもしれない。
しかし、その事がセーブリーの耳にでも入ってしまえば、今度は自分の命が狙われるかもしれない。
ラプトマッシャルにとって、シェザールの国がどうなろうと知った事では無い。例え、ロクルーティ家が王権を簒奪しようが自分の趣味を邪魔されなければいいのだ。
ラプトマッシャルは、シロリオを安心させるように言った。
「これは、大きな声で言えないのですが……。今もラーエンス総督に意見を求められる時は、自分が手に入れている限りの情報は全て差し出します。それが、上に仕える者としての当然の務めですからね。只、その情報を元に判断するのは、全て総督閣下にお任せしているのです。私がその情報で何か大きな秘密に気付いたとしても口にする事はありません。口にした瞬間、私もその事件に片足を踏み入れる事になりますからね」
と、意味有り気にシロリオを覗き見た。
シェザールに仕える者として、そういう考え方もどうかと思うが、取り敢えず、公爵の謀反がラプトマッシャルの口から広がる心配は無さそうだ。
ノイアールは、そういうラプトマッシャルの性格が分かった上で自分に勧めたのだろう。
という事は、ノイアールとラプトマッシャルは、顔見知りなのだろうか。
「ええ、ええ。ノイアール=ベニスン殿もよく知ってます」シロリオの質問にラプトマッシャルは、笑顔で答えた。「トラ=イハイムの街で起こった出来事は、ほとんど彼から仕入れています。彼は、大変賢い方で、噂話をそのままこちらに流して来るのではなく、ちゃんとその情報の真贋も確かめてくれますし、不確定な情報については、どのくらい信頼度があるのかまで彼なりの意見を添えてくれます。私には、大変有難い存在ですね」
その裏で、見返りとしてノイアールにどのくらいの便宜を図ってやっているのか。
全くあいつも油断ならない奴だな。シロリオは、ノイアールの得意気な顔を思い浮かべていた。
「所で……」
シロリオの思索を断ち切るように、ラプトマッシャルが顔を近付けて来た。
「ついでと言っては何ですが、ひとつ私からもお願いがありまして……」
シロリオは、ラプトマッシャルの表情が変わった事に気付いた。
どこか真っ直ぐな真剣な眼差しを湛えている。
「お願いというのは、簡単な事です」ラプトマッシャルは、ニヤリと笑みを浮かべた。「今回警備隊が捕まえたモアミという女に会わせて頂きたいのです」
道理で。シロリオは、その表情に合点がいった。
これは、己の趣味にのめり込む輩が見せる顔付きだった。
世界のありとあらゆる物事を突き止めたいラプトマッシャルとしては、モアミがトラ=イハイムにいるという事は、千載一遇の奇跡であり、そのモアミに会うのは、何としてでも成し遂げたい願望なのだろう。
「はあ……」
シロリオは、即座に却下したい気分だった。
つい先日、ノイアールをモアミに会わせたばかりである。続けてラプトマッシャルを連れて行っては、モアミの自分に対する心証を悪くしてしまうかもしれない。
自分としては、本気でモアミの事を思っているのに、そう立て続けに、しかも今度は興味本位丸出しで自分の欲望剥き出しの男を連れて行ってしまったら、悪い印象しか与えられないのは分かり切っている事だ。
しかし、シロリオとしては、忙しいラプトマッシャルの時間をもらい、首飾りの情報を教えてもらい、公爵の謀反に気付いているか分からないが、ある意味口止めをしてもらっている。
その手前、無下に断るのも躊躇われた。
ラプトマッシャルは、両膝に両手を置き、食い入るようにシロリオを見詰めた。
「いや、そんなに時間を取らせません。死の娘は、クオーキー伯爵殺害の容疑者、私とて自分の命を危険に晒すような真似は致しません。只、死の娘と会えるのは、これが最初で最後かもしれない貴重な機会なのです。後々の世に死の娘の実像を伝える事が出来るのは今しか無いのですから」
ラプトマッシャルの決まり文句。『後の世に伝える貴重な機会』。
これを言われると、自分の判断が歴史を変えるのだ、歴史を刻むのだ、という気にさせられる。
「分かりました」シロリオは、そう言わざるを得ない気分にさせられていた。「只、モアミと面会する日取りは私に任せて頂きます。まだ、事件の捜査が行われている最中ですし、ちょっと、ややこしい事態に発展しかねない所ですので」
それを聞いて、ラプトマッシャルは「おおっ」と感謝しながら両手を広げた。
「まさか、こんな日が訪れるとは思ってもいませんでした。古臭い書物に記されていたレフルスの死の子供に会える時が来るとは……。これは、《ナパ=ルタ》の神に感謝の礼拝をしておかなければなりませんな」
そう言って、ラプトマッシャルは何か目に見えないものを敬うように天井を仰ぎ、両手を合わせた。
そのラプトマッシャルの姿を大袈裟だとシロリオが思ったのも無理は無かった。
ラプトマッシャルは、フィリアの生まれとは言え、フィリアの教えに捉われない生き方をしていると見られている。
大体、世界の知識を集めるという作業からしてそうなのだ。フィリアの教えに忠実なら、フィリア伝統の生き方を超越した今の生き方をする筈が無い。
ラプトマッシャルのその姿勢は、この時代、大なり小なり何か見えない力を畏れていた人々の目に奇異に映っていたのだ。
世界の全ての知識を手に入れる。
その野望は、まさに神の知恵に近付くという事に他ならない。
ラプトマッシャルがしている事は、そういう人知を超えた存在への冒涜だと見られたのである。
あいつは神を畏れない。神に挑戦している。
いや、そもそも神を信じていない。
そういう噂が絶えないラプトマッシャルが神に祈る姿を見せたとしても、シロリオがどこか空々しく思えたのも無理無かった。
「森の民の手によりこの世に降り立った闇の子供です。人間という生き物は、何を以て人間と言えるのか。果たして、死の子供は、人間という種の一員と見做していいのか。それとも、死の子供は、あくまで死者の一員なのか……」
「人間です」
シロリオは、ラプトマッシャルの言葉を遮って強く主張した。
「モアミは、確かに死の女の事もかもしれませんが、私の見る所、人間と違う所は全く見られません。あの娘は、間違い無く人間です」
ラプトマッシャルは、突然のシロリオの興奮を興味深げに凝視していた。
まるで、シロリオが抱くモアミへの執着心を透かし見るかのような目だった。