疑念 その18
「カンドレバルの水差しではないか!」
ラプトマッシャルは、総督室よりも二倍は広い副総督室で、差し入れられた水差しを手に叫んでいた。
『カンドレバル』などという単語を聞いた事のある宮廷人は何人いるだろうか。
それは、フィリアの土に埋もれていた書庫で埃まみれで眠っていた古文書群の一巻に書かれていた世界の地誌の中でも四行しか記されていない謎の土地である。
『ゼンマライカの女神が持つ赤炎の長槍も見通せぬ森と湖の向こう、西にふた月半、北にひと月歩いた後に年の三分の一しか口を開けぬ蝙蝠洞窟を三日歩き、人食い犬の平原と死神の川を渡った先に動物の皮と大魚の骨を使った家に住み、人間の半分の背丈で起きている間は走り通し、寝ている間は神と共に伏し、樹々の皮しか食べぬ小人がいる。その小人は、天を照らす青の色素を掌から生み出す。その色は、暗闇でも輝き、いつまでも消える事は無い』
つくづく、フィリアの民は女神が好きと見える。
この数千年の人間の歴史で、カンドレバルに赴いた事のある者はほんの数名しかいないと聞く。
野猿にさらわれし男ヤッチラホムレ、海獣を操りし伝説の漁師デライタ、その他名も無き者達。
その偉大なる偉人達がフィリアに知らしめたカンドレバルの水差しが今目の前にある。
ラプトマッシャルは、震える手で水差しを恐る恐る持ち上げた。
「間違い無い。本物だ……」
鮮やかに光る青の塗料。その煌めきは、ラプトマッシャルの瞳を捉えて離さない。
「……で?」
「これを持って来た者は、副総督との面談を望んでいます」
取り次いだ召使いは、水差しを置いていた盆を持ったまま答えた。
副総督の地位は、意外と忙しい。しかも、仕事が山積していて簡単に面談の時間を作る事が出来無い。
この人物は、自分が欲しがる珍品を使って懐柔しようとしている。
「何者だ?」
「国王警備隊副長シロリオ=ウイグニー殿です」
ラプトマッシャルは、水差しを見て以来初めて顔を上げた。
「警備隊副長? どうして、こんな方法を使うんだ? 普通に会いに来ればいいだろうが……」
「それは……」召使いは戸惑ってしまった。下僕である自分に副総督が質問をしている。ここは、まともに答えていいのだろうか。「普通のやり方では、時間が取れないからだと思います。まとまった時間が……」結局、普通に答えてしまった。
「ふむ……」
勿論、貴族で無いラプトマッシャルは、そんな事に頓着しない。
「確かに、今の私なら今すぐにと言われても相手出来無いな。しかも、一刻も時間が取れないしな」
ラプトマッシャルは、再び水差しを見た。
「よし。一刻だけ時間をやる」言いながらラプトマッシャルは、含み笑いをした。目の奥に水差しが輝いている。「それくらいなら、いいだろう」