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無題、独白

作者: よるいちり

 私は幼い頃、ごく普通に自分は特別な存在だと思っていた、普通の子どもだった。

 これは、私に特別ななにかがあったわけではない。幼い頃は自分は特別な存在であると思っているのが普通だろうという話だ。全能感は徐々に薄れて社会に迎合するのが正常だと思う。

 自分は特別であるという思い込みから、自分が特別であれば良いのにと願う期待、最終的に「普通」であることへの妥協、もしくはせめて普通でありたいと期待するようになった、全く普通の人間だ。

 私が、自分の家庭環境について、もしかしたら「普通」とは少し違うのではないかと気付いたのは、思春期も終わろうとしていた頃だったと思う。

 私には少し年下の弟がいるのだが、その弟がいわゆる障害児だったのだ。

 昨今は障がい児と書くようになったのだとか、ボーダーだとか、様々な分類が出来つつあるが、当時はまだ、今ほど理解が進んでいなかった。ロボトミー手術だとか瘋癲病院だとか、今書けば怒られるだろう時代と紙一重か、二重くらいの時代だったのだろう。恐らく、ネットがなかったという事情もあると思う。一個人の症例が誰の目にも触れるという環境が、まだなかったのだ。

 弟が障害児であると聞いた祖父が、「早く治ると良いね」と言ったのを良く覚えている。無論、障害児――弟の場合は自閉症と、知的障害。これは、「治る」ものではない。病気ではないのだ。

 祖父はしっかりした教育を受けて立派に仕事をし、愚鈍とはほど遠い人物だった。「昔ながらの人」と言ってしまえばそれまでで、事実、私からすれば祖父であるので、古い人間だ。とはいえ間違っても愚鈍な人物ではないし、恐らく祖父のその反応は、とても優しいものだった。時代や地域は個人の資質によっては「勘当だ」と言い出してもおかしくない。いや実際はおかしいが、起こり得るだろう反応の話だ。

 しかしその祖父をして、勘違いでしかない反応をする。

 障害児というのは、当時そういったものだった。

 しかし恐らく今も、そう変わりがないのではないかと思うことがある。ブロードバンド時代が来て、ネットで気軽に情報が検索出来る時代になったが、「見る」情報は取捨選択が可能だからだ。知ることが出来なかった時代から、知りたくないことは知らないままで良い時代になったのだろう。

 社会的弱者である彼らを無視、もしくはあざ笑うように過ごした末に、社会に出て鬱病に罹るなり「弱者たちは守られるべき」と自分の権利を叫ぶ人種を正直どのように受け入れるべきか、私は今も良く解っていない。

 同様に、税金を納める様子もなく家族と国家、引いては他の納税者に頼り家に閉じこもっている身分なのに、社会に出て労働をこなし自らの賃金と保証でもって暮らしている彼らをあざ笑うニートたちについても、なぜそこまで被害者意識を持ちながら、障害者より上にいると勘違いし、なおかつ保障を求めるのか、私には理解出来ないでいる。

 これは過激な話で、このような認識が褒められたことではないし、全ての手当を厚くすべきということは解っている。しかし、「障害児の弟と過ごした」人間の正直な疑問として記録だけはしておくことを、ひとまず許して頂きたい。私には彼らの立場は解らないし、彼らにも私の立場は解らないだろう。

 この辺りのことは後で改めて記述するとして、話は戻って私の弟だが、まず、言葉が喋れない。

 いつも思うのだが、「言葉が喋れない」ということを正確に伝えるのは、少し難しい。

 音を発することは出来る。声が出ないわけではないが、私達の使う「日本語」は喋れない。他のどの言語を操るわけではない。と、思う。少なくとも、彼がなにを言っているのか、言葉による意思疎通が可能な人間には会ったことがない。

 なにかものが欲しいときは「ください」のニュアンスで言うように「くださいは?」と促すと「う、あ、あ、い」と口にするが、彼が果たしてなにを思って「う、あ、あ、い」と口にしているのかは解らない。なにしろ言葉が通じているのかどうか、確認する方法がないからだ。両親は一時期良く「彼らがなにを言ってるのか解ったら、ノーベル賞ものだ」と言っていた。

 彼ら、というのは、私の弟と同じく「言葉が喋れない」障害児の子どもたちだ。彼らと真に意思疎通をする方法が誕生すれば、確かに革新的なことが起こるのだろうと、私は思う。

 しかし私が幼かった、まだ自分の家庭がごく一般的だと思っていた当時は、「弟が喋らない」というのは、私にとって当たり前のことだった。なにしろ私は「弟」といういきものを彼以外に知らないし、弟が三歳児検診で障害者として引っ掛かったそのとき、七歳だった。「普通の三歳児はこのくらい」という基準が七歳の自分の中に存在しているわけもなく、ごく普通に受け入れた。そしてそれからも、ごく普通に受け入れていた。

 と、いうのも、両親から弟に関する説明が――なかったのか、それとも私が理解出来ず記憶に残っていないのか、ともかく私の記憶の中に「自分の弟は障害児だ」という説明をされた記憶がなかったからだ。

 これが私の弟だ、ということに、私は特に疑問を抱いていなかった。恐らく、とても鈍感だったのだろう。

 無論、両親は「障害児」に認定された自分の子どもをどう育てるか、どうしたら良いのか、二人きりの「家族会議」を頻繁に開いたらしい。

 大人になってから良く聞くのは、その頃、私が弟に本を読み聞かせて一緒に遊んでいるのを見て、「どうにかなるかも知れない」と思ったということだ。わたしにその記憶はないので、恐らく普通に内容が通じていると思って読んでいたのだろう。

 私が通っていた小学校には「特殊級」というクラスがあり、弟のような、もしくは弟より軽い、もしくは肉体的にハンディのある子どもたちが通っていた。

 私の方が年上なので、当然先に小学校に通い始めたのだが、同じクラスに「特殊級」の生徒がいた。「普通級」こと普通のクラスと、「特殊級」の生徒に交流を持たせる方針だったのか、「特殊級」の生徒たちも「普通級」に籍があったからだ。

 私はその頃初めて、弟が「障害児」であるということを認識したように思う。

 私の同級生の「障害児」は、今思えばいわゆる「ボーダー」に近く、私が「私の弟が障害児だ」と思ったのは、その頃から様々な、私が育てられたときにはなかった出来ごとが起こり始めたからだ。

「障害児」の親たちが集まり育て方を模索する会や、そのように言われて見に行ったが実際は政治・宗教団体だったりした会、科学・医学的アプローチをするリハビリセンターなどに通った。

 私は放課後であればそれに付いて行ったし、一緒に行けないこともあり、いわゆる「鍵っ子」というやつになった。いわゆる、両親が共働きで学童保育などに入る子どものことだ。

 実際は、学童保育に入ることはなかった。私は当時から独り遊びが好きで人見知りをする性質だったので、恐らく私が嫌がったか、もしくは学童保育が定員で入れなかったのだろう。既に友達がいないわけでもなかったので、入れなくて良かったと思う。

 数年して、弟が「特殊級」に入学した。

 弟がそのクラスに所属しているというのはすぐに知れた。なにしろ私が隠そうと思っていなかったというか、隠す必要を感じていなかったし、友達は家に遊びに来て、弟を直接見ていた。

 同学年に、姉が障害児で特殊級に通う女の子がいたこともあったのか、そもそも障害児の知識と基準が中途半端であったせいか、私も障害児ではないのか、なぜ「普通の」クラスにいるのかといじめられることもあった。

 今にして思えば、小学校というのは普通か、普通でないかをふるいに掛ける機関ではないのだと思う。

 そのとき私が通うクラスにいた「特殊級」の子は幾つかの授業のときだけ「普通の」クラスで受けていた。彼は「普通の」クラスで受けるテストの点数も、高くはなかったが、最下位でもなかった。彼より低い点数を取る生徒もいたし、国語の教科書の音読で何度読んでも、どうしても同じ読み間違いから抜けられず繰り返し間違える生徒も居た。テストの時間に耐えられずに笑い出したり、歩き回ったりする子も居た。今思えば、彼らはもしや、「ボーダー」に相当するのではないかと思う。当時は「ボーダー」という言葉はまだなかった。

 しかし彼らより「普通の」学力で、恐らく「普通に」していた私は、「本当は障害児なのではないか」と言われていた。「障害児」という定義が曖昧な時代だったし、子どもにとっては尚更そうだ。

 そして実のところ、わたしは未だに自分がいわゆる「健常者」であるのかどうか、確信が持てない。

 なにをもって「健常者」と呼ぶのかと考えると、とても難しい問題になると思う。

 国民の三大義務を全うしている人間だろうか? だとすれば確信的ニートは健常者ではない。彼ら以外にも、様々な事情で教育・勤労・納税の義務を果たしていなければ健常者ではないとすれば、それは余りに暴論だろう。

「誰が見ても普通ではない」とするには「誰が」の基準が曖昧過ぎる。「障害者」というのは結局本人と、親族と、診断する人間の主観で出来ているのだけと思う。

 私は一時期、いわゆる自傷行為が抑えられなかったことがある。動脈を切るような致命的なものではなく、かといって傷跡を両親や周りに見られて心配されたいわけではなく、むしろ傷は隠すようにしていた。

 そうして切ったときの影響か、今も指の一部に、触ると感覚が鈍く、爪を立てても痛くないところがある。

 自傷行為は数年続いたし、その間に別の病気で入院し、看護師さんに傷を見られ「猫ちゃんがいるの?」と言われたこともあった。私は咄嗟に「はい」と答えた。自分で傷を付けたとは間違っても知られてはならない、恥ずべきことだと考えたのだ。

 これが果たして私が幼少期から育てて来た集大成なのか、それとも思春期が長引いた末の物として生まれ育ちとは分断された資質なのか、私には解らない。

 自傷行為は大小に関わらず、すぐに病院に行くべきとあるネットも見たが、私は結局今に至るまで、精神科に罹ったことはない。精神科に通うと養老保険を掛けるのに問題が生じると思ったし、仕事にも響くと思ったからだ。

 心の風邪にも個人差があるので、私は結局ごく軽い鬱病であったのではないかと思う。そろそろ五年ほどが経つが、今のところ頻度は減っているし、起き上がれないほどの日も、今はもう然程ない。私が果たして「社会的弱者」の立場に寄り添えたかどうかは疑問だし、長くなるので割愛したい。

 大人になってから思うのは、自分は果たして「健常者」であるのかということだ。これだけは未だに、疑問が残る。

 私は今、自分をごく普通の思考を持つ凡庸な人間であると思っている。しかし果たして、他人が思う凡庸の域に達しているのか、その答えはない。

 解るのは、面倒臭い私という存在を家を出るまで育ててくれた両親は立派であるということ、それから、障害者の弟を彼個人の給与と保障だけで暮らせるようにした本当にとても立派な両親であること、それだけだ。

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