予兆⑴
予備校へ向かう電車の中で確か僕は何かを考えていた、と思う。
その行為自体が思い出せないのでさらに推定になってしまうんだけど、確か概念的で、もっというと高尚で形而上学的な何かを考えていたような気がする。
何故僕がそんなことを考えていたんだろうか、と考えてみるときっと最近読んでいる何だか思想だとか、何だか学派だとか、ドイツ語でなんだかッガーだとかなんだかホルトだとかいう名前の大層有名な作家の思想書、哲学書を読んでいたからだと思う。
存在とか、自由とか空間とか必然とか、よくわからないことを知ってよくわからないまま何かを知った気になりたかったんだったろうか。(大学に落ちたんだ、だからだと思う。無力感の排除?)
そういう諸々を考えていたら、確か途中で暗転、気絶、したんだと思う。定かではないが。
難しいこととさらに難しいことを頭の中で渡り歩いていたら、急に”隙間に”落ちていったように気を失った。ような感じだったろうか。あると思っていた階段を踏めずに足が空を踏むような狂った感覚を感じた。
何時間、何分?朝の7時45分に山手線に乗ったのに、気が付いたら12時過ぎだった、何周したんだろう、夏も盛りにここまで皆勤だったのに、浪人生に皆勤なんてあるのか?なんて考えていた、とても疲れてクーラーは効いているのにもかかわらず、汗を随分かいていたみたいだ。
急いで電車から降りる。
僕の通っている予備校は新宿にあって、確か午後からは科学の物理の講義が今日あったはずだ。理系だったから、コンデンサだとか、電磁誘導だとか、将来どこで使うのかよくわからない教養なんだか専門なんだかよくわからないのを学びに行くんだ。そういう予定になっている。
ホームは人がいっぱいだ、みんな何をして生きているんだろうか、サラリーマン風の人が多い、なんで昼に?昼休みは社会人にもあるのか、それとも営業とか、打ち合わせとかだろうか。
歩みを進める。
今は夏休みなんだろうか、改札を抜けて駅を出る、とても大きな、そして近代化を絵に描いたような風情の駅だ。人がたくさんいる、とても暑い、寝起きだからか目眩もする。
学生風の男女がたくさん、たくさん行き来している。
電光掲示板には行ったり来たりする電車の予定が書かれている。
大学生の夏休みは長いのかな、すれ違う。
とても暑い、シャツはいらなかったな。
相変わらず日差しが眩しい。
駅を少し離れた高いとも低いとも言えないビルの間を通った路地に向かった。夏なのに、ひどく白い暑苦しい日差しがここまでは差していなかった。少し涼しい。
駅前は人でごった返していたが、何だか薄暗い路地には誰もいないみたいで少し寂しい感じで落ち着いた。
目が覚めてから腕時計の時間を見て急に心臓が早鐘を打って、さらに急いで電車から出てここまで来たので、もうこれだけでひどく疲れてしまった。ここまでに大量の汗をかいていた。どこか、座りたいと思った。隙間風が心地いい。
適当なビルの非常口の少し盛り上がった段差を見つけて座る。
横には自動販売機が二台、赤と青。
喉が渇いたけどなけなしのバイト代は使いたくなかった。
日陰が涼しい。
「なんで気を失ったんだろ」
多分僕は今日初めて喋った。
独り言を。声が少し嗄れていた。
僕は一人暮らしだから、さらに浪人生だからか、人としゃべることは最近ほとんどない。
夢を見た気もする、誰か、誰だったか、誰かが喋っていたような気もする、ほとんど思い出せない、混沌とした気分になる。夢とは大体そういうものなのか、後になったら、決して思い出せない。
僕は何かいつもと違う感覚を覚えた。うまく形容できないが、風のひき始めの頭に靄が少しかかった状態や、居間のブラウン管が付いているのに気がついたような感覚だろうか。(子供の僕の耳にしか聞こえないようだった。)
涼んでいると、予備校に行くのが億劫になってきた。人の一挙一動にはとても精神力を使うものだと思う。この短い時間で僕は一体どれくらいの行動をして、些細なくだらないものに思考を巡らせただろうか、もうそれだけで少し疲れてしまったみたいだ。まだ十代なのに、僕の先は短いんだろうかなんて考えたりする。
視界の端の路地の出口、暗いビルの間から差し込む眩しい光に影が差した。こちらに近づいてくる。僕は頭をもたげていかにも人生とかいった類のものにつかれきったような様子だったので、誰だかわからないがこんな醜態を小規模な公共性に晒したくないといった気分になり、異常ではないくらい、けれども極めて俊敏に立ち上がり、気取られないよう自然に通りへ向かって歩き始めた。
こちらへ向かってくるのは女だった。
路地に進むたび姿に影が差して少しずつ暗く見えづらくはなっていくものの、ごく普通の学生然とした女がこちらに近づいてくる。
何を考えているのだろうか、目線はどこを見ているというわけでもなかった。
そんなことを考えつつその逆方向に僕がよろよろと歩いていると、配電盤なのかよくわからない金属製の白っぽい箱状のものに書かれている落書きが目に入った。
グラフィティアートというんだったろうか、よく見るとそういった模様、マークのようなものが薄汚いレンガの壁やヒビの入った窓ガラス、電柱や配電盤のようなものにたくさん書かれている。
一体どういった連中がこういうのを書くんだろうか、どんな気分で?こいつらの年収は一体どれくらいなんだ、定職は?家族は?どんな環境で育った?などとと思いながら直進していくと、軽い衝撃を受けてのけぞってしまった。右肩に何かが当たったようだ。
どうやら女とぶつかってしまったらしい。
女性特有の少し高い短い悲鳴をあげてから、こちらを女が睨んだ。まるで親の仇を見るように。身長は160センチくらい、崩れているとは言えない顔は常日頃から自分の価値を競りにかけなれているといった具合で、服と、やや尊大にも取れる雰囲気がさらに見て取れた。
「すいません」
僕は謝った。くぐもった小さな声で、相手は気分が悪かったことだろう。
理由はわからないがまた気温をとても不快に感じた。
彼女の表情と、その目が不快だった。
僕の周りには和やかな優しさと遠慮に満ちた世界が微塵も存在しないと思った。
僕は女の顔を見ないよう目線を足元に向かわせながら、通りの光に向かって歩いた。大したことではない、普通の社会に良くあるごくごく小規模な諍いの一つなんだ。ただそれに遭遇したということなんだ、と思ったが、突発的な怒りと暑さに僕は顔をしかめて歯を少し、噛み締めていた。
今日は帰ろうかな、と思った。
と同時に後ろから地面にものが落ちる音、そして女の通りに響き渡るくらいの悲鳴が聞こえた。
少し離れてはいたが、先ほどの一山いくらのくだらない女だと思った人物が背中をこちらに向けてうずくまっている。
何かにつまずいたのだろうか、それとも靴のかかとが取れたのだろうか。
地面に叩きつけられた拍子に尖った石か何かに刺さったんだろうか、少し斜めになった女の肩越しに血で赤くなった掌が見えた。
ざまあみろ。無表情でほくそ笑む。
確かに異常事態ではあったものの、僕にはどうでも良かったので、通りに向かい再び歩み始めた。後ろで女が何か喚いている。救急車でも呼ぶのだろうか、この狭い路地に。多分なかまでは入れないだろうし、僕はこの路地の名前なんか知らない。女は自分がどこにいるなんてことをわかっているんだろうか、携帯に向かって喚いてるようだ。
僕は路地を抜け通りの光に包まれた、眩しさに少し目を細める。
太陽の熱が顔に伝わり、また不快な気分になった。
立ち止まる