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明治二十九年十一月:床に伏し、想うこと

 少しずつ体調を崩し始めていながらも、未だ何時も通り生活を送ることが出来ていた頃。

 わたくしは自らの書斎で、最早毎日の日課と為っていたこと――日記を、綴っていた。

 此れまで何か目新しい出来事がある度に、事細かに書き綴ってきた此の日記も、もう何冊目に為ろうか。一応全てを残しては在るものの、一々数えてはおらぬし、読み返してもおらぬ故、自分ではどのくらいの量を書き綴ってきたのか分からない。

 小説を書くよりも赤裸々に、自由な文体で書きつけることの出来る日記という媒体を、わたくしは気に入っていた。勿論此れを世に出そうなどという気は微塵もなかったから、大衆向けなどということを考えず、思ったことを何でも綴ることが出来る故、殊更書きやすかったのかもしれない。

 斯うして出来事や心情を帳面へと綴り始めたのは、あの方に出逢った時期と粗同時であったと記憶している。わたくしの日記は、其のままあの方との思い出であると言っても過言ではない。

 或いは、歴史――わたくし自身の物語と、言っても良いだろう。

 わたくしが其の日綴った日記には、あの時のことを書いた。あの方がわたくしの家を訪ねてきてくださった、甘い表情でわたくしの作品を評してくださった、決して忘れ得ぬあの時の出来事。

『半井氏、来訪』

 初めて、わたくしは日記の中であの方のことを『師匠』と呼ばなかった。まるで小説関連の師匠などではなく、旧知の……或いは、隣近所に住む人間であるかのように。

 思えば此の時から、或る種の予感があったのだろうか。

 今度こそ、もう二度とあの方に御逢いできないのではないかという、確信にも似た悲しい予感が。


    ◆◆◆


 ――ひゅう、ひゅう、

 自らの喉奥から漏れる、呼吸音が耳に障る。息をするのが辛いのは、もう随分前からのことであった。

「姉様、水を」

 妹が、枕元に湯呑を置く。床から起き上がるほどの力もなくしてしまったわたくしの代わりに、妹はわたくしの痩せた身体を支えて起こすと、湯呑をわたくしの口元まで持ってきて呉れた。

 痛みを通り越した喉は、氷を飲み込んだようにひやりと冷たく、空気が入っただけでもひりひりする。傾けられた湯呑から口内に温い水が流れ込んできて、少しだけ楽になった。

 妹の助けにより如何にか起き上がると、医師より処方された、効くのかどうかもよく分からぬ粉薬を飲む。粉末が喉に引っかかるだけで咳込んでしまうのは、流石に辛かった。

 眉を下げ、背を擦って呉れる妹の手つきは、何時ものように優しい。

「……少し、御休みに為られるとよう御座いますわ」

 妹は何時ものようにそう言い置くと、空になった湯呑を持って部屋を出て行った。呼応するように、ゆっくりと瞼が降りる。

 ――ひゅう、ひゅう、

 耳につく呼吸音、ひりひりと痛む喉。どれ程空気を求めようとも、決して満たされぬ肺。


 わたくしの身体は、労咳(ろうがい)に侵されていた。


 わたくしの病気について、診断を呉れた医師が「此れ以上は……」と匙を投げたのは、もう三月も前のこと。

 共に暮らしていた母と妹だけでなく、離れて暮らしていた姉や其の家族、又我が家から独立していた次兄など、わたくしと血を分けた親族たちが続々と我が家に集められた。大勢が集まる其の前で、医師はわたくしが――樋口(ひぐち)奈津が、不治の病に侵されていることを告げたのだ。

 母や姉は泣いた。姉の家族や其の他の親類は、皆わたくしを憐れむような目で見た。次兄はわたくしから遣り切れなさそうに目を逸らし、妹は唯耐えるように唇を噛んで俯いていた。

 わたくしは唯、其の光景を至極他人事のように見つめていた。

 ――わたくしは、もう直ぐ死ぬのだ。

 そう頭では分かっているのに、不思議と悲しみも絶望もなかった。恐怖すらも、感じなかった。人間、実際に此のような命の危機的立場に立たされると、逆に冷静に為るらしい。

 診断を受けた直後、わたくしは直ぐさま我が家の布団に寝かされることとなった。身体に障るからと起き上がることを許されず、最初は窮屈ささえ感じたものの、病の影響か日に日に体力が落ちていき、今では寧ろ誰かの助けがなければ起き上がれぬ程衰弱してしまっている。

 日が経つごとに咳が止まりにくくなり、息をするのさえ辛くなってくる。

 いっそ死んでしまった方がましなのではないかと思うような……そういった苦しみとは、つまり斯ういうことなのかと、苦しみながら尚もわたくしは他人事のように思う。

 其れまで粗毎日のように続いていた咳に、何時の頃からか血が混じってきた時、わたくしは其の時点で自らがもう助からぬのだということを既に悟っていた。医師の診断にさして衝撃を感じなかったのは、其の為だ。


 死ぬことが怖くないわけでは勿論ないし、此の世に未練がないわけでもない。どちらかというと、寧ろ未練しかない。

 自分で言うのも何だが、わたくしはまだ若いのだ。其れに……樋口家の長としても、『一葉』という一作家としても、まだまだしなければ為らぬことは山程ある。

 其れ等を全て放り出し、わたくしは逝かなければ為らぬのか。

 自らの負った責任。遺される家族、そしてわたくしの作品を待って呉れている人々……其のようなことを思うと、口惜しささえ感じる。

 其れに……。

『また貴女の新作を拝読できますこと、楽しみにしております故』

 誰よりも愛おしく、尊いあの方が去り際に仰った言葉。

 あれは、わたくしを一作家として認めてくださったということに他ならないだろう。かつて小説の書き方を学んでいた師匠に、光栄にも太鼓判を押して頂けたのだ。

 あの方が期待してくださった、新作を書きたい。

 けれど起き上がることさえも叶わぬ此の身では、もう一文字も書くことは出来ない。筆を持つことは愚か、文机の前に座ることさえも叶わぬ身であるというのに。

 ――嗚呼、何て口惜しい。


 母と妹が、揃ってわたくしの枕元へとやって来た。目を閉じてはいたが、気配と物音で手に取るように分かってしまう。

 目を開けるのも億劫であったが、力を込めて瞼を持ち上げた。

 ――ひゅう、ひゅう、

 喋ろうとするけれど、口から漏れるのは情けないほどの呼吸音だけ。

 せめて其の存在だけでも感じていたいと、ぼやける視界の先に手を伸ばせば、其の手をしっかりと掴まれる感覚があった。

 母か、妹かは分からない。唯、女人の影であるとしか判別できない。

 温かく柔らかな其れを、く、と握りしめる。力は粗込めることが出来なかったが、わたくしのしようとしたことが分かったのか、掴んだ手も又呼応するように、く、と力がこもったのが分かった。

(……母様、邦子)

 声を出すことが叶わぬので、口の動きだけで名を呼ぶ。

 走馬灯とでもいうのだろうか、此れまで出逢い、関わってきた全ての人たちの姿が、次々と脳裏を過ぎった。

(父様、ふじ姉様、虎兄様、泉太郎兄様……)

 父と長兄の泉太郎は、既に亡くなっている。故に記憶が多少薄らいでいる筈なのだが、如何いうわけだか此の時は姿がはっきりと思い出され……わたくしに向けて、微笑んでいるような気さえした。

(歌子先生、竜子様、夏子さん……緑ちゃん)

 学問所での思い出や、吉原近くで店を開いていた時のことも、次々と思い出される。決して楽しいことばかりではなかったが、総括してみればどれも此れも良い経験や想い出と為り、わたくしの糧と為った。

 わたくしの作品を評価して呉れた鴎外先生や露伴先生の姿も、自らの生み出した作品と共に思い起こされる。嗚呼、未だろくな恩返しもできていないのに。

 けれども……いけないことだと、赦されないことだと知っていながらも、やはり一番強く想い起されるのは。

(……(きよし)、さん)

 心の中で繰り返し叫ぶ、愛しき其の人の名。決して口には出せなかった、あの方の真実の名……。

(冽さん)

 目の淵から、温かいものが一滴流れるのを感じる。流れ落ちた其れは、掻き上げられた髪の生え際にじわりと染み込んだ。

(冽さん)

 貴方は今、何を為さっていますか。少しでも、わたくしを思い出してくれる日は在りますか。

 わたくしは……今まさに、貴方のことを考えております。

 此のような気持ちも、貴方は御存じないのですね。我が儘とは分かっていますが、其れでも少しばかり恨めしく思いますよ。

 ……でも。

(冽さん)

 此の世で誰より愛おしい、貴方。

 決して口に出来なかった此の想いを、わたくしは真実に墓場まで持って行かなければ為らなくなってしまいました。

 ――唯、願わくは。

 此れから先、ほんの一瞬でもいいから、貴方がわたくしのことを思い返してくださいますように。

 わたくしのことを、覚えていてくださいますように。


 わたくしは、小説を遺して行きます。

 時間はかかりましたが、どれも此れも、貴方の御蔭で形に為った作品たちです。

 気紛れにでも、読み返して頂けますよう。


 ――明治二十九年十一月二十三日。

 樋口一葉(本名・奈津)、肺結核により死去。享年二十四。

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