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黒貌

作者: 霧咲悠

 僕は、自分以外の人間を見たことがなかった。別に監禁されているだの、無菌室で飼育されているわけではなく、普通に生活している。だが事実だ。きっと僕は世間一般、常識、普遍的な観念に当て嵌めてみれば間違いなく異端なのだろう。

 誰も彼も、全て真っ黒な影にしか見えないんだ。ぼんやりとした輪郭をもった黒いかたまり、そこから生える四本の細長い棒が「腕」と「脚」という名称なのだと知ったのは、小学校にあがる少し前の頃だったろうか。

 当時幼かった僕は、どうしてそれの呼び方が上下で違っているのか分からなかった。どう見たって四本とも同じような棒なのに。僕はそう質問して、「母親」だという黒い影を困らせた。


 だけど、どれだけ目を凝らしても、何度見ても。

「――見えないんだよ」

 僕の呟きに、目の前の影が首を傾げた。表情なんて見えやしない。僕の中にある人間の顔は、いつも鏡の向こうから僕を無感動に見つめる、表情のない僕だけだった。


 僕が初めて自分の姿をしっかりと確認したのは、「父親」に抱えられて洗面所の鏡を覗いたときだろうか。言葉も達者になり、腕と脚の謎についてもとりあえず納得していたような歳だった。

『ほうら、鏡って言うんだぞ。分かるか、今俺に抱えられて手を伸ばしているのがお前だよ』

 父にそう教えられ、僕は目を瞬いた。鏡にうつる黒いかたまり、それが「自分」だと認識した途端、靄が晴れるように影が散っていった。色彩が宿り、初めて見る人間の姿に、僕は酷く困惑していた。それまでにも鏡を見る機会は何度となくあったはずだ。しかしそれでも見えるのは黒い影で、まさかソイツが僕自身だなんて微塵も考えたことはなかった。

 鏡越しに見る自分の姿に感動を覚えることはなかったが、それでも少なくない驚愕と興奮があった。腕と脚の違いが分かり目や口がどこにあったのかも知って、直接手を見ても影がないことに狼狽えた。それまで風景しか色つきで見えなかったのに、初めて人間にも色が乗っている。目を見開き口を開け放している僕に気分を良くしたのか、父は楽しそうに抱えたままの僕を揺すった。彼の姿は相変わらず黒いままだった。

 この瞬間から僕には「個性」が芽生え、真っ黒な人間の群の中から弾き出された孤独な生活が始まったんだ。


『やっぱり、俺たちの姿も見えないのか?』

「……うん、ごめん」

『謝ることはないよ。でも、不思議だなあ。君はちゃんと目を見て話してくれるし、私は全然違和感なんて感じないのに』

「慣れてるから。むしろ自分だけイレギュラーみたいで怖いよ」

 二人の影は、僕のことを遠ざけずに親しく接してくれる。だから僕も、ちゃんと頭のある位置を見据えて言葉を返す。僕としては、今も昔も変わらず壁に向かって話している感覚なのに、彼らにしてみると僕はどうやら誠実な対応をしているように見えるらしい。

 片方の影が携帯を取り出すと、宙に掲げた。パシャっと音が鳴る。人間以外ならたとえ携帯でも、ちゃんと見ることが出来るのにな。

『これ俺だけど、今撮ってみた。どう、見える?』

 彼がずいと突き出した携帯の画面には、コンクリートの床と黒い影が。影に掴まれながら、その画面に影を写している携帯は、それだけが色鮮やかで酷く異質だった。

「ダメ、見えないよ」

『そうかあ……残念』

 いけると思ったんだけどな、と彼は呟く。それを視界から外しつつ、僕は空を見上げた。屋上から見る空は雲ひとつない天気で、それが余計に影の黒さを際立たせていた。


『不気味な子!』

『なんだよコイツ、気味悪いな』

『近寄らないでよっ』

 僕に対しての風当たりが強くなってきたのは、いつ頃からだろう。もしかしたら、生まれたときから既に歓迎されていなかったのかもしれない。

 僕が読み書きも拙い子供の頃は、ちょっとくらいおかしくても疑問に思われず、許されていたのだろう。だけど時を重ね、多少は分別のつく年頃にもなると、他の連中と僕との差が顕著に現れ始めた。

 小学校の授業で、クラスメイトの似顔絵を描けと言われた。僕は特に深く悩みもせず、見えるままを描いた。真っ黒に塗りつぶされた画用紙を見て、どうやら僕の相方の子が泣き出したらしい。先生がすぐさま飛んできた。

『何ですかこれは! ちゃんと真面目に描いたのっ?』

「うん、僕はちゃんと描いたよ」

『嘘おっしゃい、どの口がそんな事を言うの!』

 本当なんだけどな。書き直しを命じられ、僕は再び黒一色に塗られた画用紙を差し出した。そしてその度に書き直しを命じられる。何度も同じことを繰り返すと、やがて先生は画用紙をくしゃりと握り潰して、甲高い声で癇癪を起こした。

『いい加減になさい、何度言っても分からないのね! こんなの幼稚園で描くモノよっ。私は似顔絵を描きなさいと言っているのが聞こえないのかしら!』

 ぶるぶると激しく震えヒステリックに喚き散らす影は、突然腕を掲げると僕の頬を叩いた。左の頬がひりひりと痛み、熱を帯びる。ふと慣れない感覚に頬を撫でると、少しばかり濡れていた。どうやら目から流れているようだ。左目をぐしぐしと擦ると、僕はもう一度先生を見上げた。

 もしかしたら、無表情で涙を流す僕に怯えたのだろうか。彼女は短く悲鳴を上げると、今度は反対から僕の事を叩いた。咄嗟の事で受身も取れず、ごんと鈍く大きい音を立てて僕は倒れた。叩かれた右の頬よりも、頭を机の角に叩きつけられた方が痛かった。朦朧としながらも立ち上がるが、顔の感覚があまり無く、左右で違っているのが気持ち悪かった。左ばかりが腫れ上がって重いので、今度は右も思い切りぶつければいいのかななどと思いつつ、痛む顔をさすった。ぬるっとした感触に驚いて、手を目の前に出すと赤黒く染まっていた。

『な、なんで……そんなに平然としてるのよ、気持ち悪いわね……不気味な子!』

 取り返しの付かないことをして焦りを感じていたのか、もしくは開き直っていたのか。先生は吐き捨てるように言い放った。周りの子達は既に遠巻きに僕らを眺め、ひそひそと囁きあっていた。

 僕は表情一つ変えずに、先生に尋ねた。

「先生、手洗った後拭かなかったの? 僕の顔まで濡れちゃってるよ」

『そ、それはあなたが泣いてるからでしょ!』

「泣いてる……って、何?」

 自分以外の人間の顔など見たことも無かった僕は、「泣く」ということについて恥ずかしながら知らなかったのだ。だけどその時の僕は愚直に問いかけ、あまつさえこんな事も口にしたのだ。

「それと、この赤いの何か、先生知ってる?」

 その一言で、とうとう先生の理性が途切れたようだった。僕が血に濡れた手を差し出して一歩近付くと、先生は悲鳴を上げて後ずさりした。

『い、嫌っ! 化け物、来ないで、近寄らないで、いやああああっ!』

 クラスメイトの誰かが呼んだのか、もしくは悲鳴を聞きつけたのだろうか、別の先生が駆けつけると喚く先生を引っ張ってどこかへと連れ出した。他にもぞろぞろと先生が入って来たが、誰もが僕の姿を見て悲鳴を上げていた。……そんなに酷かったのかな。

 そこからは意識を失ったようであまり覚えていない。

 次に目を覚ましたのは自宅だった。父と母にはもう自分の体質のことを話していたので、悲嘆に暮れたり絶望的な我が子の本質に錯乱することもなかった。しかし表面上は僕の怪我を心配するようではあったが、明らかに前よりも露骨に僕と距離を置くようになっていた。話を聞くだけでは半信半疑だった両親も、学校から伝え聞いた顛末と持ち帰った画用紙を見ればきっと信じざるを得なかったのだろう。


 空を眺めながら苦い思い出話を終えると、僕は視線を二人に戻した。

『うわあ……なんつーか、その、やっぱり大変だったんだな』

「そうかなあ。ああ、傷跡は今も残っているんだ、ほら」

 髪を掻き上げて額の端を見せると、二人は息を飲んだ様子だった。もう既に完治した傷跡だが、そんなに驚くほどではないだろうに。手を下ろすと僕は続けた。

「親は学校にいろいろ文句を言ってくれたそうだよ。だけど実際のところ僕がおかしな奴ってのが原因だから、あまり声を大きくしては言えなかったんだろうね。結局その先生はいなくなって、とりあえずオシマイだったよ」

『それにしてもさ、本当に泣かなかったの?』

「泣いたよ、涙はずっと流れてた。だけど他人の顔が見えないから、表情とか感情、喜怒哀楽ってのが分からなかったんだろうね。唯一見える自分の顔だって、感情表現の仕方が分からないから参考にならないし。痛くてもどういう表情をしたらいいのか、根本から理解してなかったんだと思う」

『なるほどー、それで君はいっつも表情を変えなかったんだね。私はすごく落ち着いてるなってくらいにしか思ってなかったよ』

「今の話以外にもいろいろ苦労したことはあったよ。たとえば写真撮る時とか。はい笑って、なんて言われても笑い方が分からないのにさ。苦労したよ」

 彼らは最初から今まで、真摯に僕の話を聞いてくれている。この先も話すべきだろうか。怯えられてしまうかも知れないな。どうしよう。少しばかり躊躇っていると、続きを促された。

『にしても、そんなに大変だといつか爆発するんじゃないか?』

「……君の言うとおりだよ、今はもう大丈夫だけどね。一時期、荒れていたこともあったんだ」


 学校へ復帰した僕は、何事も無かったかのように生活をしようとした。しかし初めは距離をとっていたクラスメイトも、いつしか危機感が薄れていったのか今度は好奇に満ちた態度で寄って来る様になった。ぞろぞろと、真っ黒な影に取り囲まれ、僕の視界は真っ暗になる。

『よお、お前って目が見えないの?』

「……見えなくはないよ」

『でも人のことが見えないんだろ』

「うん」

『うわっ、まじかよ。気持ち悪いなー』

『あ、じゃあさじゃあさ、今から俺がどんな顔してるか当てて見せろよ』

「……真っ黒。分からない」

『ぎゃはは、本当なのか。おもしれーっ』

『嘘ついてるんじゃないの? 目立ちたいだけでしょ』

『それにしても全然表情変わらないね、なに考えてるの?』

「帰ったら何して遊ぼうかな、とか?」

『うわ普通』

『んだよ、つまんねえの』

 やがて気が済んだのか、みんなはまた集まった時のようにぞろぞろと散っていった。僕の視界がクリアになり、知らずため息をついていた。

 時は流れ、僕は中学に上がっていた。と言っても地域のいくつかの小学校から進学する人間が殆どのようで、顔ぶれはあまり変わらなかったらしい。……僕にはまるで関係の無い話だけれど。

 その所為か僕の噂まで後を追うようについてきて、別の学校から上がってきた連中が目新しい餌に食いつくのは難しいことではなかった。

『なあなあ、ダチから聞いたんだけどさ。お前って変わり者なんだって?』

「別に」

『んな冷たい反応すんなよ、なっ。でさ、何が変なんだよ』

「何でわざわざ教えてやらなきゃならないのさ。邪魔だからそこ退いて、前が見えない」

『あ? テメェ調子乗んなよ、オイ。つーか無表情で気持ち悪ぃな、何とか言ってみろよ』

 急に影が迫ってきた。上へ下へと視線を動かし、どうやら僕の事を睨み付けているようだった。しかし僕からしてみれば、黒い影が必要以上に頭をカクカクさせているだけにしか見えず、滑稽千万、まるで出来の悪いちゃちな人形でも見ているような気分だった。

『あー、ガン飛ばしても無駄だぞ。ソイツ、人が見えないんだってさ』

『人が見えない? 意味分かんないんだけど』

『そのまんまの意味だよ。人間が真っ黒な影にしか見えないらしい』

 新たに加わった人は、どうやら僕と同じ小学校だったようだ。詳しい話を聞いた目の前の奴は、可笑しそうに体を揺すっている。

『はっ! 人間が見えないとか何それ、訳分からねぇよっ』

 見下すような声色と共に、僕の肩をどんと小突かれる。突然のことにバランスを崩して数歩後ずさりし、後ろにあった机にぶつかった。

「痛いよ」

『……眉一つ動かさないとか、本当に変な奴だな』

 立ち直ろうとした僕に、再び影が迫ってくる。弧を描いて動く棒が脇腹を打った。蹴飛ばされた僕は勢い良く尻餅をつき、後頭部を机にぶつけてしまった。……あの時と似ているな、とその時の僕は思っていた。

『こんくらいで泣いてんのかよ?』

 僕の髪を掴んで、引っ張り上げる影。それでも僕の表情は変わらなかった。内で渦巻くものは確かにあったのに、それをどう表わせばいいのか分からない。

「……そう。僕、今泣いてるのか」

『は?』

 あれから少しは理解することが出来た。泣くのは悪いことだ。感情的な意味ではまだ理解してはいないが、少なくともこの状況は無抵抗でいるべきではないだろう。

 僕を掴む腕を剥がそうとするが、そう簡単には外れない。では、と僕は黒い影の真ん中を狙ってみた。力いっぱいにぶん殴る。鳩尾に当たれば重畳、とにかくこの忌々しい影が離れればそれで良い。

『ぐぅッ?』

 反撃が来るとは思っていなかったのだろうか。無防備な胴体に拳が吸い込まれるように入った。残念ながら鳩尾は外したようだが、腹部への攻撃を受けて相手がよろめいた。髪を掴む手が離れる。自由になった僕は、手近な椅子を持ち上げた。

『ってーな、調子こいてんじゃねえよ。一度痛い目見るか、オイ?』

「もう痛いのはごめんだね」

 そう言って振り下ろす。僕が椅子を掲げていたのに気付いていなかったのか、今更のように悲鳴が聞こえる。

 泣くというのがどういうものかは分からない。この時の涙は単に、痛みの所為で流れる反射的なものだったのだろう。だが僕の認識では、泣く時の感情はあまり歓迎しない感情らしいから、自分に涙を流させる対象は自分の敵と判断してもいい、というものだった。

 ただこの時の僕はそれだけではなかった。それまで何度となく繰り返された『化け物』『気味が悪い』という言葉にいい加減耐えられなくなり、目の前の影に絡まれたことで限界を迎えていたようだ。

『ひィっ! やめ、やめてくれ! 俺が悪かったって、謝るぐふっ』

 ひたすら椅子を振り下ろす。最早殴り続けることに躊躇はなかった。コレは人間じゃない、ただの影だ。人間は僕だけだ。全員同じ人間だと言うのなら、何故僕以外のみんなは黒いんだ。

 悲鳴が聞こえる。今僕の前にいる奴なのか、周囲に居る奴らの悲鳴かは分からない。全部同じに見える。全て、全て同じ影だ。個性なんてない。一つ潰したって何も変わらないだろう? 影はみんな同じ。コイツは僕の敵だ。それなら全部僕の敵だろう。どうせコイツらは人間じゃなくて影なんだから、いくつ倒したって問題ないさ。

 タガが外れたように、僕は頭の中で呟き続ける。罪悪感による言い訳でもなければ、自分を正当化している訳でもない。ただの再確認、今までしっかりと考えていなかっただけだ。周りは全部影ばかりで、それが人間だという証明を僕は得ていないじゃないか。群がる蝿と同じだ。黒くて喧しくて数が多い。蝿を振り払ったところで困ることは何もない。

「真っ黒な……影のクセに! 僕に、何を、求めているんだっ!」

『もうやめなよ! ねえってば!』

 気付けば足元に転がる黒い影はぴくりとも動かなくなっていた。後ろからいくつかの影に押さえられ動きを止められる。鬱陶しい。僕は椅子で背後の影を叩き飛ばした。

 漸く誰も寄って来なくなった。椅子を下ろして教室の隅に固まる影を一瞥する。体を見下ろすと、何故か赤く染まっていた。洗わなくてはいけない。

 教室を出ようとしてふと足元を見ると、さっきまで影だった奴が人間の姿をしていた。目を見開いて蹲る姿は、僕とは少し違っているが似たような構造をしていた。爪先で蹴飛ばすが反応がない。……やっぱりコイツは人間じゃなくてモノじゃないか。

 水道を見つけて制服を洗おうとすると、壁にある鏡に気付いた。僕の制服は真っ赤に汚れ、その表情は……初めて見る、歪んだ顔だった。歯を剥き出しにして食いしばり、目はこちらを睨み付けている。鬼気迫るその姿に、自分自身とはいえ思わず一歩下がってしまった。

 怒り。それが僕がついに得た、最初の感情だった。


 話を終えると、知らず力が篭っていたのか深いため息が出た。二人の様子はというと、予想以上だったのか、体を少し仰け反らせていた。

「……やっぱり、驚くよね」

『ま、まあね。その……影に見えなかった人っていうのは、やっぱり死んじゃってたから……だよね?』

「恐らくね。まあその後の僕は先生に取り押さえられて、状況を聞かれたりしたよ」

『それで、その後は?』

「いろいろあったけど、そこは省いて、最終的にどこかの施設に入れられたよ。精神病院……ではないと思うけど」

 コンクリートに鉄格子、なんてそんな殺風景な部屋ではない。そこの施設では普通に生活できる部屋で、僕は人並みの生活をさせてもらえた。

「それからは……まあ、平穏な生活をしていたかな。おかげで学校での学年はひとつ遅れているけどね」


 施設で監視されるような生活を続けて一年。相変わらず黒い影に囲まれて過ごしていたけれど、僕はもう再び周りが見えなくなるなんてことはなかった。寮長のおかげだ。

 そこの施設の寮長は、僕の事を何かと気にかけてくれていた。他の人には凡そ信じられないであろう僕の身の上話を真剣に聞いてくれたし、毎日鏡に向かって表情の練習をしてくれた。

 初めの内は影に触られるのも嫌だったので、彼女が近付くたびに暴力を振るっていたと思う。しかし次第に距離を縮め、寮長は閉じ篭った僕を部屋の外へと連れ出してくれたんだ。

『ほら、こうやって口の端を上げるの。にぃーって』

 僕の顔を好き勝手に弄って、寮長は鏡越しに表情というものを教えてくれた。自分の姿しか見えないという話を聞いてから、僕を使って色んな表情を見せてくれた。

『違う違う、そんなに顰めちゃ獣みたいで怖いよ? 怒るばかりじゃ疲れちゃうでしょう』

 僕が唯一覚えた表情を繰り返していると、寮長はそれを止めさせた。そうして目尻を下げたり、口の端を引っ張ったりと、他の表情を無理矢理作らされる。

 半年も繰り返していると、漸く僕も表情を作れるようになった。多少引き攣ってはいるけれど、それでも大分自然になったと思う。悲しいときは泣き、腹が立てば怒り、楽しければ笑う。意外だったのは、嬉しい時にも泣く場合があるということだ。ロボットのように表情と感情の関係を覚えた僕だったが、そこだけはどうしても分からなかった。

 一年が経って、僕は学校に戻ることを許された。そんなすぐ戻しても大丈夫なのかと、どこか冷静に俯瞰する自分もいたが、寮長から絶対に大丈夫だというお墨付きを貰った。彼女と一緒にいたのは一年間という短い時間ではあったが、もう母親よりも親しい関係になっていたと思う。寮長だけは、いつの間にか真っ黒な影から灰色の靄がかかった姿に変わっていた。目を凝らせば薄っすらとだが、本来の姿が見えるようだった。それも日を重ねるごとに晴れていった。

 最後の分かれの日、寮長は僕を抱きしめてくれた。僕も彼女を心配させないよう、精一杯笑顔を浮かべる。やっぱりまだぎこちなかったけど、それでも寮長は『よく出来たね、頑張ったね』と頭を撫でてくれた。最後に僕は、寮長だけが真っ黒な影ではなく鮮明な姿で見えるようになったことを伝えた。すると寮長は涙を流し、俯いてしまった。

「……悲しいの? ごめんなさい」

「ううん、悲しくなんかないよ、嬉しいの。君もいつか、他の人と同じように暮らせるようになるんだって思ったら、つい……」

「じゃあ悲しくないのに泣いてるの?」

「うん、嬉し泣きっていうんだよ」

 確かに、寮長が最後に見せた涙は悲しい色をしていなかった。涙を流しながら見送ってくれた寮長の姿を、僕は絶対に忘れないと思う。だって彼女は、僕の世界にやってきてくれた二人目の人間なんだから。


「寮長の姿が見えるようになってからは、彼女の表情も参考にしていたんだ。だから表情を作るのにもすぐ慣れたよ」

『表情を作るって言うと……なんだかあまり良い響きじゃないなあ』

「そうかな?」

『……影じゃなくなる方法とかって、分からないのか? やっぱり俺は、このままお前にその他大勢扱いされるのは寂しいんだ』

 身を乗り出して、訊ねてくるクラスメイトの影。学校に戻ってからも結局上手く馴染めず、お昼を屋上で食べていたところにやってきて、僕に話しかけてくれた男の子だ。一緒にいる女の子は彼の幼馴染らしい。僕にはそういう身近な存在がいないから、少しばかり羨ましかった。

「どうなんだろう。今までで影が無くなったのは僕と寮長だけだから……」

『そっか……俺、お前と友達になりたいんだけどな。真っ黒なままじゃ無理かあ』

 一瞬。ほんの一瞬だけだったが、彼の姿が掠れた気がした。瞬きをする間に元に戻ってしまったが、確かな違和感があった。

『でもまあ、話を聞けたし良かったよ! 俺のこと見分けるのは大変かもしれないけど、それでも何かあったら、これから頼ってくれよな』

「あっ、ま、待って!」

 まただ、また輪郭がぶれた。何かもう少しで分かりそうなんだけど……

『ん、どうした?』

「今少しだけ、影が晴れそうだったんだ」

『本当か!?』

 凄い勢いで肩を掴まれる。思い出すんだ、僕と寮長の例、今の会話。どうすれば影が晴れる……?

 もしかしたら。

「ねえ……僕とさ、友達になってくれるかな?」

『え? お、おう。全然構わねえぜ、大歓迎だ』

 影の輪郭が少しだけはっきりし、灰色がかってきた。――もう少し!

「友達、じゃあダメだな。親友になってほしい」

『え?』

「ここまで話を聞いてもらったし、何より君と仲良くしたいんだ。頼っても、良いかな?」

『……へっ、任せな!』

 どん、と胸を叩く彼の姿。影が、散った。

「あ、あぁ……」

「あれ、どうかしたか?」

「……み」

「み?」

「見える! 君が見えるんだよ。影じゃない、ちゃんとした姿で……!」

 胸が締め付けられ、息が詰まる。今すぐにでも絶叫したい気分だ。三人目。黒貌の他人が、その姿を現した。

「影じゃないって……本当かっ? やったぜ!」

 彼は僕の言葉に目を丸くし、まるで自分のことのように一緒に喜んでくれている。本当に良い人だ、自分なんかには勿体無い……と考えて、打ち払う。そんな彼が、僕の差し出した手を取ってくれたんだ。それを自ら卑下して遠ざけるなんて愚かしいにも程がある。たった今、頼ってもいいと言ってくれたばかりじゃないか。

「それにしても、どうして急に見えるようになったんだろう? 俺、なんかしたっけ」

「親友になるって、僕の支えになってくれるって言ってくれたじゃないか」

「そんなことで良かったのか?」

「僕にしてみたらすごく大きなことだよ。ありがとう」

 彼の言葉で僕は、もしかしたら「影をなくす」条件があるんじゃないかと考えていた。……思い当たる節はある。というよりも彼の影が晴れた時点で、既に薄っすらとではあったが推測のようなものはあった。

「ねえ、君も……親友になってくれないかな?」

 愚直でおこがましく、なんて不躾な発言だろうと思う。しかし僕は僅かに射した希望をおめおめと手放すつもりはなかった。たとえ無様に縋ってでも、この体質を治す糸口を見つけて証明しなくては。

『……うん、良いよ。これから、私も君と親友だからね』

 僕の思いとは裏腹に、彼女もまた快く許可をしてくれた。影が音もなく散っていくのと同時に、柔らかな笑みが現れる。ああ、これが本当の笑顔なんだろうな。

「どうかな?」

「うん、君の影もなくなった……ちゃんと、見えるよ!」

 彼女の笑みに自分も微笑み返そうとするが、頬が引き攣って一向に表情が変わらない。くそ、どうしてこんな肝心な時に出来ないんだ! 笑え、笑うんだよ!

 必死に口元を引き上げようと、まるで下手な一人芝居のように悶えていた僕をみて、彼女がおもむろに手鏡を取り出して、僕に向けて突き出した。

「ふふ、これが今の君の顔だよ」

 鏡の中の僕は、何故か意に反して涙を流していた。

「そんな、どうして泣いて……いや、違うんだ、悲しくなんてない! 凄く嬉しいのに、どうして泣いてるんだよ。ごめん二人とも、泣くつもりなんて……」

「好きなだけ泣けって、今まで辛かったんだろう?」

「謝らないで良いんだよ、それはきっと嬉し泣きだから」

「嬉し泣き……?」

 これがそうだというのか。あの日寮長が涙を流したように、僕もまた悲しくないのに泣いているのか。これが感情ってものなのか。涙は拭っても拭っても、次々と溢れてくる。


『なあ、お前っていつも喋らないよな。もしかして喋れないの?』

「……そうじゃない」

『あ、なんだ話せるんじゃないか』

『いつ見ても静かに座ってるから、まるでお人形さんみたいだよね』

『えっ人形? お前それは流石にないかな』

『そうかな、ないかなー? あっ、本人を前にして失礼だったよね、ごめんなさい!』

 施設を出てから三年。地元から遠く離れた土地に引っ越した僕は、高校に上がると波風立てず平穏な日常を送っていた。なるべく人と会話をせず、最低限の会話でも自分が異端者だと悟られないように細心の注意を払った。そのおかげか僕の日常は、平和でありながらも味気ないものとなっていた。

 そんな中、昼の休み時間に話しかけてくる影が二つあった。僕はいつも通り端的に答える。素っ気無い反応を受けて、今まではみんな二言三言話して去って行ったのだ。今回もそうなるだろうと思っていたが、何故かこいつらは僕の前を去らずに二人で勝手に会話を始めた。

「……何か用でも?」

 幾分か温度の下がった声で問いかけるも、二人の様子は変わらなかった。ふと脳裏に、四年前の出来事が蘇る。中学一年だったあの頃。僕を異端扱いして絡んでくる奴らに、僕は半狂乱になって椅子で殴りかかっていた。今から思い返してみればあの影も人間であるはずに違いないのに、あの瞬間の僕は理性のヒューズが飛び、目に映る影をモノとしか見ていなかったのだ。それから近づく影を拒む時期があったが、施設に入って自分の行いを後悔し始めてからは影は全部敵だという敵愾心よりも、僕がまた人を殺してしまうのではないかという自分自身への恐れへと変わっていた。

 寮長のおかげで過剰な反応をすることはもうないが、それでもあの記憶は今も尚僕の心に深い傷跡を残している。

『おーい、聞いてる?』

 嫌な思い出に飲み込まれそうになっていたところ、僕を呼び掛ける声で現実に戻ってきた。気付けば真っ黒な影は眼前まで迫っている。僕の顔を覗き込んでいるようだ。考えていた内容が内容なので反射的に突き飛ばしてしまいそうになったが、どうにか堪えた。数回瞬きをして応答する。

「ごめん、聞いてなかった。それで何の用かな」

『だから屋上に行って、一緒に昼飯食おうって言ったの』

「……昼飯?」

『そ、お前と話してみたいって前々から思ってたんだぜ?』

「僕は別に話したいなんて」

『今日だけでいいからさ、一緒に食べようよ。私も君のこと気になってたんだー』

「そうは言っても……」

 僕がいくら断っても、どこまでも食い下がる二人。厄介な相手だ。無視して振り切れば角が立つし、これは諦めるまで耐えるしかないのか。

 しかし僕自身この日常に退屈していたからなのか、次に僕の口から出た言葉は自分でも意外なものだった。

「いいよ、分かった。屋上に行こう」


 声も出さずに一頻り泣き続けた後、僕はやっと泣き止んだ。

「……自分で言っておいて何だけれど、やっぱり口頭で親友になるっていったって意味無いよね」

 涙を拭った僕は、姿勢を正して言った。

「だから、これから仲良くなっていきたいと思うんだ。――よろしく」

 二人とも、それぞれ頷いてくれた。「親友」という特別な関係になって、僕の目にも彼らが見えるようになった。しかしそれは僕の頭が認識した表面上だけの関係だろう。

「別にそんなこと考えなくたって、俺は別に構わねえけどな。でもまあ、よろしく」

「うん、ありがとう」

「えっと、どういうこと? 私たち親友になったんじゃないの?」

 彼女が困惑した様子で首を傾げた。僕の言っていることは、一方から見れば随分とおかしな内容に聞こえるだろう。しかし、このままでは僕の気が収まらない。親友っていうのは、口約束や契約を経て結ばれる関係ではないはずだ。

「もちろん親友だよ。だけど僕は二人のことを何も知らないから。これから沢山知っていって、本当の意味での親友になりたいんだ」

 上手く伝えられたかは分からない。初めて出来た友達で、どう接したら良いのかすらまだ手探りの状態だ。

 僕に見える影は人との繋がりを表しているのではないかと、いつ頃からか思っていた。影がなくなった二人とは、きっとこれから先もずっと関わって生きていくのだろう。……もし彼らと疎遠になり、繋がりが絶たれてしまったら。その時はまた影に包まれ、誰が誰かも分からない人の海に紛れてしまうのかもしれない。

 だから僕は、この手にした繋がりを決して切らない。そう易々と絶ってしまうものか。

「ねえ、私も少し考えたんだけどさ」

 彼女が唐突に言った。二人の視線が彼女に集中する。

「君のことや寮長さん、私たちの影が晴れた時って、君にとってのなにか特別な『個性』が生まれた時じゃないかな?」

 何を言い出すのかと、僕は軽く首をかしげた。それがどうかしたのか、と。

「自分自身を認識した途端、君は自分の姿が見えるようになった。掛け替えのない大切な存在になった寮長さんも影がなくなった。私たちも、親友っていう関係になって影が晴れた」

 彼女の言葉が頭に浸透していくのと同時に、僕の推測が確実な物へとなっていく感触があった。言い知れぬ高揚感と期待に揺さぶられる。

「だったらさ、君の両親や他の人だって、ちゃんと個性を認識したら影じゃなくなる……と思うなー、なんて」

 最後は断定するのが照れくさかったのかおどけて見せた彼女だったが、僕は勢いよく立ちあがり、掴み掛からん勢いで叫んだ。

「それだ、それだよ。やっぱりそうかもしれない!」

 前々からそんな漠然とした予想はあったんだ。しかし確実な方法が分からないのと、もし失敗した時の落胆を考えるとなかなか試すことができなかった。

 だが彼女が今、背中を押してくれた。それに彼ら二人が既に証明をしている。

「……ありがとう。僕、やってみるよ。影に囲まれた生活を終わりにできるかもしれない!」

「おう、ガツンとやってこい!」

「頑張ってね!」

 人と関わる機会は無数に存在する。家や学校、道ですれ違う人まで様々だ。真っ黒な影に見える人が、「その他大勢」……他人なのだとしたら、僕は影の散った人を増やして、その繋がりを大切にしていきたいと思う。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 周りの人が影に見えるなんて発想が面白いと思いました。 確かに個性を認識しなければ、皆同じ人に見えますよね。 大切な人を増やすって考えが良いですね。
2014/07/09 01:09 退会済み
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