2章-3 襲来
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「「「「「いぃいいいいっやったぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっっ!!」」」」」
安堵し弛緩し、油断し切っていた全身に、万物を容赦なく劈く声が襲いかかってきた。
何気なく漂ってくる声さえもが、実は空気の振動であることを身体で理解させられる。肌という肌が総毛立つほどに、全身が震えているのだ。寄せ集まり縒り集められ、1個の兵器として完成された声の塊によって。
しかし、肉体の痛みは気にならない。鼓膜が爆ぜ飛びそうなのも我慢できる。
重篤だったのは、精神の方だ。
くる? どこに? ここに?
逢魔時音が、この教室に?
よりにもよって、俺がいるこの教室に?
事態も現実も呑み込めないまま、状況は勝手に進められていく。俺1人を除き、何故か盛大に盛り上がっている38人を眺め、遠乃先生はにやりと笑った。
狙った通りのリアクションを引き起こした、玄人の顔だった。
「んじゃ~はいってきてください死~。あ、ちなみにふたりともじょし死ので~、やろ~どもはそののぶといていおんぼいすを、さっさとひっこめる死。みみにもこころにもどくなの死~」
冷たい罵言を飛ばしながらも、先生の表情から笑みが消えることはない。
転入生を静粛に迎え入れろ――――そういう合図と確信したうちのバカ共は、揃って口を噤み、そわそわと席に着いた。クラス内に立ちこめる、妙に酸素の薄い空気には、多分窒素よりも多くの『そわそわ』が含まれていることだろう。
落ち着かない。
落ち着けない。
無論、俺がなにをどうしたって、無情な現実はなにも変わりはしない訳で。
やがて、やけに見覚えのある少女が。
人形のように端正な顔をした少女が、得意げな顔をして入ってきた。
「んじゃ~じこしょ~かいなんかど~ぞ~死~」
「任せなさいっ。なにを隠そう、わたしは自己紹介以上に得意なものがない女よっ」
自慢にならないことを、さも偉そうに語るその声に、俺は激しく聞き覚えがあった。
具体的に言えば、昨日の、そう夕方。下校途中。
妙な城が建っている空き地の前で、俺は、そいつと出遭ったのだ。
走馬灯の如く駆け巡る記憶を――――しかし、そいつはアホみたいな爆音で、吹き飛ばしたのだった。
「初めましてっ! わたしは逢魔時音っ! 趣味は夜行列車の解体と、超人的なスキルの開発っ! 改造人間になりたい人がいたら、札束を全身に巻き付けてわたしの下へ来なさいっ! 以上っ! 質問があるなら血文字で書けっ!」
「「「「「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」」」」」
クラス中が、完全なる沈黙に包まれた。
……無理もない。事情を知らなきゃ、俺だって閉口しただろうさ。事情を知っている今は閉口どころか開いた口が塞がらず、あの電波と袖を振り合って多生の縁ができていること自体が恥ずかしかった。世間様から隠れんばかりに、腕を組んで机に突っ伏す。
ダメだこりゃ。
流石に、ここまであれな自己紹介にツッコめる奴は、この教室にはいなかった。
っていうか、せめて猫を被ってくれていればよかったものを。何故わざわざ素で来たんだよ。そして本格的に、俺に対して猫を被っていたのはなんだったんだよ。
意味不明の極みだな、こいつは。
「…………え~、というわけで~まずはおうまときねさん死~。つづきまして~」
うん? 続きまして?
あ、そういえば2人いるんだっけか、転入生。
もしかしたら、逢魔とは無関係の、そう、一種の清涼剤になってくれるような人かも知れない!
淡い期待を胸に、俺は教室の前方を注視した。
最初に目に飛び込んできたのは、昨日見たのとほぼ同じ、奇妙な格好をした逢魔だった。変更点といえば、黒のワンピースが黒のセーラー服に変わった程度で、相変わらずマントは身につけている。鉛筆の輪郭をなぞるかのような、あの変わった髪型も、まったくもって変わりなし。何故か瞳は日本人らしい黒一色になっているが…………カラーコンタクトか?
そして、その傍ら。
「ん~…………むにゅ……」
逢魔の矮躯に寄りかかるように。
いや、いっそ凭れかかるように。
というか、語弊を恐れず言ってしまえば、逢魔に抱きつくように。絡みつくように。
そんな風にしながら、こくりこくりと船を漕ぐ、そんな少女の姿が見えた。
………………っていうか、もう完全に寝てる。
熟睡していらっしゃる。
体重は8割方、逢魔に任せてしまっているのだろう。膝を曲げ、爪先しか地面に触れていない筈なのに、まだ倒れることなく、その場に立ったままだ。姿勢的にはしゃがんでいるが。
しかし、きっと誰も、彼女のそんな有様など気にしちゃいない。男子も女子も揃いも揃って、クラス中が少女に見惚れていたのだ。
「……………………おぉ……」
その証左が今、誰かの口から溜息となって漏れた。
背丈は、まぁそこまでではない。逢魔より頭1つ分くらい高い程度だ。問題なのは、だからその容姿である。
病的なほどに白い肌。
雪をまとったかのような、細く長い白髪。
冬の精を思わせる彼女が着ると、途端に背徳的な印象を強めるセーラー服。
そしてなによりも、その胸。
子どもの頭部ほどの大きさはあろうかという、巨大なバスト。
形も完璧で、男子は勿論、女子までもがみんな残らず、彼女の胸を凝視していた。
そんな不躾極まりない視線に晒されながらも、少女は、すやすやと夢の中を泳いでいる。腕やら胸やらで圧迫された逢魔が、潰れてしまいそうになるのも構わずに、ひたすらに安らかに。
「…………あの~」
「……氷芽香、心がパンゲア並みに広々としているこのわたしが、せめてもの情けで言ってあげるわ。起きなさい、10秒でいいから」
眠り続ける少女に、遠乃先生は珍しく、困ったように声を上げる。
いつもなら、全員揃ってにやにやするところなのだが、その慣例は、逢魔の声で掻き消された。表面上は笑っているものの、心の奥底は氷点下にまで冷え切っているだろうその言葉は――――しかし、少女を眠りから覚ましはしない。
「……………………」永遠よりも長い5秒が。
「………………」地獄よりも深い3秒が。
「…………」闇黒よりも暗い1秒が。
「……」流氷より冷たい0.5秒が。
「…………あっそ」
そして、絶望よりも重い0.5秒が、それぞれ過ぎた。
しめて10秒。
10秒間、逢魔時音は耐えたのだ。
それは、そんなことは、余人からすればどうでもよ過ぎる、凄くも素晴らしくもなんともないことかも知れない。実際、俺だって10秒程度我慢したことなんか自慢しないし、逆に10秒しか我慢できなかったことを恥じるだろう。
だがしかし、俺たちは皆残らず思い知る。10秒という数字が、逢魔にしては驚異的なものだったということに。
「…………氷芽香ぁ――」
すぅ、という音が聞こえた。
これから風船でも膨らまさんかというそれを合図に、教室は3度、耳を塞ぎたくなる轟音に包まれた。
「――いいっ加減に起きやがりなさいよこのボケがぁっ!! その乳肉削ぎ取って焼いて食わすぞゴラァッ!!」
怒号っていうか、軽く怒轟。
横に『※この子は女子高生なんです』みたいな注意書きがないと、逢魔が同級生だという事実を忘れてしまいそうだ。迫力だけならば、遠乃先生に勝るとも劣らない。
「んにぃ…………とき、ね……?」
教室中が静まり返っている中、不意討ちのように鳴り響いた叱責に、流石の少女も薄く目を開いた。
瞼の隙間に小さく覗くのは、サファイアのように輝く青い瞳。しかし、少女の表情はまだ物憂げで、眠気を抑えられてはいないようだった。
「……にぁ、ほやすみ…………くぅ」
「寝んな起きろ背筋伸ばせ胸は引っ込めっ! 自己紹介くらいテキトーに済ませなさいよわたしみたいにっ!」
テキトーだったのかよ、あのぶっ飛んだ自己紹介(爆)。
……なんて、落ち着いて見てもいられないか。
幸い、逢魔たちのキャラがぶっ飛び過ぎている為、他の奴らは混乱している。だから気づいていないんだろうが――――なんとなく、俺には分かる。
生まれた時から、境界を操る能力を持っていた俺だ。その手のことには、他人より鋭敏であると自負している。
空気。
より正確に言えば、水蒸気。
露点という境界を越え、水蒸気が水へと変わっていくのが、感覚で分かった。
まぁ、窓の外に結露が大量についているのも見た上での、総合的な判断だが。
――教室内の温度が、下がってきている。
多分これは、逢魔たちと無関係ではないだろう。そうなると…………嫌な予感しかしねぇなぁ。
「いいから一瞬っ! 一瞬だけ起きなさいそして名前くらいは――――」
「……うー……うるさい、ぉ……」
不機嫌な声と、振り払うように動かされる細腕。
ひょっとしたら、そんな些細なことが不味かったのだろうか。異能を有する俺たちみたいなのには、何気ない一挙手一投足すら許されないのだろうか。
ふとした拍子に腕を振れば、それだけで境界を生成してしまう、俺みたいに。
「――――っ」
パキンッ、と、どこかで音がした。
小さく乾いたその音と共に、異変は起きる。
いきなり、突然、何故だろう、理由は分からないけれど――――転入生2人の、その頭上に。
天井からぶら下がっていた蛍光灯が、まるまる落ちていったのだ。
「――っ!?」
「……ほぇ?」
2人は事態を認識できず、凍ったみたいにその場で固まっている。
クラスメートや、先生だって同じことだ。時間まで凍りついてしまったように、誰1人動けない。
蛍光灯は重力に従って、真っ直ぐに2人の頭上へと――
「――――だぁああっ!!」
――落とさせるかバカ野郎がっ!
「っ、えっ!?」
時音の驚いたような声が聞こえたが、この際そんなことには構ってられない。
俺は、時音と少女に向かって、思い切りタックルをかましたのだ。
それもジャンプしながらというおまけ付きで。
フライングボディアタック。
助けるにしたって、もうちょいまともな方法はあっただろうに。
……まぁ、しょうがないよな。
お前らに怪我させる訳にもいかねーし、俺が怪我する訳にもいかないし。
折衷案としては、そこそこだろう。
ガッッッシャァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアンッッ!
今日聞いたどんな音よりも大きく、そして鋭く痛々しい轟音が響いた。
膝をつき、辛うじてその場にしゃがみ込む姿勢を保っている、俺のすぐ後ろから。
軽く目線だけを遣って見てみれば、誰もいない教壇のすぐ傍で、蛍光灯がバラバラに砕けていた。破片もほとんど飛んではおらず、被害は最小限で済んだっぽい。
はぁ、やれやれだ。
勝手に身体が動いちまった。
「え……あ、お、い、え、あ……」
「……怪我、ないみてーでよかったな、転入生」
気が動転しているのだろう、まともな日本語を忘れてしまった逢魔が、ぱくぱくと口を動かしている。それに対する俺の応答は、勿論、知らぬ存ぜぬだ。
昨日のことなど、懐かしめる状況じゃないし、久闊を叙する関係でもない。
俺はただただ、人として当然のことをしただけのクラスメート。
ズボンについた埃を払い、自席に戻ろうとする。
「…………あ」
と。
2人に背を向けた俺の学ランを、誰かが弱々しく引っ張ってきた。
特別力むでもなく、ただ歩いているだけで振り解けるような非力だ。無視してもよかったし、多分、無視するのが正解だったのだろうけれど。
俺の脳味噌は、酷く簡単な作りをしていて。
子どもが縋ってくるようなその力に、思わず振り返ってしまった。
「……………………」
「………………ども」
ひょい、と手を挙げたのは、逢魔にしな垂れかかる少女だった。
長い白髪の向こうからでも、宝石顔負けの輝きを持つ瞳の焦点がばっちり分かる。目と目が合ったのを意識すると、不思議と胸が熱くなった。
緊張?
もしかして俺、目が合っただけで緊張してんのか?
自問自答する暇すら与えてくれず、少女は今にも寝てしまいそうな声で続けた。
「……私……大紅蓮、氷芽香…………らしい、ぉ? ……うー、氷芽香と呼べー…………くぅ」
大紅蓮氷芽香。
と、どうやら名前らしき固有名詞を吐き出すと、少女は再び、いつ覚めるとも知れない眠りへと没入していった。
――――こうしてこの日。
元から波瀾万丈だった俺の高校生活に、更にハリケーンが4つほど、追加されることとなった。
…………身がもつ気がしねぇ。