2章-2 転校生
†
「今日は惜っしかったよなぁ。久々に僕もフル参戦したし、今回こそ礼儀の命を取れると思ったんだけど――――あぁ、気づいてたか? 僕、ずっと礼儀に向かって色々撃ってたんだぜ? 対戦車用ロケット榴弾とか」
およそ50分遅れ、9時ジャストに始められたホームルーム。
隣の席に座る該斗が、快活な笑みで話しかけてくる。俺は応える代わりに、逃走中いつの間にか袖に突き刺さっていたカッターナイフを、差し出された手の平目掛けて振り下ろしてみた。
「おっと、危ない」
だが、該斗は大して危険なんざ感じていないように、ゆるりと手を引っ込めてしまった。
平然としてやがんなぁ、こいつ。
せめてもう少し申し訳なさそうな面しろよ。
「まぁそうかっかすんなよ。禿げちまうぞ?」
「ついさっき今し方殺そうとしてきた奴相手に、どうやってへらへらしろっつーつもりだよ赤青砥該斗くぅん? 悪いがなぁ、俺の器は精々芦ノ湖クラスなんだよ。勝手に太平洋レベルを求めんな眼球抉り出されてーか」
「毎年毎月毎週毎日、欠かさず行ってきた恒例行事にケチつけんなよー」
「毎年まで許可した覚えはねーよ」
いや、どれ1つ許可した覚えなど皆無なのだが。
俺が、今を時めくスーパーアイドル、境界坂聖儀の弟である事実は、今や全生徒に知れ渡っている。そしてその結果、俺は全校生徒から命を狙われているのだ。
…………おかしな話だろう? 誰だってそー思う。俺だってそー思う。
被害者である俺には理解不能な理屈なのだが、どうやら連中は、俺が聖儀姉さんの弟であることが、どうしても許せないらしい。その所為で、俺は毎朝、登校直後にこのような襲撃を受けるのが慣例になってしまった。
一見無法地帯でしかなかったあの戦場だが、一応、最低限の規則程度はあったらしい。曰わく、『境界坂礼儀を襲うのは、1日1回、朝の始業まで』『教職員に阻まれたら、そこで終了』だそうだ。
そもそも殺人が立派過ぎる違法行為なのだが、何故誰もそこにツッコまないのだろう。
先生たちも慣れてしまったのか、『もう勝手にやってろよ』的な空気になっている。時間が来れば止めるべく努力はするが、それまでは皆、我関せずの姿勢を貫いているのだ。
…………訴えたら、確実に勝てるレベルだよなぁ? これ。
あまりにも規模がでか過ぎて、イジメって感じはまるでしないけど。襲ってきた奴らも、朝の時間以外じゃ普通に友達だったり、クラスメートだったり、先輩だったり同級生だったり、無関係だったりしている訳だけど。
糾弾しようって気になれないのは、俺があまりにもお人好しだからかね。
「まぁ期待してなよ。流石に88ミリ砲はもう使えないけど、あれを上回るコレクションだって、星の数ほど有り余ってるんだ。明日こそは礼儀、お前の命を完膚なきま――――でべげっ!?」
朗々と語っていた該斗が突如、額をなにかに弾かれ、盛大に仰け反った。
後ろにはなにもない、教室の最後尾であるこの場所で、仰向けに倒れなかったのは不幸中の幸いだろう。俺としては、倒れてくれても一向に構わなかったのだが。
寧ろなんで倒れなかったんだよ。
「うるさい死よ~」
と、残念がっている俺のことさえ戒めるように。
のんびりとしている癖に、どこか物騒な響きを含んだ声が、教室内に静かに轟いた。
聞きようによっては、俺たちと同じような、年若い学生が発しているとさえ思える声だ。しかしどこか有無を言わせぬ気迫があり、経験の違いをそこはかとなく感じさせる。あと、一部だけが酷く流暢なのが、正直かなり怖い。
ふと、視線を床に落としてみた。
恐らく、該斗の額にぶち当たって砕けたのだろう、粉々になった白のチョークが、煤けたクリーム色の床を染めている。
「ただでさえ、あなたたちのばかさわぎでじかんがおしているん死。ちゃ~んとはなしをきかないと、ぜんしんちょーくまみれにしてやる死よ~?」
「……前々から思っていたんだけど、遠乃ちゃん、君って教師だよね? 先生なんだよね?」
インド人みたいに額の1点だけを赤くして、該斗が分かり切ったことを訊ねている。
田寺野遠乃、先生。
声や姿は若々しく、とても20歳過ぎには見えないが、これでもれっきとした先生である。ふわふわのウェーブがかかった髪。華奢な身体とは対照的に、程よく膨らんだ胸。大人しそうな垂れ目。子犬のようなその容姿は、世の男共を惹きつけてやまない。
「うるせ~死ね~。ひんむかれて、ぜんしんにひわいならくがきされたいん死か~?」
……が、性格は見ての通りである。
短気、凶暴、ある意味見境なし。
その姿と口調に油断して、なめて突っかかってきた男子生徒数人に、『きょういくてきしど~』の名の下、トラウマレベルの制裁を加えたという事件は、今でもクラスメートの語り種である。多分この人、素で人を殺せると思う。
「あんまりむやみに、くらすめ~とをころそうとしないでください死。あとしまつが、めんど~なん死よね~、まったく死」
そこはせめて、殺されかけている俺を気遣ってくれよ。
口には出さないものの(出したら今度は、黒板消しが投擲されそうだし)、取り敢えず目では訴えてみた。…………欠伸で目ぇ閉じやがった。
受信拒否かよ。
今更だが、なんて教師だ。
「さ~て、ばかあおとくんはほ~っておきます死が~」
教師として許されざる名前の呼び方だった。
もじるにしたって、またえらくストレートな…………小学生かよ、あの人。
「せんせ~たちのじょ~ほ~と~せ~がかんぺきなので~、あんたらせいとのあいだでも、うわさにすらなっていないよう死が~――――じつは~、このがっこ~にてんにゅ~せ~がきました死よ~」
遠乃先生の突然な発表に、教室は一瞬、完全なる静寂に包まれた。
40人近い学生が、全員黙ったのだ。
あんまりにも遠乃先生が平然と、いつもの些事と変わらないようなテンションで言ったものだから、理解が追いついていないのだろう。ネタばらしをされている俺を除いて、クラス中の誰もが、ぽかんとした間抜け面を浮かべている。
だが、それはほんの一瞬に過ぎず。
「「「「「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっしゃぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっ!!」」」」」
火山が噴火したような、けたたましい叫び声が教室を支配した。
約40人、男女入り乱れた集団絶叫だ。遊園地にでも行かなければ聞けない大音量に、俺は思わず耳を塞いだ。
それでも、手の平をすり抜けて、声が鼓膜を襲ってくる。頭がぐらぐらするような心地さえして、教室から酸素が急激に失われていくのがよく分かった。
まさか、三半規管と肺を同時に攻められるとは、夢にも思わなんだ。
勿論、歓喜の叫びを上げるその他大勢は、他人の耳など心配しちゃいない。隣の該斗なんて、それこそ大砲みたいな爆音を、喉だけで見事に奏でていやがる。
きっと、1年生の教室は大体こんな感じなのだろう。扉だけならまだ分かるが、机や床までもが揺れているように感じられる。まるで小規模な地震である。
…………これ、逢魔や美々夜にとっちゃ、プレッシャーになるだろうなぁ。
なんなんだ、この転入生への異常な期待。
「はいは~い。わきたつのはわかります死けど~、そろそろうるさい死よ~」
とはいっても、矢張り期待と恐怖なら、恐怖を優先させるのが人間というもの、いや、生物というものの性である。
間延びした遠乃先生の声が、聞こえるか否か、そのギリギリの境界を見定めた音量で響いてくる。最後尾の俺にまで言葉が届く頃には、天災レベルだったクラスの喧噪も、しん、と水を打ったように静まっていた。
その様を見て、遠乃先生は嬉しそうに笑みを浮かべ、生徒は示し合わせたかのように息を吐く。まぁ、誰もわざわざ肉食獣を怒らせたいとは思わないしな。逆鱗にはギリギリ手が届かなかったらしいので、暫定セーフである。
遠乃先生、本気でキレたら天災レベルじゃ済まないもんな。本物の天災みたいなものだ。
「うきあしだつのがはえ~ん死よ~。このくらすにくる、な~んて、ひとこともいってない死よ~」
表情とは裏腹に、凄く面倒臭そうな口調で言う遠乃先生。
無論、そんなことを言われては、生徒共のテンションはだだ下がりである。他のクラスに転入生が来たところで、なにも面白いことなどない。自分たちのクラスに来るのだから楽しいのだ。土台、1学年300人超もいるのだから、他のクラスの人間など知らないのである。
誰か増えても、気づけなどしない。
――――と、まぁそんなところだろうな。落ち込んでいる奴らの心情。
来るのが逢魔や美々夜だって知っている俺はといえば、このクラスに来るなんてフラグがへし折られたのだから、気が楽で仕方ない。美々夜ならともかく、逢魔と同じクラスは勘弁してほしい。休み時間の度に、きっと詰め寄ってくるに違いないだろうしな。
「せんせー、じゃあどのクラスに行くんですー?」
「ぜんぶでよにん死から~、てきと~にふりわけました死~。きょ~みがあるなら、やすみじかんにでもあいにいくがいい死よ~」
誰かのやや沈んだ声に応えつつ、先生は教壇の中から、なにやらプリントを取り出した。
「え~っとぉ…………あぁ、よみみやみみよってこが~、にねんのごくみ死ね~」
不意に明かされた個人情報に、クラス中からまたもや落胆の溜息。
学年が上なんじゃ、絡む機会も少ないしな。
しっかし、あいつ俺より年上だったんだな。そりゃ、発育のよ過ぎる奴だなとは思ったけど。
「いちねんは~、さんにん死ね~。こんすいがはらましろってこが~、ななくみ死~」
延べだと何回目になるか分からない溜息。
窓際の誰かが気を利かせて窓を開けてくれていたが、空気より重い二酸化炭素は教室にしつこく居座り、重苦しい雰囲気で窒息しそうになってくる。項垂れた奴らが、時折思い出したかのように前を向き、また俯くのが酷く居た堪れない。
3人か…………思ってたより多かったけど、しかしそれでも、ここに来る確率は5割にも満たない。まして今、1人別のクラスに確定したのだから、来る確率はおよそ28%。そう恐れるような数字ではない。
どーんと構えてりゃいいんだ。どーんと。
「んで~、のこりのふたり死が~…………じつは」
「…………?」
意味深に、そこで台詞を切る遠乃先生。
…………ところで、世の中には『前振り』という言葉がある。あるよな? 煽ったり透かしたり、或いは『ないない絶対ない』とか言っておいて、本当はありました的なあれ。
後から思えば、俺はこの時、観客もいないのに勝手にピエロで。
来ない来ない来る筈がない――――そんな風に、無駄に前振りをしていたのだ。
遠乃先生がフラグを折ったんじゃない。
結果から見れば、俺が、フラグをおっ立てていたのだった。
「じつは――――ふたりとも~、うちのくらすにくることになりました死よ~」