1章-5 出会いのち別れ、時々再会
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「…………ただいま」
言っても返事が来ない挨拶を、習慣化した唇の動きが気怠げに吐き出す。
なんの変哲もない一軒家。よくある、木の風合いを塗装で出したような扉を開けた玄関で、俺はひんやりとした暗闇に迎えられた。おもちゃみたいな門扉も、その横に掲げられた『境界坂』という表札も背に回してみると、本当、俺は一人きりなんだと自嘲気味に思える。
父・境界坂行儀――――海外出張中。
母・境界坂寧々音――――親父に随伴。
姉・境界坂聖儀――――独立して一人暮らし。
そして、弟にして長男、この俺、境界坂礼儀。
一癖も二癖もある際物家族の中で――――異能を持っているのは、俺だけだ。
それを知っているのは、聖儀姉さん、ただ1人。
「…………飯……確か、インスタントラーメンならまだ、残ってたな……」
モヤシでも入れりゃ、問題ないだろ。
誰に言うでも宣言するでもなく、寂しい独り言を呟きながら部屋の奥へと進む。
1階の最奥にあるリビングには、テーブルに食器棚、そしてテレビがあって、暫定1人暮らしの俺が日常生活の大半を過ごす場所になっている。2階の自室へは、寝る時くらいしか戻っていない。やっぱり、多少なりとも無精の気がある人間がいきなり1人暮らしなんて始めると、部屋分けが否応なしに効率重視に組み替えられるんだろうな。他の1人暮らし連中を知らないから、テキトーなことしか言えないが。
鞄をテーブルの近くに放り、学ランのボタンに手をかける。本来の人数分ぴったり、4つある椅子の、その1つにかけられた寝間着を取り、制服とその位置を反転させる。
「……………………」
暗い部屋の中、黙々と着替えながら考えていたのは、ついさっき巡り会った、奇妙極まりない連中のことだった。
逢魔時音と、黄泉宮美々夜。
姉さん以外で初めて、俺の能力に気づいた人間。
…………思えば、俺は恵まれた環境に身を置けているのだろう。幼少期に、なにがあっても俺を見捨てることがあり得ない姉さんに気づいてもらえて、それ以後は、姉さんの庇護と監督の下で過ごしてきた。そのお陰か、俺自身は理不尽な処遇に悩むことも、不条理な仕打ちに喘ぐこともなく、平和に人生を謳歌している。
いくら最悪の事態を想定してはいても、それはあくまで想定で、所詮は空想と大差なかった。
だけど、あいつはどうなのだろう。
黄泉宮美々夜。
自分以外の異能持ちと出会ったのは、今回が初めてである。それも、俺なんかとは比べものにならないくらい、有り体に言えば人外じみた能力だ。
身体そのものを闇に変える――――RPGなら、ラスボスクラスの立ち位置を獲得していても不思議ではない。
それだけに、人にバレた時の反応は大きいだろう。
いっそ化物じみているとさえ形容できるあの異能が、もしも既に、周囲の人間に知られていたとしたら…………彼女は一体、どれほどの苦痛を負ってきたのだろうか。
逢魔の夢物語に賭けてみたくなるくらいに、追い詰められていたのだろう。
……勿論、俺だって逢魔の目的を否定はできない。もしも俺たちの異能が、なんてことのない、単なる特徴、体質、個性なんてところに落ち着けば、こそこそと隠れて生きることもない。友達や家族にまで、ずっと嘘を吐き続けているという罪悪感と背徳感から、やっと逃れることができる。
そうなれば、一体どれほど幸福だろうか。
「………………でも、結局は夢物語だ」
できっこないんだ、そんなこと。
安全に囲まれ、安穏に生活してきた俺だが、それでもただ漫然と生きてきただけではない。姉さんの尽力もあって、結果的に今までばれてこなかったものの――――けれどそんなの、所詮は結果論だ。能力を抑えることはできなかった訳だし、実際にバレていたとしてもおかしくはない、危ない橋は何度も渡ってきた。
それでなくとも、不安ではあったのだ。
自分の中に、得体の知れないなにかがいるようにさえ思えて。
自分の不可思議な能力の原理はなんなのか、俺は必死で解き明かそうとしてきた。生物学に心理学、挙げ句の果てには催眠術や神話まで研究対象にして、奇々怪々な境界の能力を理路整然としたものに変えようとしてきた。
利口な方ではないけれど、それでも必死に努力していた。
それでも、分からなかったのだ。10年に亘る研究と探究は、通知表の数字くらいにしか影響を与えはしなかった。
最近はもう、すっかりめっきり諦めてしまって、なるべく考えないようにさえしている始末だ。
「…………さ、飯だ飯」
考えていても仕方がない。
済んだことだし、終わったことだ。
このまま隠し続け隠し切って、墓場まで秘密を持って生きればいいだけだ。
今まで通り、今まで通り。
誰しも秘密の1つや2つ、胸に抱えて生きているものだ。
俺の場合、人よりその秘密がでかいだけ。
儚い夢想は、拙い夢は忘れちまおう。
取り敢えず考えるべきなのは、2週間を1000円ちょいで生き延びる方法と、それから飯だ。
「えー……っと……」
寝間着に着替えた俺は、リビングのすぐ隣にある台所へと、吸い込まれるように入っていった。
コンロが3つ、流し台、その奥に冷蔵庫がある、広いとも使いやすいとも言い難い台所。シンクの下段に作られた収納庫から、醤油ラーメンを2つ取り出す。
「あと、小さい鍋か…………確か、上の方の棚に……」
そう呟いて、俺が手を伸ばした、その時だった。
流し台の上に取り付けられた棚。
その観音開きの扉が、手で触れるその前に、独りでに開いたのだ。
音もなく、酷く軽やかに。
『なんだ、夕食かい? 自炊とは立派だねぇ、あたしらなんかはてんでダメさ。辛うじてできる真城ちゃんに、みんなまる投げさね』
上からでも下からでも右からでも左からでも前からでも後ろからでもない、強いて言うなら頭の中に直接響いてくるような声。
フィルターを通し尽くしたかのような、くぐもって個性の見えない声。
そんなお化けみたいな声に、俺は一つだけ心当たりがあった。さっき聞いていたばかりの声だ、間違える筈はない。
「……そっか、ほんの欠片だけでも、俺の身体にくっつけたままにしとけば、ついてくることは可能っつー訳だな。お前はあくまで、闇っていう気体なんだから」
『異能慣れしているっていうのは、どこかつまんないねぇ。折角の謎解きパートが、盛り上がらないじゃないかよぉ』
不満げな声が、流し台のすぐ横から聞こえてきた。
見れば、そこには黒々とした靄みたいなものが集まって、なにやら小さな人形みたいな姿を形成しようとしていた。…………成程、拡散している時は全方位から声が響いてくるが、集束している時には普通の人間と話すのと、大差はないって訳ね。
異能もこうして分析してみると、色々見えてくるものがあるんだな。…………まぁ、今でも俺の決断は変わらないけど。
「名答名答ご名答。賢いっていうのは、時に罪深いとは思わないかい? 礼儀少年」
「少なくとも、勝手に人ん家までついてくるよりは、清く正しく潔白だと思うがね。黄泉宮美々夜」
「美々夜、だけでいいよぉ。その内、舌ぁ噛んじゃうかもだぜ?」
間延びした声でそう言うと、今度こそ、黄泉み――――もとい、美々夜は俺の目の前に姿を現した。
「…………!?」
だが、それを見た時、俺は本当に驚いた。手にしていたラーメンを、まとめて床に落としてしまうくらい驚いた。ばきん、と鈍い音がしたところから見ると、きっと麺は粉々に割れているだろう。今日のラーメンは、レンゲをフル活用して食うことになりそうだ。
何故驚くか? そりゃ驚くさ。
俺が知っている黄泉宮美々夜は、背が高く胸がでかくスタイルがよく、そして、目が覚める美しい金髪の少女だ。
なのに、目の前に現れたのは――
「んぅ? どうしたんだい、礼儀少年。顔色が悪いよ?」
「…………悪い、流石に予想できなかった」
つい正直に、俺は自身の至らなさを吐露していた。
フィギュアってあるよな? 秋葉原とかでよく売ってる、キャラクターを模した造形物。大きさや精度はまちまちだが、想定するべきなのは、3頭身くらいのちみっこい奴だ。小さく小さくデフォルメされた、食玩みたいなあれ。
簡単に言えば――
黄泉宮美々夜が、3頭身にデフォルメされた姿で、流し台の横に堂々と立っていたのだ。
「そりゃ、理屈で考えりゃそうなるんだろうが…………うわ、ギャップがあんまりにも酷い……」
「ギャップ? 萌えたかい?」
「萌えねーよ」
寧ろ引くわ。
キロ単位で引いたよ。
……前置きしておくと、俺は決してロリコンではないし、小さいものを病的に愛するなんて性癖はない。だから、これが俺の妄想が生んだ幻覚だと思った奴は、顔面に爪先をぶち込んでやるからそのつもりで。
美々夜の能力は、自分で言っていた通り『身体を闇に変える能力』である。つまり、どれだけ拡散しようと集束しようと、闇はその粒子1つ1つに至るまで、黄泉宮美々夜そのものなのだ。
全体が黄泉宮美々夜であり、部分さえもが黄泉宮美々夜。
だから、闇のほんの一部だけでも俺に付着させておけば、その闇の分だけ、黄泉宮美々夜は増殖する。
きっと本体は、今もあの妙な城にいるのだろう。ここにいるミニマムサイズのこれは、謂わば分身という訳だ。
ちなみに、今度は下着姿、半裸ということにはならず、夜空のように黒いワンピースを身につけていた。…………この頭身で全裸だったとして、そこにエロスを感じるかは甚だ疑問だがな。
「しっかし、なんでいきなり出てきたんだよ。そこまで俺を引きずり込みてーのか?」
鍋を取り出し、そこに水を入れながら訊いてみる。
市販されている定規と、ほとんど同じ身長であろう美々夜は、何故か興味深そうに鍋を見ている。…………料理風景が珍しいのか? なんか、家事はからきしとか言っていたと思うが。
どうやって生活してんだろ? こいつら。
逢魔も見た感じ、料理ができそうには見えなかったしなぁ。
「いやいやぁ、フられんのが上手いっつーのも、いい女の条件でねぇ。時音ちゃんは、まぁだしつこく執着しているっぽいけど。モテ期到来かねぇ、礼儀少年」
「特異体質目当ての奴にモテてもな」
「礼儀少年も、大概口が悪いよねぇ。それはさておき、あたしもね、用事もないのにわざわざこんな早いタイミングで再登場をかますことはない。空気が読めるっていうのも、いい女の条件さぁ。…………そう考えると、いい女っていうのは面倒臭いものだと思わないかい? 礼儀少年。あぁ、男とはなんて欲多き生き物なのだろぉ」
「そこまでどうでもいいことに、どうでもよく悩める奴は初めて見たぜ。…………んで、なんの用だよ。用があるならさっさと済ませて帰れ。何時だと思っていやがる」
「心配してくれるのかい? 優しいねぇ、礼儀少年は。けれど、あたしは処女膜くらい作り直せるんだぜー?」
「心配している訳じゃねーし、そういう問題じゃねーだろ」
大体、そういう場面になったら闇になって逃げろ。
至って普通の女の子には、襲ってきた不審者の股間を蹴り上げることを推奨する。男には、多分それが1番利く。
「見た目通りの優しい優男なんだねぇ、礼儀少年。なかなかに安心で、そこそこに不満だぜ。あたしのように魅惑の肢体を持つ女にとっちゃ、男の性欲を煽るのは、一種のステータスなんだけどぉ」
「食玩サイズの女子に欲情できるか。いいからさっさと」
「まぁまぁ、そぉんなに邪険にするもんじゃないだろうよぉ。裸で押し倒した仲じゃないかよぉ、ご相伴に預からせてもらっても、ちょっとは構わねーんじゃねーのぉ?」
…………要するに、帰る前に飯の1つくらいは食わせろ、と。
勝手に押し掛けてきた癖に、随分な要求をしてくる。盗人猛々しいとはこのことだ。
まぁ、人間は基本、胃袋の容量を超える量は食えない筈だし、こんなに小さい美々夜が大量の麺を食べることはないだろう。家計はかなりピンチだけど、いちいちそんなところまでケチケチするような、せこい人間性は有しちゃいないし。
しょうがない。
久し振りに、誰かと飯を食うというのも、悪くはない。
「……分かったよ。すぐ作っちまうから、ちょっと待ってろ」
「了解だぜー。任せなよ、待つことにかけちゃ、あたしの右に出る奴はあんまりいない」
「たまには能動的に動け」
いや、動いた結果がこれなのか。
前言撤回だ、一生待ってろ。