4章-3 消失事情
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「お待たせ」
「ふんっ、待ちまくったわよ」
憎まれ口を叩く時音の瞳は、しかし、強気な台詞とはまるで裏腹に、奈落にでも沈んでいるかのような色をしていた。
待望の飯が目の前にあるというのに、目を輝かせもしない。くすんだ視線が俺と、俺の持つ山盛り炒飯の器とを交互に見据え、それから俯くようにして下を向いてしまう。
……10日。10日間、俺はずっとこいつを見てきた。信頼にも確信にも、まるでまるで足りない時間ではあるかも知れないけれど、それでも俺は、時音のことをそれなりに分かっているつもりだ。
頭はいい。ずば抜けていい。優秀なんて言葉が陳腐に思えるくらいだ。
なのに、こいつはバカだ。どうしようもなくバカなのだ。常識なんて塵ほどもありゃしないし、考えもなしに突っ走る。猪突猛進を地でいく性格で、取り得といえば元気くらい。
そういうバカだから、放っておけないんだよ。
恨まれようと睨まれようと、お節介だろうと俺は、世話を焼いちまうんだ。
俺も、大概バカみたいだからな。
「…………なによ。早くちょうだいよ、お腹と背中がくっついちゃうわ」
なかなか器をテーブルに置かない俺に業を煮やしたのか、時音は急かすようなことを言ってきた。
よく見ると、既に手元にはレンゲが用意されている。食うことに関してだけは、異常に準備が早いのだ。やれやれ、食い意地の張った娘子である。
「腹が減っては戦はできぬって言うでしょっ! さっさとわたしを満腹にさせなさいっ! それが、この城でのあなたの仕事でしょっ!」
「…………なぁ、時音。お前、俺たちになにか隠してないか?」
「…………!」
威勢よく叫んでいた時音だったが、俺が問いを発した瞬間、目を見開いて絶句してしまった。
流石、聡明なことに懸けては右に出る者のいない、所謂天才である逢魔時音だ。今の俺の質問だけで、事態を把握できたらしい。
大した膨らみも表面積もない身体を、時音はぺたぺたと探る。やがて、目的のものが見つからなかったのか、どんよりとした曇り空みたいな目を俺へと向けてきた。
「……礼儀、あんた」
「勘違いすんな」空いた左手で、通帳をポケットから取り出しつつ、俺は言う。「これはお前が落としたもんだ。俺は、そいつを拾っただけだよ。生憎、俺にスリのテクニックなんざない」
「…………返しなさい。これは、雇用主としての命令よ」
「断る。これは、お前のクラスメートとしての拒否だぜ」
投げかけられた言葉をもじるようにして、俺はにかりと笑ってみせた。
時音は剣呑な目つきで俺を睨めつけてくるが、通帳という切り札を握られている所為か、忌々しげに歯軋りを鳴らすだけだ。視線の方向が泳いでいるのを見ると、どうやら苛立ちの対象は、俺1人ではないっぽいが。
「前々からな、不思議には思ってたんだ。こんな無駄に設備の整った城だったり、矢鱈と金がかかりそうな4人娘の生活費、食費だったりだって、一体どこから得てきてんだろうって――――ずっと、考えてたんだ」
「…………礼儀には、関係ないでしょ」
「関係ない訳あるか。俺はな、その金で食品買って料理作ってんだ。俺もお前も、美々夜も氷芽香も真城も、その金のお陰で生き延びてんだろ? だったら、俺は無関係である訳がない」
「……………………」
反論の余地がないという演算結果が出たのか、時音は悔しげに口を噤んだ。
まぁ、時音の言うところの『給料』とやらも、この通帳にある金から出してんだろうしな。反論に対する切り返しの準備はできているが、そこまで計算の上で沈黙を選んだとしたら、こいつは本当に、頭のキレる奴だよ、まったく。
「まぁ、俺が訊きたいのは金の出所なんかじゃない。そんなことより――――これだ」
言って、俺はおもむろに通帳を開いてみせた。
無数の数字と、そして文字とが羅列された紙面。その最後の行には、酷薄な事実が記されていた。
「お前が最後に口座から金を引き出したのは、一昨日のことだよな。お前がふらっといなくなったあの時だろうが…………記載を見る限りじゃ、その時点では口座にはまだおよそ5000万円もの金額が残されていた――――そうだよな」
「……………………」
沈黙。
しかし、首は微かに頷いている。今にも押し潰されてしまいそうな、泣き出してしまいそうなその顔は、ふるふると揺れて、震えていた。
「……是が非でも教えてもらうぞ、時音。こんなこと、普通ならあり得ないし、それに、お前一人の手に負えるものでもないんだからな――」
俺は言う。
俺は問う。
幼気な少女の心臓を抉るように、鋭く、切り込んでいった。
「――一体なにがあれば、5000万なんて大金が、2日の内に消えちまうんだよ」
ギリィ!
一層激しい歯軋りの音が鳴り響き、時音は表情を歪ませた。
通帳の最後には、『0』という数字が深々と刻まれていた。その寸前まで、およそ5000万の預金があったにも拘わらず、だ。
5000万円。
1万円札が5000枚、といったところで、その膨大さがピンとくる筈もない。ごせんまん、なんて5文字の組み合わせなど、今の今まで幻想のものだと思っていたくらいだ。
それが、たった2日の内に消えたのだ。
跡形もなく。1円玉1枚残さず。
「…………そんなの、訊いてどうすんの?」
「なんとかするんだよ。お前が困ってんなら、なんとかするのが義務だろう? 被雇用者としては」
「……まぁ、お金がなかったら、給金も出ないしね。それは確かに困――」
「アホか」
ぴんっ
弱い音と衝撃が、指から伝わってくる。
通帳を持ったまま、俺は時音の額を軽く小突いていた。それも、パチンコのように指を引き絞り、勢いをつけて発射する、所謂デコピンである。
そんな強くはやっていない。
それでも、今の時音には大層効いたようで、目を丸くしてこちらを見据えてきた。
「んなこと関係あるか、アホが。元々、俺はあと数日で仕送りがくるんだ、致命的に困窮しているっつー訳じゃねーんだよ。大体そんなのを抜きにしたって、ここの生活がピンチだってだけで、どうにかしようと思うには充分過ぎるんだ。…………10日間も人に飯作らせといて、んなことも分かんねーのかよ。本当にお前はバカだな」
「っ、だ、誰がバカよ誰が」
「関係ないとかほざく奴以外に、バカなんざいやしねーだろうが」
台詞を遮る勢いで言って、俺は時音のことを指さしてみせた。
……ったく、こっ恥ずかしい。こんなこと、わざわざ言わせんなよな。
「……なんで、なんで礼儀、そんなこと言って…………だって、わたし――」
「知らん。お前がなにをしたとか、どんな奴だとかなにがどうとか、そんなのは1つも知ったことかバカ野郎が」
弱音なんか吐かせるか。
俯くな似合いもしない。
俺の知っている逢魔時音って奴は、そうじゃねーだろ。
言おうと考えるだけでも、頬付近の血液が沸騰するように熱くなる言葉を――――俺は、なんの躊躇いもなく口にできた。
「俺はな、お前ら4人を家族みたいに思ってんだ。家族を助けんのに、いちいち打算が必要か?」
「………………!」
きっと、俺の言葉が止めとなったのだろう。時音の瞳からぽろりと、一滴の涙がこぼれ出た。
それは、止まることなど知らないようで、時音の頬を見る見る内に濡らしていく。だが、時音の表情は変わることなく、真っ直ぐな眼差しを俺へと向けてきている。
信じられないものでも見たかのように。
奇跡でも目撃したように。
「かぞ……く…………」
「っ……あぁそうだよ」遅れてやってきた気恥ずかしさから、俺は目を逸らして応える。「俺の作った飯食ってくれて、しかも俺の異能を、俺の魔法を知ってくれている――――まるで、姉さんと一緒にいるみたいなんだよな。気が楽なんだよ、お前らの傍はな」
あんまり認めたくはねーけどな。
姉至上主義の俺にしては、随分と心動かされたものだ。
「……う、あ、あ……れ……? わたし……なんで……?」
「…………言っとくけど、『助けて』なんて台詞は吐くんじゃねーぞ。俺は、お前を助けたくて助けるんだ。だからつまり、俺の勝手なんだよ。時音、お前は黙って勝手に助かってろ。……まぁ、俺になにができるかっていうのは、如何せん限られてくるけどな」
「…………うん、うん……」
ようやく涙を拭い始めた時音に、そっと炒飯の器を差し出してやる。
けれど、あれだけ欲しがっていた食事を、時音はなかなか口に運ばなかった。
笑い泣きみたいなぐちゃぐちゃの表情で、いつまでもいつまでも、なにか言いたげに口を動かしているだけだった。