4章-2 跫
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「ふぅ…………ようやく終わった。ったく、あいつら放っておくと、いつまで経っても部屋の掃除しやがらねーからなぁ」
土曜日、麗らかな昼下がり。
逢魔ヶ城中の掃除を1通り終えた俺は、食事用のテーブルに紅茶を乗せ、1人だけのくつろぎの時間を過ごしていた。
広い広いと思っちゃいたが、いざ掃除をしてみると、改めてその広大さを思い知らされたような気がする。掃いても拭いても片付けても、まるで終わりが見えないのだ。1種の拷問でも課せられている気にさえなってくる。
その上、各人に個別に与えられた部屋の様相が特に酷い。
あいつらの濃過ぎる個性を考えれば、その有様は容易く想像できる筈だ。しかもそもそも、あいつらの頭には整理整頓という言葉が入っていないらしく、趣味全開のその部屋は、片付けを放置した結果として、1種の魔窟と化していたほどだ。
1人の部屋に、およそ4、50分はかかった。
美々夜はゴミを片すのも面倒なのか、軽いゴミ屋敷みたいな部屋だったし。
真城の部屋は想像通り、時音たちの盗撮写真、及び各種エロ本(可愛らしい女の子がメイン)が揃っていたし。
氷芽香はといえば、…………いや、もうあれは片付けてないとかって次元じゃない。
彼女の部屋にあったのは、乱雑に脱ぎ捨てられた衣類一式。それと、巨大な氷塊だった。
あと強いて挙げるとすれば――――その氷塊の中ですやすやと眠る、氷芽香本人か。
…………寝るのは結構だ、一向に構わない。氷芽香自身の人生なのだから、飽くなきまでに好きに生きればいい。俺はそんなところにまで目くじらは立てん。
ただ、たださぁ。
寝る時だって、服は着ていろよ。
全裸で氷漬けになっている少女を見た時の、この俺の心境を考えてくれよ。剥き出しの巨乳に興奮するより先に、どんな猟奇殺人だよと肝を潰したわ。
……とまぁ、そんなこともあって、朝から掃除に勤しんでいた俺は今、疲労感と達成感の板挟みになって、紅茶を啜っているのであった。
「……俺がこの城に来てから、早10日か…………」
感慨深、くはないか。
頭に巻いた三角巾を取り払いながら、俺は誰に言うでもなく呟いた。
ちなみに俺は今日、掃除をするということで、それ相応の装備を家から持ってきている。ジーンズもTシャツも上着も、汚れたって構わないような古い奴だし、その上からエプロンまでかけている。いつもの黒一色な制服ルックと違い、清潔感溢れる格好なのだが――――それはそれとして。
閑話休題だ。
10日。
時音と初めて会った日を勘定に入れるなら、実に11日間。
それだけの期間を、俺は飽きることなく逢魔ヶ城で過ごしていた。
勿論学校には行っているし、というかそもそも夕飯を作ったら自宅に戻って寝ているので、過ごすという言い方自体、語弊にまみれているかも知れないが――――それでもしかし。
最初はあれだけ渋っていたというのに…………人間、短期間でも心変わりはするものだ。
夕食代や、昼の弁当代、あわよくば残り物で朝飯代も浮かせられるというのは大きいけれど。
やっぱり、俺はこいつらと一緒にいるのが楽しいのだろう。
ほとんどなにも気兼ねせず、隠し事をしているという後ろめたさを感じることなく、自然体で接することができるこいつらとの時間が、ただただ純粋に、楽しいのだと思う。
「……さて。時音が帰ってきたら、買い物に行かねーとな。…………晩飯、なににしようかねぇ」
今じゃこんなことを考えるのが、すっかり日課になってしまった。
まるで、デカい娘(身長のことではない。念の為)が4人も一気にできたみたいだ。そして、それを嫌だなんてまるで思ってない俺がいることが、最大の驚きである。
平凡で退屈で、ほんの少しだけ陰のあった、俺の日常。
しっちゃかめっちゃかに引っ掻き回す奴らの手によって、そこには今や、鮮やかな色が付けられているようでさえあったのだ。
…………まぁ、日常的に学校中の生徒から殺されそうになる毎日を、平凡やら退屈やらの言葉で飾るのも、どうかと思うのだけれども。
「それにしても……時音の奴遅いな。どこほっつき歩いてんだ?」
紅茶を1口飲んで、俺はそう1人ごちた。
割とよくあることなのだが、時音は時折、ふらっとどこかへ消えてしまうことがある。大抵は1時間もしない内に帰ってくるのだが…………今日はもう、3時間以上も外出したままだ。
…………そういえばあいつ、いつもどこ行ってんだろ?
気になる点は他にもある。土台、この城はどうやって造ったのか。研究資金や生活費はどこから出ているのかetc.
10日の間、俺はそれとなく訊ねてみたりして、色々探りを入れてはみたのだ。だが、時音からはいつもはぐらかされ、他の3人はまともに会話が成り立たない。結局、俺が知り得た情報量など、限りなく0に近いものでしかなかった。
……………………。
いやぁ、別に知らなくちゃならないとか、知っておかないとその後の人生に支障を来すとか、そんな大袈裟な問題ではないんだ。ただ、気になるなー、程度の興味で、だから、こんな好奇心じみたものは一生涯封印されていたって構わないのだが。
好奇心は猫を殺すって、どういう由来だったか忘れたけど。
…………なんか、隠し事されているみたいで、ちょっと物悲しいっていうのはあるかもな。
「……ま、あいつらは時音との付き合いも長いんだろうしな。…………流石に10日ぽっちじゃ、全幅の信頼を寄せるには足りないかね」
誰も聞いてないのをいいことに、自虐の言葉を吐き散らす。
万が一聞かれでもしていたら、多分、真城辺りは猛反論に打って出ることだろう。ただのエロ娘に見えて(実際8割方はそうなのだが)、仲間内の情には相当熱いからな、あいつ(あくまで2割くらいだが)。
まぁ、ヤバいことに手を出していなければ、それでいいか。
本当の本当に、退っ引きならない局面まで来てしまったら、遠慮なく頼ってくれればいいし。
女の子4人を助ける程度の力なら、持っているつもりだ。
…………自虐の舌の根も乾かない内に、随分と自信たっぷりなもんだな、俺も。
はぁ、もうよく分からん。
「…………ったく」
ジーンズのポケットから携帯電話を取り出し、時間を確認してみる。
昼下がりなどと嘯いてみたが、デジタルの時針は既に3の数字を指そうとしている。俗に言うお八つ時。部屋で死ぬほどだらだらしているあの3人には、まぁただの午後3時くらいにしか映らないだろうけど。
おやつを用意してやれる体力も、正直ないし。
それよりも気になるのは、時音のことだ。11時くらいには出掛けてしまっていたあいつは、昼を食べていないんだよな。朝だって、食っているかどうか微妙だし。
朝飯だけは、ここの連中に任せているからなぁ。
放っておくとこいつら、どこまでも不摂生を繰り返すのだ。
「……しょーがねぇなぁ」
残った紅茶を一息に飲み干し、俺は席を立った。
主な材料は昼で使っちまったが、まだ冷蔵庫にはいくらか食料が残っていた筈だ。掻き集めれば、時音の1食分くらいにはなるだろう。
夕飯まで我慢させるのも酷だしな。
「なに作ってやるか…………余り物といえば、やっぱ炒飯かね……」
そんなことを考えながら、俺は台所へと向かう。
思考回路が完全に主夫か、或いは家政夫だよな。それが別に嫌じゃないのだから、自分で自分が分からなくなる。ボランティアとかに勤しむ人間っていうのは、こんな気持ちで働いてんのかね。
尤も、俺は報酬を貰う予定ではあるから、ボランティアと同列には語れないだろうが。
――――と、そんな時。
『礼儀さ~ん、聞こえますか~?』
突然、部屋の中に声が響いたのだ。
気が抜けているのか気兼ねがなくなったのか、若干間延びはしているものの、丁寧な言葉遣いだけは変わらない。なにより、こんなことはあいつにしかできない。
逢魔ヶ城に組み込まれた、数多の機能。照明・加熱・冷暖房・施錠・放送器具etc.は、そもそもあいつ専用に作られているのだから。
「どうした? 真城。腹でも減ったか?」
『いえいえ、休日は家から出ないで済むので、存分にオカズを堪能していますから、お腹どころか胸までいっぱ――――って、なに言わせるんですか礼儀さんこのエロガッパ!』
罵倒している割には楽しそうに、昏睡ヶ原真城は的外れな応答をしてきた。
んー…………うん、取り敢えず腹は減っていないということで。それ以上の理解はない。
『あの、いえ、今し方、時音さんが帰ってきたんですけど…………』
「時音が? あいつ、ようやく帰ったか。腹減っているだろうから、すぐに俺んところに来るよう言ってくれ。軽食程度なら」
『いえ、その…………なんていうか、時音さん……すごく、機嫌悪いみたいで……』
「? 機嫌が? …………出掛け先でなんかあったのか?」
呟いてはみるが、時音の出掛けた先を知らない俺には、皆目見当がつかない。
それに、よくよく考えてみたら時音って、怒ったり怒鳴ったりするのが癖みたいな奴だしなぁ。そんなに気にすることでも――――いや。
それだったら、俺なんかよりよっぽど付き合いの長い真城が、わざわざ伝達してくる訳がない。
超好感度のマイクにスピーカーを駆使して、つまり、俺の元まで来る時間さえも惜しむようにして、伝えてくるなど…………なにか、火急の事態が発生したようにしか思えない。
『なんか、本当に分からないんです。怒っているっていうか、勿論それはそうなんですけど…………どっちかっていうと、悔しがっているとか、悲しんでいるとか、そんな感じです』
「……………………」
『はっきり言って、わたしはあんな時音さん、見たくないのです。全然そそられないのです』
「…………変態が言うんだったら、相当なんだろうな……」
大人しく弱々しく優しくて脆い――――そんな仮面をかぶった真性の変態たる真城が、そそられない。
変態性欲を刺激されない。
いよいよもって、時音の様子がおかしいのは確定的になってきたな。
……一体、なにがあったんだ? 時音――
「礼儀いるっ!? いるならなんか作りなさいっ! カルシウム多めの料理大盛りでっ!」
――と、不安が頭を過ぎるのを後目に、当の本人はいつも通りに喧しく、甲高い声で叫びながら現れた。
短く切られ、後頭部では獣の蹄が如く形作られている黒髪。
百合の花をそのまま衣服にしたような純白は、しかし、首から伸びる黒いマントによって覆い尽くされている。
そして、眉間に深々と刻みつけられた皺と、鋭く尖った目とが、彼女の怒りを如実に示していた。
逢魔時音。
この逢魔ヶ城の主にして、俺の同級生でありながら雇い主。更には《魔法科学》なる科学を探究している、幼いながらもれっきとした科学者でもある。
「お、おぅ…………おかえり、時音」
「礼儀っ! ごはんっ!」
「…………はいよ、ちょっと待ってろ」
雷のように鋭い声を出す時音に、気圧されているような気さえした。
つかつかと、時音はいつになく早足でテーブルに向かってくる。俺はその横をすり抜けるようにして、すぐ近くに位置する台所へと行――
「…………ん?」
ぱさっ
耳を澄ましていても聞こえないであろう音を、俺は、足になにかが触れる感覚で耳にした。
時音はなにも感じなかったらしく、そのまま席に着き、貧乏揺すりを始めてしまった。俺はなんとなく、心の奥底で引っかかるようなものを感じながらも、足元へふと、視線を向けてみた。
――……なんだ? これ。
右足の半分を覆い隠すように落ちていたのは、細長い紙束だった。
それも、ただの紙の束ではない。細長い形状ではあるが、ノートや手帳でもない。
ほんのり黄色で彩られ、見覚えのあるキャラクターが何体か描かれたそれは――――通帳、だった。
通帳。
無論言うまでもなく、銀行通帳。
「……………………」
拾い上げて見てみると、表紙にはくっきりと『逢魔時音』の名前が記されている。
さり気なく後ろの様子を窺ってみるが、時音は通帳を落としたことにまるで気づいていない。きっと、自分が盛大な貧乏揺すりをしていることにも、ほとんど自覚はないのだろう。渦巻いている感情が、彼女を忘我の境地に幽閉している。
「……………………」
さっきの引っかかりは、虫の知らせだったのだろうか。
罪悪感と、好奇心混じりの義務感との葛藤が、俺の心中で繰り広げられた。ほんの一瞬、それでも、喧々囂々丁々発止のせめぎ合いが展開され、軍配が上がった方の行動倫理に、俺は素直に従った。
「………………悪ぃ」
聞こえないように呟いて、俺は拾い上げた通帳を、ポケットの中にねじ込んだ。
そのまま、ふらふらと台所に向かっていく。ダイニングキッチンの体を取っているそこは、お世辞にも使いやすいとは言えないのだが、設備だけは充実している。真城も事態を察知して、気を回してくれたのだろう。いつもより火力は低いものの、電気のコンロは問題なく動いた。
……………………。
……分かっている。これは、人としてなかなかに最低な行動だし、自分勝手な独断専行だってことも承知している。
だけど、放っておけない。
怒ると口数が多くなる時音が、酷く端的な言葉しか発していないという事実が、俺を突き動かしていた。
「銀行通帳…………ってことは、あいつらの生活費とかが入ってんだよな? …………時音の奴、もしかして実家とかからの仕送りで生活してんのか?」
或いは、学者仲間からの寄付金とか。
だとすれば、その仕送り額が少なくて怒っているとか?
――――そんな俺の予想は、見事に外れることになる。
きっと俺は、この時点ではまだ、時音の置かれた状況を軽く見ていたのだろう。
あいつの決意も。
あいつの苦悩も。
あいつの想いも、なにも知らないままに。
俺は、ぱらりと通帳を捲った。
「っ、これって…………!」
記載されているのは、いくつかの数字と片仮名だけ。
しかし、それは事情を知らない俺を絶句させるのにさえ、あまりにも充分過ぎた。
……時音は、きっとこのことを、誰にも話していないのだろう。真城も知らないようだし――――知ったら、きっと冷静ではいられない。
まさか、時音の奴はこれを、たった1人で背負い込む気なのか?
「礼儀っ! ごはんまだなのっ!?」
台所の窓から覗く時音の姿は、酷く酷く小さかった。
こんな重圧を背負える背中など、彼女が持ち合わせている筈がない。
「……………………」
急かされるように、追われるように。
言いようのない胸のざわめきを抱えて、俺は、冷蔵庫の扉を開けた。