2章-5 妥協と考察と自嘲と決意と
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「ぎ――――ぎにゃぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっっ!!」
それはさながら、爆弾のようだった。
逢魔1人の声量とはとても思えない、凄まじい大音声。反射的に耳を塞いだが、手の平なんて薄い肉は軽く通過して、鼓膜を破壊せんと鳴り響いてきやがる。
まるで音響兵器だ。
叫ぶ逢魔の後ろでは、現実逃避をするかのように氷芽香が目を閉じていた。どうやら、完全に眠ることで感覚を遮断したらしい。そんなことはできない美々夜は、屋根から遠くの空を眺め、耳を塞いでどうにかやり過ごしている。
2人揃って(氷芽香なんて寝ているにも拘わらず、だ)、表情は呆れ顔。
…………察するに、逢魔の奴、事ある毎に叫んでんだな。こんな風に。
しかも、あの礼の姿勢で叫んでいるものだから、意味不明な恐怖に誘われる。ホラー映画顔負けの不気味さだ。拳が通じるところが、せめてもの救いか。
「にゃぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――がぁうっ!?」
今にも噛みついてきそうな声を上げ、ようやく逢魔は顔を上げた。
猫かと思ったら、錯乱した犬だったらしい。
それはともかく、改めてこちらを向いた逢魔なのだが――――はっきり言って、超怖かった。
表情は、まぁそこら辺の小学生が怒って浮かべるものと大差ない。歯を食い縛り、目を尖らせ三白眼になり、その端には涙が僅かに浮かんでいる。取り立てて恐怖するような顔ではない。
背筋が凍ったのは、逢魔のまとう雰囲気に対して、だ。
業火を湛えた火山口のような、沸々と煮え滾る怒気。背後に不動明王かなにかまで見えてきそうな勢いだ。特に訳もないのに、土下座したいような衝動に駆られそうだ。
「あの、……逢魔、さん……?」
「がぅあぁああっ!!」
歯を剥き出しにして威嚇する逢魔に、思わず腰が引けてしまう。
堅く握り締めた拳を胸の辺りまで持ち上げ、逢魔はなおもぷるぷる震えている。しかし、長さをミクロン単位で数えるべき彼女の気は、いとも容易く限界を迎えた。
「なによなによなによなによっ! 人がわたしが逢魔時音が頭を下げて頼んでいるっていうのにっ! 酷いわ酷いよ酷いんだ酷過ぎるっ! 断るにしたってもっとやんわり断るとかさりげなく断るとかいっそ断るのを断るとか色々あった筈じゃないっ! わたしが傷つかないとか思っているのかなぁぬいぐるみかなにかと同列みたいに考えてんじゃないかなぁ!? いくらわたしが可愛くてプリティでキュートでキュアでチャーミングで魅力的で官能的で蠱惑的で小悪魔的で癒し系で絶世の美女だからって! やっていい勘違いと悪い勘違いがあるわよっ!」
あぁ、その過大なる自己評価は、間違いなくやっちゃダメな勘違いだよな。
それにしても、頭を下げたまま叫ばれるのもキツかったが、上げたら上げたで、やっぱりキツい。声に指向性ができてしまい、絨毯爆撃のような声だったのが、狙いを定めたサブマシンガンみたいに真っ直ぐ向かってくるのだ。鼓膜へのダメージはともかく、精神への威圧感は遥かにこちらの方がでかい。
「大体そもそも根本的にっ! 礼儀は大いなる勘違いをしているんだよそれもしちゃいけない方のっ! わたしは別に礼儀たちみたいな魔法使える人たちを助けたい訳じゃないんだよそこを履き違えないでよ限りなく果てもなく迷惑なのっ! わたしはあくまでわたしだけの為にやってんだから魔法をただの体質に変えるっていうのは単なるついでなんだからねっ! わたしが優しくて心穏やかで聖女みたいな完璧人間だなんて努々思わないでよねっ!」
思わねーよ。
っていうか、思えねーよ。
心穏やかな奴は、そもそも怒りに任せて怒鳴り散らしたりしねーんだよ。
っつーか、それを俺に言ってよかったのか? ただでさえ非協力的な、この俺に。
「わたしはわたしの為に頑張るんだ努力するんだ意志も財産もプライドも犠牲にして構わないっ! だからだからだからだからっ! もう1回もう1度最後で最後のラストチャンスを実行してやるわっ!」
威勢よく啖呵を切ると、逢魔は堅く握った拳を、天高く振り上げた。
まさか――――殴る気か?
その細腕で? その小さな手で?
「はぁあああああああああああああああああああああああああああああああああっっっ!」
威力など皆無であろう拳を、しかし逢魔は、思い切りタメを作って打ち出した。
なにも恐れることはない。投げられたボールでも受け取るような感覚で、受け止めてしまえばいいだけだ――――そう思って手を出しかけた俺の脳裏に、不意に、昨日の記憶が駆け巡った。
ナイフを携え、予告なしに攻撃してきた逢魔へ感じた、掛け値なしの恐怖の記憶。
――まさか、あの手にも凶器が握られているんじゃ――。
疑いを持ってしまえば、その疑念を打ち払うことはできない。だが、避ける動作など到底間に合わない。
せめて心臓だけは守ろうという防衛本能だろうか。出しかけた手は、胸の前でぴたりと止まり、肋骨を砕かんばかりの力で押し込まれてくる。
「っ!!」
刺されることを、本気の本気で覚悟した。
ほんの一瞬の筈なのに、嫌に長い時間のように感じる。
飛んでくる逢魔の拳が、スロー映像のように見える。ちょっと横にずれるだけで、容易く避けられてしまいそうだ。だけど、身体は金縛りに遭ったように重くって、指の1本すら動いてくれない。
唯一の自由は、瞼を閉じることだけだった。
雲も疎らな快晴だというのに、俺の視界は夜と同じ、真っ黒で真っ暗だ。
祈りも防御も抵抗も反撃も、境界を作ることさえできず、俺はその拳を受け――――
「ああああああ――――これでどうよっ!」
ふぁさぁ
逢魔のまとっている、あの闇夜の如きマントの端が、俺の手を優しく擽った。
だが、肝心の攻撃そのものは、いつまで経ってもやってこない。恐る恐る、俺は目を開けてみた。
「……………………?」
開口一番ならぬ開眼一番、視界の真ん中を陣取ったのは、逢魔の小さな小さな手だった。
しかも、チョキの形をした奴。
ピースでも可。
よく見ると、中指が途中で少しだけ曲がっていて、完全なチョキという訳ではない。その様子から、どうやら目潰しをするつもりではないことが分かるが、しかしなにを言わんとしているのかまでは分からない。
境界の魔法を有していたって、超能力者とかではないんだ。他人の考えなんて、分かる筈もない。
「……逢魔、なにやってんだ?」
「それは激しくこっちの台詞なんだけどね。女の子が拳骨振りかぶったくらいで、なにを大仰に驚いてんだか。あんた、それでも男?」
生物学上はな。
お前だけは例外なんだよ。前科持ちをそこまで簡単に信用できるか。
「だから、これでどうよって訊いてんのよ。イチゴっていうのは、なかなかいい話だと思うけど」
「イチゴ? ……練乳?」
「はぁ? 違うわよバカバカ鈍感過ぎ。給金よ給金。礼儀にわたしが払う、お金の額の話をしてんのよ」
欠けたピースマークを突き出しつつ、逢魔はやけくそじみた声で言ってきた。
給金。
つまり、こいつの研究対象になることは…………1種の仕事、という扱いなのだろうか。
そういえば、昨日も美々夜に向かって、臨時ボーナスがどうとか言っていたような気も……。
「……金で釣ろうってのか? なめられたもんだな、そうそう人生は売れねーよ。当たり前の話だが」
「またまた勘違い? 言っとくけど、妙な実験なんかしないわよ? ちょっと細胞とかのサンプル貰う程度で。わたしと比べたら、病院なんかの方がよっぽど非人道的なことしているわ。血は採るし輪切りにはするし脱がせるし身体の中まで撮られるし…………あいつら、一体何様のつもりなのかしら」
「お前が言うなよ。医療従事者でもない癖に」
「土台さぁ、このままじゃ人生終わっちゃうのは、礼儀、あんたの方じゃないの?」
ぐ。
それを言われると、返す言葉はない。
例えば、授業の合間の休み時間、机に教科書と筆記用具しかない状態で言われたなら、ただの戯言だと蹴散らせただろう。しかし、今は状況が悪過ぎる。俺にとって不利な材料が、誤魔化しようもなく存在しているのだ。
逢魔の目線は、真っ直ぐ過ぎるほど真っ直ぐに、俺の膝元に向けられている。
膝の上に乗せている、飲みかけの水が入ったペットボトルに。
「夕食の様子なら、美々夜から聴いたよ? 育ち盛り真っ只中の男の子が、僅かばかりのモヤシが入ったインスタントラーメンが夕食なんて…………悪いけど、大分不憫だよ」
「ぐぬぬ…………」
「おまけに昼は水だけなんて。断食の修行でもしているの? よっぽどのことがなければ、そんな食生活にはならないと思うけど?」
「……………………」
ダメだ…………とてもじゃないが、反論なんか出て来やしねぇ。
実際、俺の財布の中には雀の涙程度しか銭など入っちゃいない。『よっぽどのこと』、換言すれば金欠という事態が、俺を分かりやすく蝕んでいるのだ。
だから、だから正直に言えば、逢魔の給金を出すという申し出は、喉から手が出るほどに欲しく嬉しい提案なのだ。
「ついでに言うならばー」
と。
今の今まで眠っていたかのように、一言たりとも声を出さなかった氷芽香が、久方振りに地面から声を上げてきた。
なにしろ前振りのない、突然に過ぎる発言だ。俺も逢魔も、揃って背を震わせ、一体誰が声を出したのか、一瞬とはいえ混乱してしまった。
とことんまで読めない奴である、大紅蓮氷芽香。
1000年という年月を生きているという逢魔の談を信じるなら、無理なからんことではあるのだろうが。
「な、なによ氷芽香。びっくりするじゃない。今大事な話をしているんだから、ちょっと静かにしててよ」
「子ども扱いするなー! 年上を敬えこのヤローっ!」
手足をバタつかせて叫ぶその姿は、駄菓子でもねだる子どものそれそっくりだった。
とてもじゃないが、年上には見えねーなぁ。
まぁ、あくまで氷芽香は生きていたのが1000年超というだけで、決して起きていた期間が長いという訳ではないのだ。仮に10年くらいしか活動していなかったとしたら、精神年齢は俺たちと同程度か、それ以下というのもあり得るか。
「んで…………氷芽香はなんの用だよ。逢魔の言うことに、なんか付け足したい風だったけど」
「ふっ、ふっ、ふっ、ふー。そこだよ、正しくそこなのだよ少年」
ラマーズ法みたいな笑い方だな。
慣れないなら、無理せんでもいいのに。
あと、その呼び方だと、美々夜とかぶるぞ?
「しょーじきなはなしー、私たちもたまにはー、かてーのあじとかゆーものをたーべたーいなー」
宙に浮いているかのような、ふわふわした口調で氷芽香は言った。
家庭の味?
あー、そういえば、このメンバーって漏れなく料理できないんだっけ。
…………そりゃ確かに、俺には料理の心得くらいある。その昔、姉さんから『花嫁修業』という名目で、色々仕込まれたからな。料理どころか、武芸一八般だって一通り習得している。華道や書道もだ。役に立ったためしなどまるでないが。
「……けどなぁ」
悪いが、飯炊き要員として雇われるつもりもない。
大体、料理なんて誰にだってできるものなのだ。できないだの無理だのは、みんな勝手な思い込みに過ぎない。俺から言わせれば、何故にそこまでコンプレックスを持っているのか、理解に苦しむくらいだ。高級フレンチなんか作れなくても、目玉焼きも作れないなんて奴はいないだろ?
そんなもの、自分で頑張って会得しろ。
そう言おうとして――――ふと、俺は気づいた。
目の前の逢魔や、その向こうで寝転がる氷芽香が、言いようもなく悲しそうな瞳をしていることに。
「……………………!」
屋根に座る美々夜にも、視線を向けてみる。…………やっぱり、同じように悲しげな、そんな目をしている。見る前からそんなことは分かっていた筈なのに、目の当たりにすると余計に胸が痛い。
思うだけでさえ遅過ぎる。
考えるまでもなく、分かり切ったことじゃないか、そんなのは。
氷芽香たちは皆、逢魔の元で暮らしている――――つまり、彼女たちの実の家族とは離れ離れになっているのだ。家庭の味なんて、覚えているかさえ分からない。
いや、そもそも。
知っているのかどうかすら、定かじゃないのか。
俺は昨日、美々夜の境遇について、無礼なくらいに想像を働かせたじゃないか。なのに、なんでこんなことにも気づけない。
どうやって生計を立てているのかは知らないが、逢魔だって、こんな妙ちきりんな研究に没頭しているくらいだ、実家からロクな扱いなど受けちゃいまい。氷芽香に関しては言うに及ばずだ。1000年以上生きている奴に、家族なんか残っているものか。
「……イチゴじゃ、まだ不満かしら。…………じゃあ、イチハチ! 月18000円! ここまでなら、わたしにだって出すことができるわっ!」
金額が不満なのだと思ったらしく、逢魔は値を釣り上げてくる。
イチゴって、じゃあ15000円のことか。それだって充分にありがたいが…………いやいや、やっぱり金の話じゃないよな。
氷芽香の言葉で揺れたということは、つまりは結局、俺のメンタルの話なのだ。
どうなんだろう。
俺は、こいつらに協力してやりたいのだろうか。
1歩間違えれば、俺も美々夜や氷芽香のように、天涯孤独に追い込まれていたかも知れない――――そう考えると、素直に可哀想だと思うし、同情心も湧く。力になりたいと、自然と思えてはくる。
だけど、そんなのはただの優越感で、安全地帯から可哀想なこいつらを眺めているだけだ。力を貸すとか協力するとか、そういうことの動機としては微妙だし、そんな気持ちで接したくはない。
第一、なんか違う気がする。
そんな狡い感情でこいつらを見ていたのなら、俺はきっと、蛍光灯とぶつかりそうになった逢魔と氷芽香を助けはしなかっただろう。
なんていうか、そう、見ていられないのだ。
危なっかしくて、とても見ちゃいられない。
だからついつい目がいってしまうし、ついつい構ってしまうんだ。
それが、純粋にこいつらの為を思ってなのか、それとも連鎖的に俺の能力までもがバレてしまうのを恐れているのか――――それはさっぱり分からないけれど。
けど、少なくとも心配程度はしている…………なんでだろう?
生まれて初めて、自分と同じような奴に出会ったから?
姉さんと同じように、なにも隠すことなく話せる奴らだから?
どれもこれも、掠ってはいると思うんだ。だけど、決定的な理由にはなり得ていない。
よく分からんが…………自問自答の問いを変えてみよう。
俺は、どうしてもこいつらに協力したくないのか?
…………考えてみれば、今の俺だって随分と狡いんじゃないか? 逢魔のやろうとしていることを『不可能だ』なんて決めつけちゃいるが――――それは結局、俺自身がそれを成し得なかったからで。
自分の異能に、魔法に、自分で理屈をつけることができなかっただけで。
俺が加入することで、俺の異能を逢魔に説明されるのが嫌だっただけで――――要は、嫉妬か。
「……………………ははっ」
…………気づいてみれば、なんて下らないんだろうな。
ぐちゃぐちゃ理屈をこね繰り回して、とどのつまり、逢魔の志を妬んでいただけ。
自分という人間が下らな過ぎて、笑いまでこみ上げてきちまう。
子犬みたいな目で、ぼんやりと眺められるまで気がつかないなんて。
あぁ、俺ってばなんて鈍感な人間なんだろう。
――――なんにせよ、メンタルの話はこれでさっぱりした。自分でさえ下らないと思っている自尊心など、持っているだけ無駄だろう。
後は、体裁の問題か。
みっともない話かも知れないが、昨日はあれだけ啖呵を切って断ったのだ。それを、給金に釣られて意見を翻したのだとは、流石に思われたくない。
みみっちいのは承知だが、俺とて最低限のプライドくらいは残存しているのだ。
「うぐぐぐ…………じ、じゃあ月20000…………」
「――――美々夜がさ、昨夜うちまで来たのは知ってんだろ?」
ふぇ?
ぷるぷると中指を伸ばし切ろうとしている逢魔の言葉を遮るように、俺は唐突極まりない言葉を発した。
逢魔も俺と同様、心中で様々な葛藤があったのだろう。心なしか、表情にうっすら疲れが見える。涼しい秋の風が吹く中で、彼女の額には脂汗が浮きまくっていた。
「あいつがサプライズだのなんだのぬかすもんだからさ、俺、そのサプライズとやらを予想してみたんだよな。とてもじゃないが、現実に起きるような可能性が低い奴。当たってたら、お前らに無償で飯作ってやってもいいってくらいに、確率的にあり得ないような予想だ――――お前らが、うちの高校に転入してくるっつー、愚にもつかねー妄想さ」
「…………?」
「ところがなぁ。蓋を開けてみりゃお前ら、まとめてうちの高校来てんじゃん。どうしてくれんだよ、俺の予想が当たっちまったじゃねーか。こんなとこで勘が当たるくらいなら、宝籤買った時に当たってくれた方がよかったのによー」
「いや……それ、わたしに言われてもどうしようもないんだけど……」
「うるせぇ。とにかく、責任っつーものは取ってもらうぜ」
言った俺の顔はきっと、酷く意地悪く笑っていることだろう。
我ながら滅茶苦茶な論理だし、責任転嫁も甚だしい。ただ、魂胆があってやるのとそうでないのとでは、やる方の心象も変わってくるものだ。
清々しいほど罪悪感ねーわ。
寧ろ楽しい。楽し過ぎる。
怯えたチワワを撫でるかのようなこの快感。誰かをいぢめて楽しむ人間の気持ちが、少しだけ分かった気がする。
イジメではない。ここ重要。
……さて、前振りも終わりましたし。
仕上げはぱっぱと、手早く済ませてしまおう。
昼休みも、残り少なくなってきたしな。
「せ、責任って…………?」
不安げに訊ねてくる逢魔。
すっかり俺の中で愛玩動物と化してしまった逢魔に、俺はたっぷりと溜めを作って――――ようやく、それを口にしてやった。
「なぁに、簡単だよ。俺の予想を当てさせた、その責任を取れ。つまり――――俺に、お前らの食事を全部任せろ」
「………………………………………………………………………………………………へ?」
長く長い沈黙の末、ようやく1音だけ発する逢魔。
どうやらこいつ、理解が追いつかないと黙る習性があるらしい。…………『習性』って、本当にまるっきり、愛玩動物に対する表現だよなぁ。
もしかして俺、そういう変な願望でもあんのかねぇ。
「だーかーら、さっき言っただろ? 俺は、俺の予想が当たってたら、お前らに飯作ってやろうって思ってたんだ、決めてたんだよ。どうせ外れると思ってたからな。あれだ、子どもがよく使う『命に懸けて』とか『一生のお願い』とか、あれと同じレベルだ。それをものの見事に的中させやがって。軽いノリとはいえ、ここは俺が、お前らに飯を振る舞ってやらなきゃ、示しがつかねーんだよ。他ならぬ、俺自身に対してな」
「…………えーっと、その、理屈はよく分かんないけど、えと、つまり……」
迷うようにしながらも、少しだけ弾んだ声で逢魔は言う。
期待を孕んだ声が、見た目相応の子どもみたいだ。なんの誇張もなく、気取らずに言えば――――えらく可愛らしい。
聴いているだけで自然と、こちらまで顔が綻んできてしまう。
「わ、わたしに、協力してくれるって、そういうことでいい、の、かな? 境界坂、礼儀?」
「そこまで知るか。好きにしろ。やらせるんなら、給金くらいは頂くがね。月10000ちょいくらいは」
素直に頷くのが、どうも格好悪く思える年頃なのだ。この程度は許してくれ。
まぁ、意図はしっかり伝わったようだ。その証拠に、逢魔はまるで太陽の如き満面の笑みを浮かべ、いっそだらしないくらいに表情筋を緩ませていた。
…………こいつとか、後は美々夜や氷芽香や真城(名前しか知らんけど)相手に、毎日飯を作ってやるっていうのも――――存外、悪くはないのかもな。
思ったよりは、楽しそうだ――――こればっかりは、素直にそう思えた。
「…………えへへ」
照れたように笑いながら、逢魔は手を差し出してきた。
チョキでもピースでもない。柔らかく開かれた、握手を求めるような手だ。
だが、さっき交わしたそれとは、どこか違うようには、少なくとも思った。
どこがどうとか、そんなことは全然分からないけれど。
「これからよろしくねっ、礼儀っ!」
「あいよ。よろしくさん」
なにはともあれ。
こうして俺と逢魔は仲直りをして――――新たに雇用契約が結ばれることになった。
混沌とした高校生活に更にカオス成分が混入された訳だが、不思議と嫌な感じはしなかった。