1章-1 貧乏夢見る暇も無し
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夏の余韻もそろそろ過ぎ去り、残暑が顔を潜めていく10月初め。
日が陰るのが、目に見えて早くなっていく。日差しと夜闇の支配権が丁度いい塩梅に保たれているのか、汗ばむような暑気とも震えるような寒気とも、この時期は無縁である。風は肌を優しく冷まし、風情豊かに舞う落ち葉は、アスファルトで覆われた街にさえ、季節感溢れる朧気な情景を映し出してくれる。
山の近い片田舎だ。そよぐ風に運ばれてくる土の匂いも、秋めいたそれに変わっている。豊穣を喜ぶように香ばしい匂いと、死へと向かう儚さを含んだ香り。生と死の境界を垣間見たような心地がして、ふわり、鼻が擽ったく思えた。
暑気と寒気の境界。
生と死の混じり合う季節。
俺は、秋という季節が好きだった。理由も理屈も根拠もなく、秋だというだけで心が軽くなるようだ。春夏秋冬のはっきりした日本に生まれたことが奇跡だというならば、俺は四季という彩りに惜しむことなく賛美を送ろう。
ビバ、秋。
秋万歳だ。
涼しいし、食い物は美味いし、ありとあらゆる境界がぐちゃぐちゃで居心地がいい。
「正しく最高の季節――――なんだけどなぁ」
呟いて、俺はふと足元を見た。
灰色で舗装された道に、俺の影が伸びている。沈みかけた夕陽の悪足掻きに晒され、オレンジがかった細長い黒々が道路を侵す。
長く長い黒は、まるで俺の未来を示しているかのようだ。
ガチガチに俺を規制し、規定してくる、学校指定の学ラン。純粋な黒ではなく、僅かに青色成分が混入したそれの胸元に、小さな膨らみが感じられる。
…………いや、勿論俺自身の胸が膨らんでいるのではない。
歓待も忌避もしないが、俺は紛うことなき男子であるが故。
具体的には、その膨らみはやや丸みを帯びた四角形なのだ。それも、表面はつるつるしている癖に、中身は幾重にも層が分かれ、内容物によっては若干以上の硬度を有することもある。まぁ、だからつまり人体ではないな。
「…………はぁ……」
不思議と秋に似合う溜息を吐き出しつつ、ボタンを1つ外して、そこから内側の胸ポケットに手を突っ込む。
取り出したのは、財布だ。
財布。
生命線と読み替えても可。
「……………………」
まずはマジックテープを外し、2つ折り式の紙幣入れを見る。
……寂しいことに、独身の独り住まいである。しかも福沢さんではなく、まさかの野口さん。
ポイントカードは山のようにあるが、昨今の世知辛くケチくさい経済情勢の所為か、割引に使える代物はほとんどない。あっても、CDのレンタルとかその程度だ。ありがたいが、今切実に必要かと問われれば迷わずに否だ。
綿でも持っているかのような感覚に期待を高速で削がれつつ、小銭入れの方にも目を向ける。ジッパーをゆっくりと持ち上げ、内部の硬貨を1枚1枚、丁寧に数えていく。
「…………500……21円、か……」
四枚しかない小銭は、ふらふら歩きながらだって、数え間違えようがなかった。
財布の中身――――締めて1521円。
なんの工夫もなく生活すれば、3日と待たずに消える金額だ。特に、俺みたいな浪費家からしてみれば、直接食糧を奪われるよりも、下手をすればキツいかも知れない。
「くそ…………家には備蓄なんざないし、次の仕送りまで2週間はあるっつーのに……」
誰にも絶賛されることなく、青春真っ只中の高校生活を送るこの俺こと、境界坂礼儀は、訳あって一人暮らしをしている。
財布の中の、野口英世とお揃いだ。嬉しくはないが。
大体、訳ったって、単に両親が海外出張に行っちまったってだけだしなぁ。意味ありげに言ってはみたが、中身がどうしたって無意味なのだし、それこそ意味がなかったな。
まぁそういう訳で、今の俺は、親から月一で振り込まれる仕送りで生活している身分なのだ。
次の仕送りは、2週間後。
……ヤバい。生きていける気がしねぇ。
2週間以内に餓死する自信がある。
姉さんに頼めばなんとかならなくもないんだが…………あの人を、そんな俺の生活程度のことで動かすのは気が引けるしなぁ。
遠隔操作でペットに餌をあげる機械なんてのがあるが、それで飼われている犬やら猫やらは、きっと今の俺みたいな気持ちなんだろうな。餌の種類の選択権がないだけで。
「……光熱費込みで月30000とか、既にその時点で無茶なんだけどな。ったく、あのバカ共は、俺を殺したいのかよ」
俺だって、漫然と生活してきた訳じゃない。家計をやりくりするべく、努力に努力を重ねてはいるのだ。
食費を抑えるべく、慣れない自炊を頑張ったり(得意料理はあるが、節約料理は門外漢)。
浪費癖の原因である趣味だって、断腸の思いで1割にまで減らした。
電気はこまめに消しているし、皿洗いも手早くこなしている。風呂だって、2、3日は水を換えないで追い焚きしているのだ。自慢するつもりはないが、それなりの節約術は一通り実践している。
それでも、まったく足りない。
「バイトでもできればいいんだけどなぁ…………」
呟いてはみるが、世の中がそんなに甘くないことくらい、学生の俺だって知っている。
不況の2文字が足を生やし、その辺を駆けずり回っているんじゃないかと思うほど、昨今の景気は悪い。食料品の値段だって、生き馬の目が飛び出るくらいに高くなるし、バイトの給料は、労働基準法に喧嘩を売っているかの如く右肩下がり。
そもそもが山間部一歩手前の片田舎、人手など、大して欲しくもないのである。
漫画かなにかになれば、『とぼとぼ……』なんて悲しそうな擬音を頭にひっつけられそうな調子で、俺は歩き続ける。
口からは1歩進むごとに、面白いくらい幸せが逃げていく。捕まえようとも思わないが、せめて飛んでいく幸せとやらの形が見たかった。なんか、諦めとかつきそうだったし。
なのに、幸せの奴らときたら、挨拶もなしに家主から出ていきやがる。
礼儀知らずな――――境界坂礼儀の癖に。
他ならぬ俺のことですが。
「ん…………? なんだ、こりゃ……?」
自虐的な思考に浸かっていると、地面を真っ黒に塗り潰す影とぶつかった。
1歩踏み出すと、自分の影が全て飲み込まれてしまいそうなほど、地面を覆う影は大きかった。斜めに伸びる俺の影は、首から上を食われてしまい、お城みたいなそれの一部と化している。
お城。
そうだ。道を挟んだ反対側の、その塀にぎりぎり収まっている影の先端部は、槍のように鋭く尖っている。西洋の、お伽噺なんかに出てくるような、大きなお城さながらに。
「……まさか、ね……」
改めて確認するまでもないが、ここは日本だ。ユーラシア大陸の西側とは、まるで懸け離れた場所であり、しかも今は時代区分で言うなら現代。合金と電気とが生活を支える、科学至上のご時世である。
城なんて時代錯誤なものが、ある筈がない。
そんな西洋かぶれが、こんな辺鄙な場所にある訳がない。
当たり前に当然な思いで、俺は恐る恐る頭を上げた。目線を地面から、右手へと傾けてみる。
明らかに、つい数日前までは空き地であったであろう、砂利や雑草が幅を利かせている一角。
一軒家が建つにしたってやや広いそこに、冗談のように、それは存在していた。
「…………なんだぁ? こりゃ」
城、と聞いて大半の人が想像するのは、いくつもの尖塔を有した、豪奢で絢爛な建物だろう。純白に彩られた壁、青く塗られた尖塔の先端、窓がおもちゃのように小さく、入口なんか巨人の行き来まで想定しているかの如く巨大。
そんなイメージを、人々は持っている筈だ。
俺の目に入ってきたのは、それをものの見事に裏切る建造物だった。
尖塔はある。
見た目は、まぁ城と言い張れば罷り通るかも知れない。
だが…………如何せん、しょぼいのだ。
尖塔は、やけに長っ細いのが3本だけ。その根本には、真っ白でやや背の低い四角形が鎮座している。恐らく、あの豆腐みたいな四角形が居住スペースなのだろうけど、それにしたって小さい。奥行きが分からないから断定はできないが、1人の人間が寝起きをするのが精一杯な感じの面積しかない。
形としては、『山』って漢字の象形文字に近い。
クリスマスケーキに突っ立った、砂糖菓子の小屋みたいだ。
「変な家……いや、家か? …………どの道、こんなもの建てられる奴は、金絡みの悩みなんかとは無縁なんだろうなぁ。ったく、羨ましい限りだぜ」
浅ましい僻み根性だと分かっていたが、それでも我慢できず、俺はそうこぼしていた。
遠目から見たって、あの建物が只ならぬものだということくらいは分かる。見てくれこそしょぼいが、夕陽に輝く色は皆眩しいくらいに綺麗で、たかがペンキで出せるような光沢ではあり得ない。宝石かなにかから作られた塗装かも知れない。
尖塔は、鳩や烏が停まれば串刺しになるくらいに鋭いし、歪み一つない円柱は見事なものだ。
明らかに、あれは道楽で建てられたものだ。
あんなものを作っちまう奴には、俺が目下抱えている問題なんざ、所詮は字面の上でしか知らないんだろうな。率直に言って嫉ましい。
『王様と乞食』って童話、あったよな?
1度でいいから、俺みたいな思いをしてみやがれってんだ。
「どこのどいつだよ、こんな酔狂なものぶっ建てたの…………どうでもいいけど」
そもそも、そんなに興味がある訳でもない。
俯いて歩いていたら、たまたま目に留まった影が気になっただけだ。
たかだかその程度の偶然で、無用なストレスを溜め込むのもバカバカしい。ストレスは空腹を誘うし、そうなれば食費が更に嵩んでしまうじゃないか。我が家にそんな余裕は、再三に亘って繰り返す通り、欠片もないのである。
はぁ~あ、小銭でも落ちてないかなぁ。
淡過ぎる期待を胸に抱え、俺は再び歩き出す。さっさと家に帰って、向き合いたくもない現実と向き合う為に。
下を向いたまま、足を1歩踏み出そうと――
「あの…………なにか御用ですか? 学生さん」