第七章
『孤独さと愛しさに』
普段なら閑散とし始める街も、今夜ばかりは午後十時を過ぎてもにぎわいを隠せていなかった。辺りでクリスマスのネオンがチカチカと輝き、辺りはまるで昼間のように眩しい。
歩道橋の上でミリタリーグリーンのジャケットを羽織った男がそれらをぼんやりと眺めていた。ポケットからオイルライターと煙草を取り出したが、どちらもポケットに仕舞った。禁煙を決め込んだが、なぜかまだ持ち歩いている。
ふと、空を見上げた。星など、この街で見えるわけもない。空は曇っているらしく、月も輝かしい一等星すら存在を確かめることができなかった。
こんな空で、あの日は雪が降っていた。男は瞼を閉じて記憶を巻き戻した――。
そう、あの日もこんな空だった。深夜十時を過ぎ、雪が降り始めた。食事に出かけていたらしい親子連れの子供たちははしゃぎ、みなウキウキとした気分で帰路へ急いだりとどこかへ向かって歩き続けている。
そんな中、一組の男女が仲睦まじそうに歩いていた。腕を組まれている男は照れているのか不機嫌そうな顔でそっぽを向いているが、頬は紅かった。
「なんでそんな顔してんのさ、修治」
と、彼の左腕を掴む女――美帆は対照的に嬉しそうに笑う。セミロングの艶やかな黒い髪に赤いカチューシャはよく映えた。
「もしかして恥ずかしいの?」
「そんなわけないだろ」
少し声が上ずる。それから確信に至ったのか美帆はニヤニヤと笑って、さらに身体を密着させる。
「っ、あんまり寄るな馬鹿……!」
「あれあれ、やっぱり恥ずかしいんじゃないの?」
そんなやり取りをしながら、二人は同棲しているマンションへと入っていった。
部屋に入ると男は先ほどとは打って変わり、美帆の身体を抱き寄せるとすばやく口づけた。美帆も拒む様子はなく、それを受け入れ舌を絡ませた。
「……もう、クリスマスイヴなんだね」
あぁ、そうだな。と、相づちを打つ。美帆の瞳は微かに潤んで下から男の顔を見上げていた。
「早いよね、時間が経つのって……」
「そうやって時間を気にしていられるのも今のうちだぜ」
すると、男は軽々と美帆の身体を持ち上げた。思わず、あっ、と声が漏れる。
「時間なんて、大した問題じゃないさ」
そう言って奥の寝室へと入っていき、美帆をベッドに寝かせてからドアを閉めた。数分後、視線は交わり、熱い吐息をこぼしながら二人は交わった。窓の外では深々と雪がどこへともなく降り続いていた。
「何が、“時間なんて大した問題じゃない”だ」
大問題だよ。男は一人つぶやいて再び通りを見る。徐々に人が減り始め、店も閉まり始めた。
そうして、煙草をポケットから取り出すとそのボックスタイプのパッケージを片手でもてあそんだ。
「煙草か――」
あの朝も、そうだったか。
昨夜の情熱的な一夜のあと、朝日の侵入で男は目覚めた。傍らで美帆が眠っているのを確かめ、身なりを整えると静かに部屋からベランダへ移った。その際、煙草とライターはしっかりと持ち出していた。
ベランダへ出て冷たい北風に当たりながら煙草に火を点けた。思えば、煙草がうまいのかまずいのかよく考えたこともなかった。
「やぁ、おはよう――!」
突然背中へ美帆が抱きついてきた。男は苦笑いしながらベランダに置いてあった灰皿へ煙草を押し付け火を消した。
「昨日は、すごく素敵だったよ……」
と、耳元で艶っぽく囁いた。
「そうだな」
「むっ、えらく淡々としてるね」
「俺はこういう性分なんだよ」
そう言ってボックス・パッケージから煙草をもう一本取り出した。銘柄は『ピース・ライトボックス』だった。
「あんまり煙草吸ってると、身体壊すよ?」
ふくれっ面で美帆が指摘する。純粋な気遣いからだろうが、半分は当人が煙草を嫌っているためだった。
男はせせら笑いながら再び煙草をくわえて火を灯す。紫煙が寒空に上がっていく。空は透き通るように青かった。
「あ、雪積もったんだ」
美帆が子供のようにベランダの手すりから少し身を乗り出してはしゃぐ。男は上ばかり見ていて気づかなかったが、五階のマンションから下を見下げれば、確かに雪が積もっているらしく、一面銀世界へと変貌していた。ただ、車道のアスファルトだけはいつもどおりの濡れた路面をさらしていて少し残念に思えた。
「ねぇ」再び男の耳元で囁く。「もう少ししたらさ、スキー連れてってよ。ガス代の半分は持つから」
「おいおい、俺はスキーとかボードは滑れないって前に――」
「いいじゃん。ゲレンデで雪景色見るだけでも楽しいと思うよ?」
男は少し考えるように首を傾げた。少しの間の後、口の紙巻煙草を灰皿へ押し付けると呆れ調子に言った。
「……まぁ、日が空いてればな」
やった。望みどおりの展開に持っていけたためか、美帆は子供のようにはしゃいで喜んだ。
その姿を横目に男は苦笑しながら慈愛の眼差しで彼女の姿を見つめていた。
年を跨いだ一月の下旬ごろに美帆とはささいなことで口論になった。そして、二月一日。旅行を目前にして彼女は男の前から姿を消した。
時計を見ればすでに午後11時を回っていた。辺りは閑散とし始め、人影もほとんど見えなくなった。
再びポケットから煙草を取り出してそれをジッと見つめた。そして、フッと薄い微笑を浮かべた後、どこへともなくそれを放り投げた。
待ち合わせの時刻はとっくに過ぎていた。事前に電話をかけ、久しぶりに会いたい、との旨を伝えたがそれを了承する相手の返事はなかった。とにかく、場所と時間を伝え「待ってるから」とだけ言い残し通話を終わらせた。
彼は寂しげに肩を落とすと、踵を返して歩道橋から立ち去るべく階段のある一方へと近づいた。
こんなもんさ。そうつぶやいて、一段一段下り始めたのと、向かい側の階段を勢いよく駆け上ってくる人影が薄っすらと見えた。
男は反射的に軽く手を上げて来た道を戻った。何から切り出せばいいか、いろいろと複雑に考えていたことはもう忘れてしまっていた。
まずは謝ることから始めればいい。それから一番気にしていたことを訊ねればいいのだ。
正午12時。クリスマス・イヴが終わりを迎えたその時、二人の男女が互いの存在を確かめるように優しく抱き合っていた。それは、空白の時間を埋め合わせるような、互いを想う愛しさで満ち溢れた抱擁だった。