第六章
『Nと云う男』
「――それで、住んどるとこが上機やったっけ」
有坂市へ向けバイパスを失踪するマーチのハンドルを握る古岸敏雄は隣席の男に訊ねた。古岸は今年で四十半ばを過ぎ、前髪が少し後退しかけているやや大柄な中年男性だった。
腹の上にオリーヴドラヴのショルダーバッグを乗せた男は憂鬱そうに、そして淡々と答えた。
「えぇ。上機から駅までは自転車で15分ほどかかりますし、バスも来ないですから。病院に行くにも車がないと行けない。不便な土地ですよ――」
助手席に座る男は未だ学生特有の若さが微かに残っていたが、遠くを見るような虚ろな視線には人生に絶望したように生気が感じられなかった。眼鏡を掛け、真面目くさった顔には面白くなさそうな仏頂面が浮かんでいる。また、顔と性分が同じらしく髪は染めていなかった。
スーツ姿の古岸と違って彼は灰色のシャツに黒のズボンを履いていた。何とか若者らしさの感じられる服装の上に趣味なのか、袖がぶかぶかと広いUSアーミーのものに似たミリタリー・グリーンのジャケットを着ていた。列を作っては走る去る対向車線の車のライトが時折車内へ飛び込み、彼のジャケットのアルミ製のジッパーを鈍く光らせた。
辺りは暗く、時間は七時を回っていた。車窓から見える夜景と車の速度に一瞬、目を輝かせたがそれもすぐに虚無的なものへとすり変わる。
途中、ある交差点で「そこを左へお願いします」と告げ、古岸はハンドルを左へ切った。車は田舎道へと入っていった。
二つ三つほど交差点を超え、ある角を左へ曲がるよう彼は言った。その角に面した倉庫には『ここは上機町です』との表記がされた看板がかけられていた。
家の前に着くと男は、ありがとうございました、と礼をして車を降りた。銀色のマーチが走り去ったのを見送ると彼は踵を返して家へ入っていった。男の家は二階建ての借家だった。
一階の部屋に入るとその足で自室へ向かった。ベルトを取り、眼鏡を度の弱い、室内用のものへと付け替え、ジャケットを脱いだ。途端、細身の身体ラインがはっきりとわかるようになった。169センチ、体重52キロの胴から伸びる腕はアンバランスなほどに細かった。また、力仕事をしてないからなのか、手先はピアニストのようにしなやかではあるが、同時に掌は同年代の少女と同じ大きさしかない。
男は鞄の中からボトルホルダーに包まれたペットボトルを取り出し、グイグイとラッパ飲みした。入っているのは家で沸かした緑茶だった。
空になったボトルを床へ転がしてからもう一度拾い上げキッチンへ向かった。小型の炊飯器は白飯が炊けていることを示し、コンロに置かれた鍋の中には具がほとんど入っていない味噌汁が入っていた。
味噌汁を温めてから普段よりずっと遅い夕食を取った。もう八時を悠に過ぎていた。普段なら今から一時間前には食事にありつけているはずだった。
彼は食器を片付け、タイマーでセットされていた風呂の湯船へ身体を浸けた。思わず、くだらない、と声に出してつぶやいた。
今夜、帰りが遅くなったのは新入社員歓迎という名目で労働組合主催で行われたボーリング大会のせいだった。毎日研修を終えると、慣れない環境と多大に気を遣うためかひどく疲れる。一刻も早く帰って横になりたいのが本音だったが、そのレクリエーションは仕事が終わってから行うというものだった。
くだらない。新入社員歓迎とは言うが、所詮接待じゃないか。互いの交流のため? 仲好しごっこなんてしたくはないね。仕事をする上でうまくいけばいいだけだ。そうだろ?
くだらない。風呂から上がり、ベッドに横になってからも同じように繰り返した。
そして、車内での古岸との会話を思い出した。「設備課はどっちかって言えば職人さんみたいなもんやから、気長に覚えてけばえぇよ」
「でも、あまり育ちが悪いと首を切られるんじゃないですか?」
「いや、首切られるっていうのはまずないね――」
嘘だ。どうせ、出来が悪かったら捨てられる。そうだろ? 代わりはいくらでもいるんだろ?
レクリエーションも終わりに近づいた頃、同じ設備課でボイラーを担当しているという先輩がニヤニヤと笑いながら声を掛けてきた。生理的に受け付けないタイプだった。
「自衛隊研修かんばってなぁ、20キロ走らされるらしいで?」
「じゃあ、親に言って葬儀の手配でもしてもらっときますね」
くたばれ、畜生。こんな世界まっぴらだ。死ね、滅べ、畜生。クソッタレ。全部壊れちまえばいいんだ。
窓の向こうではギラギラとネオンの灯りが夜をかき消していた。彼は舌打ちしてカーテンを閉め、瞼を閉じ、死んだように眠った。
夜のネオンは彼には眩しすぎた。