最強の剣士は眠れない
山を越えてきた風には、まだ雪の匂いが残っていた。
東の空を塞ぐように、灰色の山々が幾重にも連なっている。
高い峰には、消え残った雪が白い筋を引いていた。その下には針葉樹の森が黒々と広がり、雪解け水を集めた細い川が山裾を縫っている。
山脈を越えてきた街道も、その川に寄り添うように西へ延びていた。
三台の荷馬車が、車輪を軋ませながら坂道を下っていく。荷台には山向こうで採れた鉱石や毛皮が積まれ、最後尾には香辛料の入った木箱が縄で何重にも固定されていた。
山裾の先には、広い平野が待っている。西へ行くほど土地はなだらかになり、遠くには青みを残した麦畑も見え始めていた。
一台目の御者台。
御者の隣に、一人の男が座っていた。
長い。
まず目につくのは、それだった。背が高いというより、長い。
座っているのに膝の位置がおかしい。痩せた身体から伸びる手足も妙に長く、狭い御者台が気の毒になるほどだった。
黒い髪に黒い目。そして、その目の下には墨でも塗ったような濃い隈がある。
リョウ、二十二歳。
剣聖と呼ばれる老人の五人の弟子の一人だった。今はそこから逃げ出し、冒険者をしている。
背には一振りの刀を負っていた。
普通の長剣よりわずかに長い、反りのある片刃の刀。龍の牙を削り出して作られた龍牙刀。
その刃に斬れぬものはない。
少なくとも、リョウはまだ斬れないものを知らなかった。
「兄ちゃん」
御者が声をかけた。
「なんだ」
「寝てるのか?」
「寝てない」
「さっきからずっと目ぇ閉じてるぞ」
「寝ようとしてる」
「だったら寝ればいいじゃねえか」
「寝られたら苦労しねえ」
リョウは目を閉じたまま答えた。
眠い。猛烈に眠い。
昨夜もほとんど眠れていない。いや、今までぐっすり寝たことがない。
瞼を閉じても、世界は消えてくれない。
車輪が次に踏む小石。馬の脚の筋肉が収縮する瞬間。風に揺れる草。土の下を這う虫。上空を旋回する鷹。木々の陰。岩の裏。
そして、まだ起きていない出来事。
見ようとしなくても、それらが頭の中へ流れ込んでくる。
竜眼。
見えないものを見る目。そして、ほんの少し先の未来を見る目。
師匠は天賦の才だと言った。兄弟子たちは羨ましがった。便利な力だと言う奴もいる。
そういう奴には、一週間ほど貸してやりたいとリョウは思っている。
三日で泣く。五日で返してくれと言う。七日目まで耐えられる奴は、たぶんいない。
だから剣聖の名など継ぐ気はなかった。
剣聖の剣、四月流。
火勢、水勢、風勢、土勢。四つの足さばきと構えを基礎とし、そこから剣を組み立てる。
師から弟子へ。さらに、その次の弟子へ。そうやって受け継いできた剣だ。
ならば、剣聖の剣は誰かが次へ伝えられるものでなければならない。
自分の剣は違う。
相手が動く前に竜眼でそれを知り、龍牙刀で何もかも斬る。そんなものを、何代にもわたって磨き上げられてきた剣術と同列に置いていいはずがない。
少なくとも、リョウはそう思っていた。
だから逃げた。
師匠が知ったら怒るだろう。それを考えると少しだけ愉快だった。
「止めろ」
リョウが言った。
「ん?」
「馬車を止めろ」
御者が手綱を引いた。一台目が止まり、続いて後ろの二台も車輪を止める。
「どうした?」
護衛たちが集まってきた。リョウを含めて八人。いずれも山道の護衛を請け負った冒険者たちだった。
「来るぞ」
「何が?」
「山賊」
護衛たちの顔つきが変わり、剣の柄に手が伸びる。
「どこだ?」
「まだいない」
「……は?」
「二十数えるくらい待て」
リョウは御者台から降りた。長い脚が地面につく。
「馬車を寄せろ。三台で壁を作れ。弓を使える奴は荷台へ上がれ」
「おい、待て」
「なんだ」
「お前はどうする」
「行く」
「どこへだよ」
リョウは街道の先へ歩き始めた。
「山賊のところだ」
街道の左右では、山を下りるにつれて疎らになった木々が風に揺れている。
十。十一。十二。
リョウは数えながら歩く。
十五。
右手の林で鳥が飛び立った。
十七。
枝が揺れる。
十八。
街道の左右から男たちが飛び出した。
「止まれ!」
リョウは数えるのをやめた。
「二十までは保たなかったか」
小さく呟き、背中の龍牙刀へ手を伸ばした。
剣、槍、斧。粗末な革鎧。
二十人を超えている。三十人はいない。
「荷物と馬を置いていけ! そうすりゃ命までは取らねえ!」
男の一人が叫んだ。
リョウは背中の龍牙刀へ手をかける。
「待て! 俺たちは二十六人いるんだぞ!」
「そうだろうな」
「だったら――」
「だから一人で来た」
男が言葉に詰まった。
「護衛に怪我人を出したくないんだよ」
「……舐めやがって!」
鯉口を切る。
白い刀身が、山を越えてきた陽光を弾いた。
「野郎!」
最初の男が斬りかかる。
リョウには、その剣が振り上げられる前から軌道が見えていた。右肩が上がり、右足を踏み込み、剣が斜めに落ちてくる。
そこまで見えている。
リョウはほとんど動かなかった。左足を半歩だけ引く。刃が鼻先を通過した。
龍牙刀を横へ振る。ただ、まっすぐに。
「半月」
鉄剣が半ばから切断された。
「え?」
男が間の抜けた声を上げる。
リョウは刀を止めていた。それ以上は斬らない。
「次」
二人目。槍。
今度は水勢。
突き出された穂先へ合わせて身体をずらす。相手が出る。それを受けて動く。後の先。
槍の穂先を避け、その内側へ滑り込んだ。
男が慌てて槍を引こうとする。リョウの龍牙刀が途中まで横へ走り、男は柄を上げて防ごうとした。
その瞬間、刃筋が変わった。
「弧月」
龍牙刀が不自然なほど鋭く軌道を変え、槍の穂先を斜めに切り落とした。
相手が防ごうとした、その動きまで利用して斬る。
「囲め!」
六人が動いた。
前、右、左、背後。
風勢。
足が動く。風は留まらない。
踏み込み、抜ける。振り下ろされた剣の脇をすり抜け、一人目の横を抜けてその背後へ。二人目が振り向く前に、さらに横へ。
六人の中心にいたはずのリョウが、一瞬で包囲の外へ抜けた。
「どこだ!」
「ここだ」
振り返った男たちの横にいる。
龍牙刀が走った。
剣が折れ、斧の柄が飛び、革鎧の留め具が切れ、鞘が落ちた。帯が切れ、ズボンまで落ちた男もいる。
それでも男たちは向かってきた。
面倒になった。
火勢。
先に出る。相手が何をするかを待たない。こちらから仕掛け、そのまま攻め続ける。
一人目。剣を抜ききる前に間合いへ入り、手首を斬る。
剣を握ったままの右手が地面に落ちた。
「ぎゃああっ!」
止まらない。
二人目は斧を構えようとしていた。構えが完成する前に身を沈め、龍牙刀を膝の下へ走らせる。
片脚が宙を舞い、男は自分に何が起きたのか理解できない顔のまま地面へ倒れた。
三人目が背後から飛びかかる。
見えている。
だがリョウは振り返らなかった。
土勢。
足を止め、腰を落とし、刀を構える。
男が背後から迫る。
五歩。三歩。一歩。
そこで初めて振り返った。
最短の一閃。
「半月」
男の剣が根元から断たれた。
それで終わるはずだった。
だが男は勢いを止めず、折れた剣を握ったまま体当たりするように突っ込んでくる。
リョウは構えを崩さなかった。竜眼には、その先が見えている。
もう一度、半月。
今度は男の胸を斜めに走った。
革鎧ごと身体が深く裂ける。男は二歩ほど進み、膝から崩れ落ちた。
もう動かなかった。
山賊たちの足が止まる。
血のついた龍牙刀を下げ、リョウは彼らを見た。
「まだやるか?」
誰も動かなかった。
「俺は殺さないとは言ってないぞ」
男たちが後ずさる。
「逃げるなら追わん」
それで十分だった。
残った男たちは顔を見合わせ、次の瞬間、蜘蛛の子を散らすように林へ逃げ込んだ。
リョウは龍牙刀についた血を草で拭い、鞘へ収める。
「最初からそうしろ」
振り返ると、商隊の護衛たちが呆然とこちらを見ていた。
◇
その日の夕方、商隊は山裾の町へ到着した。
山脈を越える旅人のために作られた町らしく、規模の割に宿屋と倉庫が多い。街道沿いには鍛冶屋や馬具屋が並び、荷車の車輪を直す槌の音があちこちから響いていた。
西へ向かう商人、東へ向かう商人、冒険者、荷運び人、馬、荷車。
様々な人間が入り混じり、町全体が一つの大きな中継所のようだった。
護衛料を受け取ったリョウは、一人で大通りを歩いていた。
今夜は宿を取る。できれば静かな宿がいい。
静かなら眠れるわけではないが、うるさいよりはましだ。
「このガキ!」
怒鳴り声がした。
見なかったことにしよう。
そう思った。
「盗んでねえって!」
子供の声。
リョウは足を止めた。
食料品店の前に人だかりができている。店主らしい大男が、小柄な少年の胸ぐらを掴んでいた。
短い茶色の髪。汚れた頬。痩せた身体。年は十二、三といったところだろう。
「じゃあ、そのパンはなんだ!」
「腹減ってたから取った!」
「それを盗んだっていうんだ!」
「……あ」
少年は初めて気づいたような顔をした。
店主の拳が振り上げられる。
リョウはため息をつき、その手首を掴んだ。
「そこまでにしとけ」
「なんだ、お前」
「いくらだ」
「は?」
「パン」
代金を払った。
店主はまだ何か言いたそうだったが、リョウの背中にある龍牙刀を見て口を閉じた。
少年が立ち上がる。
「助かった!」
「助けてない」
「助けたじゃん」
「盗んだ物の代金を払っただけだ」
「同じだろ?」
「違う」
リョウは少年を見下ろした。
「腹が減ったから盗んでいいなら、金が欲しい奴はお前の金を盗んでいいことになる」
「オレ、金持ってないぞ」
「そういう話じゃない」
「じゃあどういう話?」
「だから――」
そこから五分ほど説教した。
途中から少年は鳩を見ていた。
◇
翌朝。
町の西門を出たリョウは、平野を横切る街道を歩いていた。
山はすでに背後にある。前には緩やかな丘陵と農地がどこまでも続き、麦は穂をつけ始め、街道脇には青や黄色の小さな野花が咲いていた。
一時間ほど歩いてから、リョウは言った。
「いつまでついてくる」
後ろの茂みが止まった。
「…………」
「隠れてるつもりなら無駄だぞ」
茶色い頭がひょこりと出た。
「バレてた?」
「町を出たときから知ってる」
「すげえ!」
「帰れ」
少年が茂みから出てくる。
「オレ、キャット」
「聞いてない」
「アニキはリョウだろ?」
「誰がアニキだ」
「アニキ」
「人の話を聞け」
「聞いてるよ」
「じゃあ帰れ」
「分かった!」
キャットは元気よく答えた。
そのままついてきた。
リョウは三十歩ほど歩いてから振り返った。
キャットがいる。
「お前」
「ん?」
「今、分かったって言ったよな?」
「言った」
「何が分かった」
「アニキが帰ってほしいってこと」
「じゃあ帰れ」
「それと、オレが帰るかどうかは別だろ?」
リョウはこめかみを押さえた。
「お前、よく今まで生きてこられたな」
「運がいいんだ!」
「それを自慢するな」
◇
昼を過ぎたころ、小さな川に出た。
街道脇に柳が生え、その下には旅人が休める程度の草地がある。
「ここで休む」
「飯?」
「休憩だ」
「じゃあ飯だな!」
「お前は飯のことしか考えてないのか」
「昨日のパン一個しか食ってねえんだぞ」
「俺が買ったパンな」
「細かいこと気にするとハゲるぞ、アニキ」
「お前を置いていくぞ」
キャットは笑いながら川へ走っていった。
「水飲んでくる!」
「待て。上流を確認してから――」
もういない。
「……聞けよ」
リョウは木陰へ腰を下ろした。
しばらくして、水音とキャットの悲鳴がした。
「うわあっ!」
リョウは立ち上がった。
「今度はなんだ」
川岸へ向かうと、浅瀬でキャットが尻餅をついていた。服がびしょ濡れになっている。
「滑った!」
「見れば分かる」
「着替えてくる!」
「着替え持ってんのか」
「ある!」
キャットは荷物を抱えて藪の向こうへ消えた。
リョウは川岸にしゃがみ、水筒へ水を入れる。
そのとき。
「アニキ! 来るなよ!」
「行かねえよ」
「絶対だぞ!」
「だから行かねえって言ってるだろ」
妙に念を押す。
リョウは眉を寄せた。
竜眼には、見ようと思えば藪の向こうまで見える。普段なら勝手に入ってくる情報を、意識して捨てた。
数分後、乾いた服に着替えたキャットが戻ってきた。
リョウはその姿を見た。
「お前」
「ん?」
「女だったのか」
キャットが固まった。
「……は?」
「女だろ」
「今さら!?」
「今さらってなんだ」
「昨日からずっと一緒にいるだろ!」
「だから男だと思ってた」
「どこをどう見たらそうなるんだよ!」
リョウはキャットを上から下まで見た。
短い髪。薄汚れた男物の服。細い手足。身体の線もゆったりした服に隠れている。
「全部」
「失礼だな!」
「お前が男みたいな格好してるからだろ」
「旅してたらこっちのほうが楽なんだよ。それに女だって分かると面倒な奴が寄ってくるし」
「それは正しい」
「だろ?」
キャットが胸を張った。
「……あれ?」
「なんだ」
「アニキ、見えないものが見えるんじゃねえの?」
リョウの眉が動いた。
「なんで知ってる」
「昨日の山賊の話、宿で聞いた。山賊が出てくる前に分かったんだろ?」
「見えるからって何でも見るわけじゃない」
「なんで?」
「見なくていいものまで見てたら頭がおかしくなる」
「へえ」
「それに、人の服の中を見る趣味はない」
「意外とまともだな、アニキ」
「お前は俺をなんだと思ってる」
「すげえけど、いつも眠そうな変な人」
「だいたい合ってるのが腹立つな」
キャットが笑った。
リョウは水筒を腰へ戻す。
「行くぞ」
「おう!」
「あと一つ」
「ん?」
「女ならなおさら、一人で知らない男についてくるな」
「アニキは大丈夫だろ?」
「なんでそう思う」
「悪い奴だったら昨日、オレを助けてない」
リョウは何か言おうとして、やめた。
「……そうやってすぐ決めつけるのをやめろって言ってんだ」
「でも合ってるじゃん」
「結果が合ってれば考え方まで正しいわけじゃない」
「アニキの話、いっつも難しいな」
「お前が考えなさすぎるんだ」
「分かった!」
「それが一番信用できん」
◇
二日後。
二人は街道沿いの小さな村へ入った。
村の周囲には麦畑が広がっていた。収穫にはまだ少し早い。青みを残した穂が風を受け、一斉に同じ方向へ傾いている。
街道に沿って三十軒ほどの家が並び、その中央に井戸と小さな広場があった。
古びてはいるが、荒れてはいない。家々の軒先には薪が積まれ、鶏が道を歩き、遠くから牛の鳴き声も聞こえる。
鍬を担いだ男が畑から戻り、女が軒先で豆の筋を取っている。子供たちは木の枝を剣にして走り回っていた。
どこにでもありそうな農村だった。
ただ、人の目がおかしい。
畑仕事をしていた男が二人を見ると、すぐに目を逸らす。井戸端の女たちは話を止め、宿屋の前にいた男は建物の中へ入っていった。
恐れている。
だが、リョウたちを恐れているわけではない。
「アニキ」
「なんだ」
「腹減った」
「……お前な」
リョウは周囲を見回した。
「キャット」
「ん?」
「この村では余計なことするな」
「分かった!」
嫌な予感しかしなかった。
村の中央へ向かうと、道端に老人が座っていた。ぼろ布をまとい、杖を横に置いている。
「旅のお方……」
老人が震える手を伸ばした。
「三日も何も食ってねえんです。脚も悪くて働けねえ……」
「あ、パンあるぞ!」
「やめろ」
キャットが袋からパンを取り出した。
「ほら!」
「おい」
「腹減ってるんだろ?」
老人は涙を流さんばかりに頭を下げた。
「ありがてえ、ありがてえ……」
二人は歩き出した。
角を曲がったところでリョウが止まる。
「見てろ」
「何を?」
しばらくすると老人が立ち上がった。杖を担ぎ、普通の足取りで路地へ入っていく。
「歩けるじゃねえか!」
「だからやめろって言っただろ」
「知ってたのかよ!」
「脚を見れば分かる。歩けない人間の筋肉じゃない」
「だったら先に言えよ!」
「言った。やめろって」
「理由を言えよ!」
「いちいち説明してたら間に合わんこともある。分からないなら一度止まれ」
「なるほど」
「本当に分かったか?」
「分かった!」
そのとき、街道の向こうから鈴の音が聞こえてきた。
荷馬車だった。四台。
東の山脈を越えてきたのだろう。車輪も馬も泥に汚れ、御者たちの顔には長旅の疲れが浮かんでいる。
荷台には布をかけた木箱や樽が積まれ、六人ほどの護衛が馬車の前後を歩いていた。
「商隊だ!」
キャットが言った。
「見れば分かる」
村人たちの様子が変わった。
何人かが家から出てくる。宿屋の主人も満面の笑みで商隊を迎えに出た。
「いらっしゃい! 山越えかい? そりゃ疲れただろう。今夜はうちへ泊まっていきな!」
先頭の商人が馬車を止める。
「馬を休ませたい。六人部屋は空いてるか?」
「もちろん!」
やがて村長まで現れた。五十を少し過ぎたくらいの、腹の出た男だった。
「ようこそ。小さな村ですが、旅人をもてなすことだけは自慢でしてな」
にこやかな笑顔。柔らかな声。
だが、その後ろに立つ男たちの手には、農作業だけではできない硬い胼胝がある。
剣を握る人間の手だ。
リョウは黙って見ていた。
「アニキ?」
「なんでもない」
商隊が宿の裏手へ回っていく。
馬車は広い厩の前へ並べられ、護衛たちは長旅から解放された安心からか、笑いながら宿へ入っていった。
リョウはその背中を目で追った。
嫌な村だ。
「おい! 何してやがる!」
キャットの声がした。
「……今度はなんだ」
女が男を殴っていた。
かなり本気だった。
「やめろよ!」
「キャット、待て」
遅かった。
キャットが二人の間へ飛び込み、女の拳がそのまま頬へ入った。
「ぶっ!」
地面へ転がった。
「なんでオレまで!?」
「あんた誰だい!」
「その人かわいそうだろ!」
「こいつが何したか知ってんのかい!」
「知らねえけど、殴るのは――」
「私の妹と寝たんだよ!」
キャットが止まった。
地面で殴られていた男が顔を上げる。
「愛に罪はない」
女の蹴りが腹に入った。
「あるわ!」
キャットが黙って戻ってきた。頬が赤い。
「アニキ」
「なんだ」
「世の中って難しいな」
「だから考えてから動け」
「でも殴られてたぞ」
「見えているものが全部じゃない」
「難しい」
「分からないなら、まず止まれ。それから聞け」
「分かった!」
リョウはため息をついた。
◇
二人は商隊と同じ宿を取った。他に宿がなかったからだ。
日が沈むと、村は急速に静かになった。西の空に残っていた赤みも消え、麦畑が闇に沈む。窓の外では虫が鳴き、遠くで犬が吠えていた。
一階の食堂にはリョウとキャットのほか、昼間の商隊の商人と護衛たちがいた。
肉と豆の煮込み、黒パン、野菜のスープ。
旅の宿としては悪くない。
「うまそう!」
キャットが匙を取る。
「食うな」
「いただきます!」
リョウが手首を掴んだ。
「食うなって言っただろ」
「腹減ってんだよ!」
「しびれ薬が入ってる」
キャットの手が止まった。
「マジ?」
「マジだ」
竜眼には見えている。煮込みの中に混ぜられた異物。厨房に残る同じ薬。商隊の皿にも入っている。
「なんで?」
「知らん」
「食ってみれば分かるんじゃね?」
「お前は原因を確認するために結果を食らうのか?」
「……どういう意味?」
「分からなくていい。食うな」
「でも、うまそうだぞ」
「だから食うな」
「ちょっとだけ」
「食うな」
「肉だけ」
「薬は肉にも入ってる」
「じゃあ豆」
「全部だ」
「パンは?」
「それは大丈夫だ」
キャットがパンへ手を伸ばした。
「それだけ食うな」
「なんでだよ!」
「食事をしたように見せるためだ」
リョウは煮込みを口元へ運び、食べるふりをする。キャットも渋々真似した。
向こうの卓では、商隊の護衛たちが酒を飲んで笑っている。
やがて一人が大きな欠伸をした。
「山越えは疲れるな」
別の男も目を擦る。
「今日はよく眠れそうだ」
リョウは黙って彼らを見た。
◇
深夜。
物音で目を覚ましたわけではない。そもそも眠っていなかった。
リョウは寝台から身体を起こした。隣の寝台ではキャットが毛布を蹴飛ばし、大の字になって眠っている。
「起きろ」
「んー……」
「起きろ」
「あとちょっと……」
「襲撃だ」
キャットが飛び起きた。
「どこ!?」
「下」
窓の外では、昼間、商隊が止めた厩の周囲に人影が集まっていた。宿の裏口が開き、武器を持った男たちが入ってくる。
荷物を奪うつもりだ。
商隊の護衛たちは薬でまともに動けない。最初からこれが目的だったのだろう。
リョウは龍牙刀を背負った。
「キャット」
「おう!」
「ここにいろ」
「分かった!」
「……絶対だぞ」
「分かったって!」
リョウは部屋を出た。
そして三十秒後。
「アニキ!」
「なんでいる!」
キャットが後ろから走ってきた。
「心配だから!」
「俺がお前を心配してんだよ!」
二人が階段を下りると、薄暗い食堂の中央に宿屋の主人が立っていた。
昼間の愛想のいい笑顔は消えている。右手には抜き身の剣が握られていた。
「薬が効いてねえぞ!」
「食ってないからな」
「てめえ、最初から――」
主人が剣を振り上げる。
リョウは足を止めなかった。
水勢。
振り下ろされる刃に合わせ、身体を半歩だけずらす。
すれ違いざまに龍牙刀を抜き放つ。
銀の線が一つ走る。
宿屋の主人が二歩進んだところで、その身体が傾いた。
「……え?」
胸から血が噴き出した。
主人は自分に何が起きたのか分からない顔のまま、卓へぶつかって床に崩れ落ちた。
リョウは振り返りもしなかった。
「行くぞ」
「お、おう」
キャットが一瞬だけ倒れた主人を見てから、そのあとを追った。
二人が外へ出る。
厩の前には三十人ほどの男たちがいた。農夫の服。宿屋の使用人。昼間、村で見た顔。そして見覚えのない男たち。
村そのものが山賊の根城だった。
「面倒だな」
リョウは龍牙刀を下げる。
男たちが一斉に走ってきた。
リョウは走らなかった。
土勢。
両足を据え、腰を落とし、刀を下段に構える。それだけだった。
正面から三人。右から二人。左から一人。
見えている。
剣が来る。槍が来る。斧が来る。それより先の結果まで見える。
だから、大きく動く必要がない。
一人目の剣を半歩でかわす。
「半月」
剣だけが落ちる。
二人目の槍には身体をわずかに傾ける。
龍牙刀を振り下ろす。
槍の柄が真ん中から切断された。
三人目の斧は、振り下ろされる場所から足一つ分だけ外れる。
返す刃で斧の柄を断つ。
「な……」
男たちが止まった。
リョウはほとんど同じ場所に立っていた。
土勢は速くない。華やかでもない。相手の周囲を走り回る必要もない。
必要な場所へ、必要なときに、必要な一撃だけを置く。
そして、リョウにはその場所と、その瞬間が見えている。
竜眼と土勢。
師匠には、相性が良すぎると言われた。
リョウ自身もそう思う。
「何してやがる! 囲め!」
今度は八人が動いた。
前後左右から間合いを詰める。
さすがに、土勢で受ける数ではない。
リョウの構えが変わった。
風勢。
身体が沈む。
次の瞬間、地面を蹴った。
「消えた!?」
一人目の横を抜ける。
男が慌てて剣を横へ振る。
その防御に合わせて、リョウの刃筋が途中で変わった。
「弧月」
剣を避けるように軌道を曲げた龍牙刀が、そのまま男の肩口を斬り裂く。
止まらない。
二人目の槍が正面から来る。
身体を横へ流し、穂先をかわす。龍牙刀が槍の柄へ向かい、男が咄嗟に引いた。
刃筋が変わる。
弧月。
今度は男の脇腹を浅く切り裂いた。
「ぐあっ!」
その横を抜ける。
三人目。
四人目。
剣と身体の隙間を縫うように、リョウは包囲の中を駆け抜けていく。
風勢の足。
弧月の刃。
速さの中で、相手の防御に合わせて刃筋だけが次々と変わる。
肩が裂ける。太腿が切れる。剣を握る腕が落ちる。
八人の間を一本の風が通り抜けた。
次の瞬間、リョウは包囲の外にいた。
遅れて男たちが次々と崩れ落ちる。
「なんだ、こいつ……」
「見えなかったぞ……」
リョウは振り返った。
「大人数で囲めばどうにかなると思ったか?」
男たちが怯む。
「アニキ!」
声がした。
リョウの視線が動く。
「だから来るなって――」
キャットが男に捕まっていた。
首筋にナイフが押し当てられている。
「刀を捨てろ!」
男が叫ぶ。
リョウの目が細くなった。
距離は十歩ほど。
男の右足に体重が乗っている。左肩がわずかに下がり、ナイフを握る指には力が入りすぎている。呼吸も速い。
怯えている。
そして、竜眼にはその先まで見えている。
男はもう一度、刀を捨てろと叫ぶ。リョウが動かなければ、やがて焦れて、ナイフを握る右手がほんのわずかにキャットの首から離れる。
その瞬間なら届く。
風勢なら。
「キャット」
「アニキ……」
「じっとしてろ」
「でも」
「動くな。何もするな。俺を信じろ」
キャットが息を呑む。
「刀を捨てろ! 聞こえねえのか!」
「聞こえてる」
リョウは龍牙刀を下げた。
構えらしい構えを取らない。
ただ、両足の力を抜く。
速さは、速く動くためだけのものではない。必要な瞬間に、必要な距離を消すための足だ。
リョウは待った。
キャットが何もしなければ、それで終わる。
「動くな」
もう一度言った。
男がナイフを強く押し当てる。
「早くしろ!」
キャットの顔が歪んだ。
あと少し。
男の呼吸が乱れた。
肩が動く。
ナイフがわずかに離れる。
今だ。
リョウの身体が沈んだ。
風勢。
十歩の距離を一息で潰す。
その未来が見えた。
だが。
「アニキ!」
キャットが叫んだ。
「オレに構わないでくれ!」
「馬鹿、動くな!」
キャットが男の腕へ噛みついた。
「痛え!」
男の身体が反射的に動いた。
その瞬間、未来が変わった。
助かるはずだった光景が消え、代わりに別の未来が流れ込んでくる。
ナイフ。腹。血。
「やめろ!」
だが、見えたときにはもう、その未来が始まっていた。
男の腕が動き、ナイフがキャットの腹へ突き刺さる。
「キャット!」
リョウの足が地面を蹴った。
今度は未来を見る必要すらなかった。
距離が消える。
男がキャットを放し、後ろへ逃げようとする。
逃がさない。
すれ違いざまに龍牙刀が横へ走った。
男の胸が深く裂ける。
その勢いのまま数歩よろめき、仰向けに倒れた。
二度と動かなかった。
リョウはもう男を見ていなかった。
「キャット!」
倒れる身体へ手を伸ばす。
「まだだ!」
声が響いた。
広場の向こうに、昼間、商隊を笑顔で迎えた村長が立っていた。
手には杖。その先端へ赤い光が集まっている。
「この化け物が!」
火が生まれる。
「《ファイアアロー》!」
炎の矢が夜を裂いた。
リョウの目に、その軌道が映る。
避ければ後ろのキャットに当たる。
ならば避けない。
土勢。
足を止め、腰を落とす。退かない。
龍牙刀を両手で握る。
迫る炎の中心に、魔力の流れと炎の揺らぎ、その中でもっとも脆い一点が見えた。
竜眼がそれを捉える。
「半月」
ただ、まっすぐに振り下ろした。
炎の矢と白刃がぶつかり、炎が二つに割れた。二筋の火がリョウの左右を通り抜け、地面を焼く。
「な……」
村長が目を見開く。
魔法を斬った。
リョウは何も言わない。
龍牙刀に斬れぬものはない。
村長が後ずさる。
「ま、待て」
杖の先に再び炎が灯った。
「待て! 話を――」
だが、リョウはもう待たなかった。
構えが変わる。
火勢。
相手の攻撃を待たず、先に出る。
村長が魔法を完成させるより先に地面を蹴った。
「ひっ!」
村長が慌てて杖を向ける。
その先に炎が集まる。
遅い。
リョウは間合いへ踏み込み、龍牙刀を上段へ取った。
火勢から、そのまま最短の太刀へつなぐ。
「半月」
振り下ろす。
「待――」
肩口から入った龍牙刀が、胸を深く断った。
村長の身体から力が抜け、杖が地面へ落ちる。その口が何かを言おうと動いたが、声にはならなかった。
リョウが刀を抜く。
村長はその場に崩れ落ち、血が土へ広がっていった。
もう動かなかった。
リョウは刀についた血を一度振った。
「終わりだ」
その声を聞いて、残っていた男たちが次々と武器を捨てた。
◇
静かになった。
東の空が、わずかに青み始めている。
倒れていた商隊の護衛たちも少しずつ意識を取り戻していた。村の男たちは武器を捨て、誰かが呻き、誰かが泣いている。死んだ村長のそばでは、落ちた杖の先から細い煙が上がっていた。
だが、リョウにはもうどうでもよかった。
「キャット」
キャットのそばへ膝をつく。
腹から血が流れている。
多い。多すぎる。
「おい」
「……アニキ」
「喋るな」
傷口を押さえる。
竜眼が勝手に、血の流れ、脈、呼吸、そしてその先まで見せてくる。
見たくない。
初めてそう思った。
「じっとしてろ」
「うん」
「今度こそ動くな」
「……分かった」
「信用できるか」
「ひでえなあ」
キャットが少し笑った。
「じっとしてろって言っただろうが」
「うん」
「俺を信じろって言っただろ」
「……うん」
「なんで動いた」
キャットはぼんやりとリョウを見上げた。
「だって……アニキが死んだら、困るじゃん」
「死なねえよ」
「でも……」
「死なねえって言ってんだろ」
リョウの声が震えた。
「見えてたんだよ。お前が助かるところまで」
キャットが目を瞬いた。
「……ほんと?」
「ああ。お前が何もしなければ、助かってた」
「そっか」
キャットはしばらく黙り、それから小さく笑った。
「じゃあ……オレ、余計なことした?」
「ああ」
「そっか」
「だから言っただろ。分からないなら止まれって」
「聞いてたよ」
「聞くだけじゃ駄目なんだよ」
「難しいなあ」
「ああ」
「アニキ」
「なんだ」
「怒ってる?」
「怒ってる」
「そっか」
「死ぬほど怒ってる」
「オレが死ぬのに?」
「そういう意味じゃねえ!」
キャットが笑った。
小さな笑いだった。
「アニキ」
「なんだ」
「オレさ」
「喋るな」
「最後だから」
「最後じゃねえ」
「そう?」
「そうだ」
「アニキが言うなら……そうなのかな」
キャットの目が細くなる。
震える手が少しだけ上がり、リョウの服を掴んだ。
「アニキが無事で、よかった」
その手から力が抜けた。
「おい」
返事がない。
「キャット」
リョウは身体を揺すった。
「おい。起きろ」
返事はなかった。
竜眼は見ている。
弱くなっていく血の流れを。途切れていく鼓動を。
だから、分かってしまう。
キャットは、もう目を開けない。
「キャット……」
リョウはその身体を抱いたまま、動かなかった。
やがて山脈の向こうが赤く染まり始めた。
夜の間は黒い壁にしか見えなかった峰々が、一つずつ輪郭を取り戻していく。高い峰に消え残った雪が朝日を受けて白く輝き、光は山肌を下り、森を照らし、街道を照らした。
村の屋根が赤く染まり、麦畑に朝露が光る。
鶏が鳴いた。
何も知らない鳥たちが飛び立った。
昨日と同じ朝だった。
世界は何もなかったように、新しい一日を始めようとしていた。
リョウは東の空を見た。
眠かった。
ひどく眠かった。
何日も、何年も、ずっと眠かった。それでも眠ることができなかった。
閉じればいいだけのはずの目が、世界を見続けている。見えないものも、まだ起きていないことも。
なのに、目の前にいた一人の少女を救えなかった。
朝日が昇る。
リョウは目を閉じた。
それでも世界は、消えてくれなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




