7.狂女の来訪、そして泥の誓い
アルフレートが王宮からの使者を追い返して数日後。
男爵家の門前に、今度は一台の豪華な馬車が止まった。
御者台に立つのは、見慣れた公爵家の紋章。
そして、馬車から降り立ったのは、怒りに顔を紅潮させた公爵令嬢、セシリアその人だった。
「アルフレート! 何ということをしてくれたの! 私の慈悲を無下にし、あのような下賤な女に誑かされて、王位を蹴るなど!」
セシリアは、かつての婚約者であるアルフレートを見つけるなり、ヒステリックに叫んだ。
彼女の隣には、リサの父から家を奪おうとした嫌味な親戚の男が、嘲るような笑みを浮かべて立っている。
「アルフレート様。セシリア様がここまで寛大に許してくださっているのに、まだあの娘に固執するのですか? リサ嬢、貴女もご自身の立場を理解すべきです。ここは、貴女のような小娘が住むには、もったいないほどの豊かな領地です。男爵家を1人で切り盛りするのは大変でしょう――」
「黙れ。この汚らわしい蛆虫どもが」
アルフレートの声は、地の底から響くように低い。
彼はリサの前に立ち、まるで彼女を守る盾のように、セシリアとその親戚を睨みつけた。
「セシリア。貴様には関係ない。俺は、リサという一人の女に、自ら選んで仕えている。貴様の独善的な支配など、もう必要ないんだ」
「何を……! 私は貴方のために、こうして迎えに……!」
「だいたい、俺を捨てたのはお前だろう。何をしに今更ここまで来たんだ?」
アルフレートの一言に、セシリアが息を呑む。
「追放された後、俺がどうなったか知っているのか? 貴様の差し金か、あるいは貴様の顔色を伺った者たちか……俺は路地裏で襲われ、命乞いをする間もなく暴行を受け、ゴミ溜めの中に転がされた。全身の骨が軋み、傷口が腐り、明日をも知れぬ恐怖の中で死にかけていた。……その時、貴様はどこで何をしていた?」
「それは……貴方が自分の過ちを反省する時間が必要だと思って……」
「反省だと? 俺は死にかけていたんだぞ。貴様が『慈悲』と称して俺を見捨てている間、俺を泥の中から拾い上げ、傷を洗い、生きる価値を教えてくれたのはリサだ。貴様が望んだ通り、俺は一度完全に死んだ。今ここにいるのは、リサによって生かされている別の男だ。……それを今更、どの面下げて迎えに来たと言っているんだ」
アルフレートの瞳には、かつての愛情の欠片も残っていない。
あるのは、ただ目の前の女を「不法侵入者」として排除しようとする冷徹な殺意だけだ。
「嘘よ! その女があなたを騙しているのよ! あなたは私がいなければ何もできない! 私の庇護がなければ、あなたは飢え死にするだけだわ!」
セシリアは、アルフレートが自分に縋ってくるはずだという、根拠のない確信を握りしめていた。
だが、アルフレートは彼女の言葉に、心底つまらないものを見るような顔で答えた。
「飢え死に? 結構だ。リサが許してくれるなら、俺は一生彼女の横で、泥を啜って生きていくさ。……貴様の用意した絹の寝床よりも、リサの家のボロボロのベッドの方が、俺にとってはよっぽど誇らしい居場所なんだ」
その言葉を聞いた瞬間、セシリアの顔から血の気が引いた。彼女の支配は、完全に砕け散ったのだ。
「そんな……! 私のアルフレートが、あんな女の犬になるなんて……! 許さないわ! そこの貧乏男爵の娘! あなた、この男に何を吹き込んだの!?」
セシリアが狂ったようにリサに詰め寄ろうとした、その瞬間。
アルフレートは、その黄金の腕を伸ばし、リサの細い体を背後に隠した。
「セシリア。その一歩でも、リサに近づいてみろ。……たとえ貴様が聖女であろうと、俺がこの手で、容赦なくその喉を掻き切る」
その殺気に、セシリアは後ずさった。アルフレートの目は、本気だった。
だが――それで終わる女ではなかった。彼女は震える喉を抑え、怯えを必死に押し殺して声を作る。
まるで、かつてアルフレートが唯一縋った“慈悲深き聖女”そのものの表情で。
「どうして……そんな目で、私を見るのですか。三年前、あなたが夜毎、私の元を訪れたのは――すべて偽りだったと?」
空気が、ぴたりと張り詰める。
「あなたは言ったではありませんか。『君だけが、俺を理解してくれる』と。『王子という檻から、救ってくれるのは君だけだ』と」
意図的に、甘く、懐かしい響きをなぞる。
それは過去という毒を塗った、あまりに巧妙な一撃だった。
「私は……あなたのために、すべてを捨てる覚悟でここに来たのです。それなのに――その、何一つ持たない小娘のために、私に刃を向けると?」
セシリアは、アルフレートの背後に隠れるリサを一瞥した。
そこにあるのは慈悲ではなく、価値のない石ころを値踏みするような冷酷な視線だった。
「……アルフレート様。目を覚ましてください。この方は、あなたの“仮初めの安息”にすぎません。本当にあなたを救えるのは――あなたの婚約者だった私だけです。私ならあなたの望みを全て叶えられますわ」
一瞬の沈黙。
セシリアは勝利を確信した。
どんな男でも、己の孤独を肯定してくれた過去の自分を否定することはできないはずだ。
だが、次の瞬間、アルフレートが――低く、腹の底から笑った。
「――ああ。やっぱり、お前は何一つ分かってなかったんだな」
完全にリサを庇うようにしてセシリアを睨み据えた。
「お前は昔からそうだ。俺の言葉を、自分の都合よく“聖書”みたいに切り取る。……確かに俺は、お前に『救ってくれ』と言ったかもしれない。だが、お前が差し出したのは、ただの『甘い毒』だ。俺を依存させ、お前という聖女を際立たせるための、飾り立てた檻だ」
アルフレートの声は静かだった。だからこそ、その底知れなさが際立つ。
「俺が欲しかったのは、お前のような美しい救済じゃない。俺を選び、俺を縛り、そして容赦なく突き放す――このリサだ」
彼は迷いなく、断言した。
「お前は俺を『聖女の功績』にしたいだけだ。
だがリサは違う。……彼女は俺を道具として使い、役に立たないと知るとリサは容赦なく捨てるような奴だ」
「それなのに――俺を何度も拾い上げてくれた。」
「この顔を見て『ドタイプ』だと笑ってさ。
中身が空っぽで、価値なんて何もなかった俺に、彼女の隣に立つという意味だけを刻み込んだ」
「俺はそれでいい。
彼女に使われて、捨てられて、拾われるなら、何度でも死ねる」
「……なあセシリア。
それを“不幸”だと思うなら、お前は最初から俺のことを何も見ていなかった」
アルフレートの瞳に、歪んだ恍惚が宿る。
「リサが俺を見なくなったら、その瞬間に俺は終わる。だから俺は、彼女の視界から一歩も出ない。
……それが生きてるってことだろ?」
「そ、そんな……私は、あなたのために……っ!」
「だからだ」
アルフレートが一歩、踏み出す。
先ほどよりも濃密な殺気が、物理的な重圧となってセシリアにのしかかった。
「次にな……その汚い口でリサの名を呼び捨てにしてみろ。その瞬間に喉を裂く。“聖女”だろうが、“過去”だろうが、俺には関係ない。俺の世界の法は、リサ。ただ一人だ」
その言葉を合図にするように、背後からリサが、静かに、けれど重い音を立てて使い古しの鎌を地面に突き立てた。
「……話は済んだかしら。過去の思い出話でお腹が膨れるほど、うちは裕福じゃないの。セシリア様、お帰りはこちらよ」
冷徹なリサの追撃に、セシリアの顔色はみるみる蒼白になり、自尊心プライドと共に崩れ落ちた。
「公爵令嬢セシリア様。お忘れかもしれませんが、この家は私のもの。部外者が騒ぎ立てる場所ではありません。……それから、貴女の隣の男は、三年前、私の家を騙し取ろうとした者です。今すぐお引き取りを。さもなくば、不法侵入と家屋損壊で訴えさせていただきます」
「な、何だと!? この小娘が!」
親戚の男が顔色を変えて叫ぶ。
リサは冷たい視線で彼を射抜き、手元にあった使い古しの鎌を、音もなく地面に突き立てた。
「私の父の負債は、もうすぐ全て返し終えます。その時、貴方たちが持ち去った我が家の家宝の返還を求める訴状が届くでしょうね。……もちろん、利子と慰謝料もきっちりいただきます」
リサの言葉に、親戚の男は狼狽し、セシリアも言葉を失った。 そしてアルフレートは、満足そうにリサの頭を撫でた。
「流石だな、リサ。やはり俺の女は、俺の隣に立つに相応しい」
「あんたは黙ってなさい。……さあ、邪魔よ。早く帰ってちょうだい。朝から騒がしいと、近所迷惑になるでしょう」
リサに冷たくあしらわれたセシリアは、屈辱に顔を歪めながら、何も言えずに馬車へと戻っていった。 彼女の支配欲は、リサのリアリズムとアルフレートの狂気によって、完全に打ち砕かれたのだ。
それから数年後。
王国の第一王子アルフレートは「謎の病」を理由に王位継承権を放棄し、公爵令嬢セシリアもまた、表舞台から姿を消した。
だが、その裏で、とある貧乏男爵家が驚くほどの勢いで豊かになり、その領地は王都からも一目置かれるほどの発展を遂げていた。
領地を治めるのは、元王子のアルフレートと、彼の妻となった元男爵令嬢リサだ。
彼は領民のために働き、リサの指示一つで荒れた土地を肥沃な畑に変え、街道を整備し、賊を討伐する「狂気の英雄」と化していた。
その顔は、かつての傲慢さは影を潜め、どこか穏やかで満たされている。
しかし、リサが他の領民と談笑するのを遠くから見た時、彼の瞳の奥には、今も獲物を捉える獣のような光が宿っていた。
「……リサ。今日の夕食は、俺が作ったスープだ。どうだ、美味いだろう?」
夕食の席で、アルフレートは当然のようにリサの隣に座り、彼女の顔色を伺うように尋ねる。
その距離は、もはや「夫婦」という言葉でも足りないほどに近い。
リサの膝の上には、一匹の黒猫が丸まっていた。
リサが細い指先で猫の耳の後ろを優しく撫でるたび、猫は喉を鳴らして甘える。
その光景を、アルフレートはスープの匙を握りしめたまま、恐ろしいほどの熱量で見つめていた。
「そうね。及第点よ。……でも、もう少し塩を控えめにしなさい」
「……リサ」
「何よ」
「……その猫、どかしてくれ。俺がそこに座る。もしくは、俺もその猫と同じように撫でてくれ。……いや、その猫より長く、俺に触れてくれ」
元王子の「狂気の英雄」が、領民が聞けば腰を抜かすような甘ったれた声を出す。
リサは冷めた目で彼を見やった。
「あんたね……。猫相手に本気で嫉妬するなんて」
アルフレートは、何も言わずにリサの膝に額を預けた。
甘えるようでも、縋るようでもない。
それは、そこに「壁」があることを確かめるような、重く、静かな沈殿だった。
「……なに、急に」
リサの声に、彼は肺の奥まで彼女の匂いを吸い込む。
「今日さ。……君がいなくなる夢を、見なかったんだ」
「それ、良かったじゃない。快眠ね」
「うん。だから一日中、ちゃんと息ができた気がする」
リサの手が、ぴたりと止まる。
「……それ、普通に怖いんだけど。自覚ある?」
アルフレートは、否定しなかった。ただ、深く沈んだ声で言った。
「知ってるよ。……君がいなくなったら、俺、たぶんまた“戻る”から」
「戻るって、どこに。あの王宮?」
「いいや。路地裏とか。ゴミ溜めとか。……何も考えず、ただ死ぬのを待つだけの場所」
リサは眉を寄せ、彼の顎を指で強引に押し上げた。
「やめなさい。……そういう、自分を安売りするような言い方」
視線が交差する。彼の瞳には、冗談の欠片も、卑屈さすらもなかった。
そこにあるのは、純粋すぎて透き通った狂気だ。
「ねえ、リサ。俺さ、君が俺を捨てる可能性を、毎日ちゃんと考えてるんだ」
「……は?」
「捨てられても壊れないように。……でも、もし壊れてしまっても、また君に拾ってもらえるように」
リサは、完全に言葉を失った。
この男は、自立しようと足掻きながら、その実、捨てられた後の「再回収」までを計算して絶望している。
「大丈夫だよ。捨てられたら、大人しくする。君の邪魔もしない。ただ――」
彼は、リサの服の端を、震える指先でそっと掴んだ。
「君がいつか通りかかった時に、『あ、まだ生きてたんだ』って。そう思ってもらえたら、それだけでいいんだ」
完全にアウトな台詞だった。
愛でも、信頼でもない。それは呪いに近い。
「……あんた、ほんとに重いわ」
リサは深く溜息をつき、自らの額を押さえた。
「それ、愛情じゃない。ただの執着と、底なしの不安の塊よ」
「うん」
即答だった。
「でも、君がこうして触ってくれると、その塊が全部、静かになるんだ」
リサがたまらず手を引こうとすると、アルフレートの指が、反射的に彼女の手首を掴んだ。
強くはない。
けれど、そこには「離れる」という選択肢を最初から抹消した者の、迷いのない重みがあった。
リサは一瞬だけ、真顔になった。
「……離しなさい」
彼は、弾かれたように手を放した。
「ごめん。……今のは、良くなかった」
そのあまりに素直な謝罪が、逆にリサの毒気を抜く。
彼女はしばらく彼を見下ろしていたが、やがて諦めたように、指先を再び彼の黄金の髪に落とした。
「……今日だけよ」
「うん」
「私がいなくても死なない練習、ちゃんとしなさいって言ってるでしょ」
「努力はするよ」
「努力で済ませるな。完遂しなさい」
そう言いながらも、リサの手つきは、さっきよりもずっとゆっくりとしたものに変わっていた。
アルフレートは安堵したように目を閉じる。
「……ねえ、リサ。君が俺を面倒だと思ってるの、実は好きなんだ」
「意味わかんない。変態なの?」
「見捨てない理由が、情じゃなくて『義務』だから。……君は義務を、絶対に見捨てないだろう?」
リサは心の中で舌打ちした。
自分の性格を逆手に取った、この男なりの狡猾な生存戦略。
「ほんとに……救いようのない男ね、あんたは」
「うん。だから、君のところにいる」
その答えに、リサは何も言い返せなかった。
ただ、撫でるのをやめなかった。
逃げ場はない。けれど、ここには確かに。
互いの体温を分け合う、「生きている」という重さだけが、そこにあった。
「……本当、救えないわね。分かったわ。そこまで不安なら、もっと物理的で、一生かかっても切り離せない『鎖』を用意してあげる」
リサの言葉に、アルフレートが怪訝そうに眉を上げた。
「鎖……? 重い仕事なら、いくらでもこなすつもりだけど」
「結婚して子供作って幸せになるわよ。そしたらあんたも私も逃げられないわね」
リサが淡々と、けれど少しだけ照れくさそうに告げた――。
個人的に「顔がいいだけのメンヘラ王子」がとても性癖にささりました。
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