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『鑑定スキル10億の男、辺境で「名もなきネズミ」と眠る 〜世界を救うのはもう飽きたので、情報の届かない森で静かに暮らします〜』  作者: ジェミラン


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第5話:雨の音を聴くための魔法

 空の色が、不吉なほど深い紫に染まっていた。  風は止まり、森の木々も息を潜めている。動物たちはとうに姿を消し、ハクだけがゼノの首元で、微かな震えを伝えてきていた。


 村の若者が息を切らせて坂を登ってきたのは、午後を回った頃だった。


「ゼノさん! 早く、村の避難所へ! 帝国の気象観測班が、歴史的な大嵐が来ると警告を出したんだ!」


 若者の手には、帝国から配られた簡易的な魔導端末が握られていた。そこには赤い文字で【災害規模:極大。生存確率:低下】と、ゼノがかつて見飽きた不吉な数字が踊っている。


「わざわざありがとう。でも、私はここに残ります」


「何を言ってるんだ! この古い小屋じゃ、一溜まりもないぞ!」


「大丈夫ですよ。……私には、これがありますから」


 ゼノが示したのは、使い込まれた手回しのコーヒーミルだった。若者は彼を「正気を失った隠居人」と判断したのか、諦めて坂を駆け下りていった。



 やがて、世界が咆哮を始めた。



 大気を引き裂くような落雷。森の巨木を容易くなぎ倒す暴風。帝国なら都市防衛用の結界を幾重にも展開し、魔導砲で雲を散らそうとするレベルの猛威だ。番小屋の壁が悲鳴を上げ、窓ガラスが激しい振動に震える。

 ゼノは、ハクを肩に乗せたまま、静かに立ち上がった。


「ハク。……少しだけ、本気を出しましょうか」


 ゼノは右手を空中に掲げた。  かつて、一国を焼き払う戦略魔術さえも容易く防ぎ止めた、帝国最強の防御魔法――『黄金の(アブソリュート・)絶対圏(オーラム)』。


 本来ならば、視界を焼き尽くすほどの光の壁が展開されるはずだった。だが、今のゼノが紡ぐ術式は、かつてのものとは根本から異なっていた。


(輝きはいらない。強固さも、最小限でいい。……私が欲しいのは、ただの『遮音』だ)


 ゼノは右指を繊細に動かし、術式の幾何学模様を空中で書き換えていく。編集者が原稿の無駄な修飾語を削ぎ落とすように、過剰な防御性能をすべて「音響調整」へと振り替えていく。

 展開されたのは、薄く、透明な膜だった。  それは番小屋を包み込むと同時に、外の暴力的な風の音を、驚くほど澄んだリズムへと変換し始めた。


 ――トトト、トン。  ――タタ、タン。


「……おや、いい響きだ」


 窓を叩く雨粒は、ゼノが調整した魔法の膜に触れた瞬間、最高級の打楽器が奏でるような小気味よい音へと変わった。暴風の咆哮は、チェロの重低音のような心地よい旋律となって小屋の中を満たす。

 ゼノは、再び椅子に腰掛けた。  ハクが驚いたように耳をピクピクさせ、やがて「プー」と満足そうに、魔法の膜が吸い込みきれなかった「微かな魔力の余韻」を美味しそうに食べた。

 外は、地獄のような大嵐。  だが、この透明な結界の内側だけは、世界で最も贅沢な音楽ホールと化していた。


 ゼノはコーヒーを淹れ始めた。  一滴、一滴。お湯が粉に染み込んでいく。  通常、この規模の防御魔法を維持するには、膨大な精神力と魔力を消費する。並の魔導師なら数分で気絶するだろう。だが、ゼノはそれを「雨音のイコライジング」のためだけに、涼しい顔で使い続けていた。


(帝国が知れば、激怒するだろうな)


 国家を救うための魔法を、自分一人で雨音を聴くために浪費する。  これ以上の背徳があるだろうか。これ以上の贅沢があるだろうか。

 コーヒーの香りが、雨音のリズムに乗って部屋の隅々まで漂う。  ゼノは棚から、帝国時代には忙しくて一ページも開けなかった、古い詩集を取り出した。


「ハク。……雨の日は、読書に限りますね」


 ハクはゼノの膝の上で、心地よい音楽()を聴きながら、すやすやと眠り始めた。    数時間後、嵐が過ぎ去ったあとの森には、見たこともないほど清廉な静寂が訪れていた。  ゼノは魔法を解き、窓を開けた。  濡れた土の匂い。洗い流された大気。    最強の力を「消費」して手に入れたのは、勝利の栄光でも、巨万の富でもない。  ただ、一冊の本を読み終えるための、穏やかな数時間だけだった。

 ゼノは、空になったカップを見つめて微笑んだ。


「……悪くない。数字には残らないけれど、私の記憶には、生涯で最高の演奏会として記録されましたよ」


 番小屋の煙突から、一筋の煙がのんびりと立ち上っていく。  村人たちが嵐の被害を確認し合う喧騒さえも、今のゼノには、遠い国の物語のように優しく響いていた。

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