第4話:かつての部下と、鳴り止まない数字
その日は、朝から空気が「硬かった」。 番小屋の周りを取り囲む森のざわめきが、いつになく鋭利な響きを帯びている。ハクが朝から落ち着きなく、ゼノの肩と頭の上を往復しては、「プ、プッ!」と短く警告を発していた。
「……誰か、来ますね」
ゼノは手回しミルのハンドルを止めた。 坂道を登ってくる靴音。それは村人の不規則な歩調ではない。軍靴のように正確で、一点の無駄もないリズム。 やがて、番小屋の前の藪をかき分け、一人の女性が姿を現した。
銀髪を完璧な夜会巻きにまとめ、泥ひとつついていない帝国の官服に身を包んだ女性。彼女が足を踏み入れた瞬間、ゼノの視界がにわかにバグを起こしたように歪んだ。
「……カイル。君か」
「お久しぶりです、ゼノ筆頭官。いえ、今はただの『隠者様』とお呼びすべきでしょうか」
カイル。ゼノがかつて最も信頼し、その右腕として「情報の扱い方」を叩き込んだ愛弟子だ。 彼女の胸元には、帝国最新鋭の魔導デバイス『全方位鑑定核』が鎮座していた。それが放つ不可視の魔力波が、ハクが守っていた静寂を強引に切り裂いていく。
【走査中:対象個体――ゼノ。魔力残量:計測不能。精神状態:著しい停滞……】
ゼノの網膜に、強制的な通知ウィンドウが次々とポップアップする。 ハクが「プッ!!」と激しく鳴き、彼女の魔力波を吸い込もうとするが、最新鋭のデバイスが吐き出す情報の濁流は、小さなハクの処理能力を上回ろうとしていた。
「やめなさい、カイル。ここではその機械は『騒音』でしかない」
「騒音? 心外ですね。これは帝国のGDPを昨年比で12%向上させた、人類の至宝ですよ。……閣下、遊びは終わりです。中央鑑定院は今、あなたの力を必要としています」
カイルは一歩詰め寄り、空中にホログラムを投影した。 そこには、帝国の株価指数、隣国との軍事バランス、そして無数の人々の「幸福度」が折れ線グラフとなって乱舞していた。
「あなたがいなくなってから、数字が『揺らいで』いるんです。誰も、確実な未来を断言できなくなった。人々は不安がり、市場は停滞しています。あなたが戻り、この混沌とした世界に再び『正しいラベル』を貼ってくれさえすれば……」
ゼノは、カイルの背後に広がるグラフの群れを、ひどく冷めた目で見つめていた。 かつての彼なら、そのグラフのわずかな歪みを見抜き、一瞬で最適解を導き出せただろう。だが今、彼の目に映るのは、美しく整えられた「嘘」の羅列に過ぎなかった。
「カイル。君には、この森の鳥の声が聞こえるか?」
「鳥? ……ああ、環境音の解析データなら、後で提出させますが」
「そうじゃない。……ハク、少しだけ我慢してくれ」
ゼノはハクを優しく撫で、カイルの持つデバイスにそっと手を触れた。 鑑定官としての全能の力が、一瞬だけゼノの指先に宿る。
「……! 何を……」
カイルが驚愕に目を見開く。彼女のデバイスが吐き出していた複雑な統計データが、一瞬にして書き換えられた。 投影されたホログラムに表示されたのは、たった一行。
【現在の状況:コーヒーを淹れるのに最適な、静かな午前】
「何です……この、ふざけたデータは」
「ふざけてなどいない。これがこの場所の『真実』だ。カイル、君の機械は、目の前にあるこの空気の美味しさも、私が今から淹れるコーヒーがどれほど苦いかも、一文字だって記述できていない」
ゼノは彼女を無視して、再びミルのハンドルを回し始めた。 ゴリ、ゴリ、という鈍い音が、静まり返った番小屋に響く。
「君が持ち込んでいる数字は、世界を分かりやすくしてくれるかもしれないが、世界を『感じさせて』はくれない。私はもう、説明されるだけの人生には飽きたんだ」
ゼノは沸騰したお湯を、丁寧に、ゆっくりと粉に注いだ。 香ばしい香りがカイルの鼻先をかすめる。彼女のデバイスが【嗜好品:コーヒー。中毒性:低】と無機質なラベルを表示したが、カイルは思わず、その香りに視線を奪われていた。
「……閣下。あなたは、この価値のない生活のために、帝国の未来を捨てるというのですか?」
「価値がない、か。なるほど、君の物差しではそうなるんだろうね」
ゼノは一杯のコーヒーを、カイルの前に置いた。
「カイル。その機械の電源を切りなさい。そして、このコーヒーを飲み干すまでの四分間……何も考えず、ただ『苦い』ということだけを味わってみろ。それができたら、君の鑑定結果を信じてやろう」
カイルは反論しようとしたが、ゼノの瞳にある、あまりにも深い静寂に気圧された。 彼女はためらいながらも、デバイスのスイッチを落とした。 途端に、視界を覆っていたウィンドウが消滅する。 番小屋に、本当の沈黙が戻ってきた。
カイルは、おそるおそるカップを口に運んだ。
「…………にが、い」
「そうでしょう。……そして、少しだけ、熱い。それが君がいま生きている、剥き出しの現実だ」
四分後。 カイルは空になったカップを置き、黙って立ち上がった。 彼女の表情からは、先ほどまでの攻撃的なエリートの影が消え、どこか迷子のような幼さが残っていた。
「……分かりません。今の私には、この『無駄な四分間』の価値を、どう報告書に書けばいいのか」
「書かなくていいんだ、カイル。報告されない時間にこそ、人は生きているんだから」
カイルは深く一礼し、森を去っていった。 彼女の足取りは、来た時よりもずっと重く、しかしどこか人間らしいリズムを刻んでいた。
再び二人きりになった番小屋で、ハクが「プー。」と大きく溜息をついた。
「お疲れ様、ハク。……また少し、コーヒーのストックが減ってしまいましたね」
ゼノは窓の外を見つめた。 帝国はまだ、彼を諦めていないだろう。 だが、今の自分には、この静寂を守り抜くための「最強の意志」がある。 ゼノは最後の一口を飲み干し、再び自分だけの「名もなき時間」へと沈んでいった。




