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『鑑定スキル10億の男、辺境で「名もなきネズミ」と眠る 〜世界を救うのはもう飽きたので、情報の届かない森で静かに暮らします〜』  作者: ジェミラン


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第3話:名前のない来訪者

 森に雨が降っていた。  番小屋のトタン屋根を叩く雨音は、王都の整然とした音楽とは違い、どこまでも不規則で、どこまでも執拗だ。


「……プ。……プ。」


 膝の上で、ハクが雨音のリズムに合わせて小さく鳴いている。ハクが時折、空気を吸い込む仕草をするたびに、ゼノの脳裏に浮かびかけようとする「雨量予測」や「土砂災害確率」といった無機質な数字が、ふっと霧消していく。  数字の消えた世界で聞く雨音は、これほどまでに豊かな重低音を響かせるものだったか。ゼノは古びた本の一節をなぞる指を止め、窓の外の深い緑を見つめた。


 その時だった。  庭の境界線――世俗と森を分かつ、あの歪な柵の向こうに、「それ」は現れた。

 最初は、泥の塊かと思った。  だが、それは四本の足で立ち、濡れた毛を重そうに揺らしながら、一歩、また一歩と番小屋の軒先へ這い寄ってくる。    ゼノの右目が、無意識に熱を帯びた。  かつて彼が「帝国最強」と呼ばれた所以たる、自動鑑定スキルが牙を剥こうとする。視界の端に、警告を告げる赤いウィンドウが火花を散らす。


【警告:指定個体――『影踏みの黒獅子(シャドウ・レオ)』の幼体。危険度:S。推定戦闘力:3200。即時の排除を推奨】


(……黙れ)


 ゼノはこめかみを押さえ、無理やり意識を「数値」から引き剥がした。

 ハクが「プッ!」と鋭く鳴き、ゼノの肩に飛び乗る。瞬間、赤いウィンドウは粉々に砕け散り、後に残ったのは、冷たい雨に打たれて震える「一匹の、小さくて惨めな生き物」の姿だけだった。


「……雨宿りですか」


 ゼノは立ち上がり、ゆっくりと扉を開けた。  そこには、獅子というにはあまりに細く、全身に深い傷を負った黒い獣がいた。帝国の書物によれば、一国を滅ぼす災厄の芽。だが、今ゼノの瞳が捉えているのは、空腹と寒さで瞳の光を失いかけている、名前も持たない命だ。


 黒い獣は、ゼノの姿を認めると、低い唸り声を上げた。それは本能的な敵意というよりは、拒絶されることを恐れる子供の悲鳴に近かった。


「怖がらなくていい。今の私は、君の価値を測る物差しを持っていませんから」


 ゼノはキッチンへ戻り、昨日村の市場で手に入れた干し肉と、温めておいたミルクをボウルに入れた。  本来、このレベルの魔獣には「魔力純度の高い魔核」を与えるのが効率的だろう。だが、ゼノはあえて、人間が食べるのと同じ、温かくて不格好な食事を差し出した。


 軒先に置かれたボウル。  黒い獣は疑わしげに鼻先を動かし、やがて、貪るようにミルクを飲み始めた。  ゼノはそれ以上近づかず、少し離れた場所に座り込んで、ただその様子を眺めていた。


「ハク。あの子の傷、鑑定すれば治し方も一瞬でわかるんだろうけれど……それは、野暮ですよね」


 ハクはゼノの首元に顔を埋め、じっとしている。  ゼノは薬箱から、魔法の付与されていないただの布と、森で摘んだ消炎効果のある薬草をすり潰したペーストを持ってきた。    もし、帝国時代の彼がこれを見たら、「効率が悪すぎる」と一蹴しただろう。魔法を使えば数秒。だが、ゼノは一時間以上かけて、怯える黒い獣の体を丁寧に拭い、ペースト状の薬草を傷口に塗布していった。

 獣の唸り声が、徐々に消えていく。  やがて、雨音が心地よい子守唄に変わる頃、黒い獣はゼノの足元で、丸くなって眠りに落ちた。



 翌朝。  雨は上がり、森には眩しいほどの光が差し込んでいた。  ゼノが目を覚ましたとき、足元にあった温もりは消えていた。    開け放たれた扉の向こう、森の奥へと続く足跡が一つ。  黒い獣は、一言の謝辞も、一欠片の魔力も残さず、ただ静かに去っていった。


「行ってしまいましたね」


 ハクが鼻先で、黒い獣が寝ていた場所を突ついている。  そこには、鑑定すれば「希少な魔力残渣」として高値で売れるであろう、黒い抜け毛が数本落ちていた。

 ゼノはそれを拾い上げ、鑑定することなく、風の中に放した。


「名前をつけなくて、よかった。……あの子はあの子のまま、ただの獣として生きるのが一番いい」


 もし名前をつければ、それは所有になり、執着になり、やがては「評価」へと繋がってしまう。  ゼノが求めていたのは、そんな鎖のない世界だ。    彼はいつものようにコーヒー豆を手に取り、ハンドルを回し始めた。  ゴリゴリ、という確かな振動。  誰にも評価されない善行。誰にも知られない交流。  その「意味のなさ」こそが、今のゼノにとっての、何にも代えがたい報酬だった。


「さあ、ハク。今日も最高の『無駄』を楽しみましょう」


 ゼノの淹れたコーヒーの香りが、雨上がりの澄んだ空気の中に、ゆっくりと溶けていった。

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