第1話:ステータス画面を閉じる日
――チッ、チッ、チッ。 耳の奥、あるいは脳の髄に直接響くようなその音は、帝国中央鑑定院が受信し続ける「情報の更新音」だ。 一秒間に数万件。隣国の穀物価格の変動、国境付近の魔力濃度の揺らぎ、騎士団が新調した剣の硬度。ゼノの視界には、意識せずともあらゆる対象の「価値」が、半透明のウィンドウと無機質な数字となって溢れ出していた。
「ゼノ筆頭官。次期、北方防衛線の予算案、鑑定結果の確定をお願いします」
若き部下が差し出した、束になった羊皮紙。ゼノはそれを手に取るまでもなく、視線を向けただけで「内容」と「その後の損失」を弾き出していた。
【北方防衛予算案:鑑定結果――実行時の国防成功率82%。ただし、3年後の国庫への負担増大により破綻リスク14%上昇】
視界の端で、数字が不気味に明滅している。 ゼノは深いため息をつき、目の前に置かれたティーカップに手を伸ばした。最高級の茶葉、完璧な温度で蒸らされたアールグレイ。だが、今の彼にはそれが「管理された情報の味」にしか感じられない。
(……うるさいな)
口の中に広がるベルガモットの香りでさえ、鑑定スキルは【覚醒作用:中、リラックス効果:32点】と無慈悲にラベルを貼っていく。 かつて作家を夢見ていた頃の彼は、もっと世界の「手触り」を信じていたはずだった。言葉にできない感情、数値化できない夕暮れの美しさ。だが、鑑定官として頂点に登り詰めた今の彼にとって、世界は単なる「データ」の集積所に成り下がっていた。
「ゼノ筆頭官?」
返答を待つ部下の顔を見る。部下のステータスさえもが見えてしまう。 【名前:カイル。忠誠度:88点。昨夜の睡眠不足による集中力低下:12%】
「カイル」
「はっ」
「辞めます」
「……はい、本日中に……えっ?」
カイルが間の抜けた声を上げた。ゼノは、耳元で鳴り止まない通知音を物理的に振り払うかのように、強くまぶたを閉じた。そして、精神の底から、これまで一度も逆らったことのない「システム」に拒絶を叩きつけた。
「私は今日で、数字の届かない場所へ行く。二度と、私の価値を測らせない」
ゼノは、帝国の紋章が刻まれた重厚なローブをその場に脱ぎ捨てた。
一週間後。 ゼノは、帝国から遠く離れた辺境の森を歩いていた。 背負った革鞄の中身は驚くほど軽い。帝国で最も高価だった魔法鑑定具の代わりに、市場の片隅で手に入れた、まだ火も通していない生豆のコーヒーと、小さな手回しの焙煎器が入っている。
足元の泥が、靴の裏でぐにゃりと沈む。 王都の石畳では決して味わえなかった、不快で、しかし確かな「生」の感覚。 歩き続けて数時間。たどり着いたのは、村の人間でさえ滅多に足を踏み入れない、森の深い場所にある古い番小屋だった。 屋根には苔がむし、壁の隙間からは風が吹き込む。かつて豪華な屋敷に住んでいたゼノにとって、それは「不完全さ」の塊のような場所だった。
「……ここなら」
ゼノが独り言をこぼすと、足元の茂みが不自然に揺れた。
そこには、一匹のネズミがいた。 くすんだ灰色の毛に、ところどころ苔のような緑が混じっている。おはじきのような黒い目は、何も映していないかのように無機質だ。普通の鑑定官が見れば、迷わず「価値ゼロの害獣」として掃き捨てるだろう。
ゼノは無意識にスキルを発動しようとして、それを踏みとどまった。
「おや……」
その瞬間、不思議なことが起こった。 ネズミが「プ。」と小さく空気の抜けるような音を出すと、ゼノの脳裏で点滅し続けていた最後の通知音――消し忘れていたステータスウィンドウの残滓が、霧が晴れるように消え去ったのだ。
耳鳴りが止む。 世界から「数字」が消え、ただの森が、ただの森としてそこに現れた。
ゼノは、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。 冷たい地面の温度。風が木の葉を揺らす不規則なリズム。それらはどれも数値化できないほど複雑で、そしてあまりに美しかった。
「君が、消してくれたのか。……この騒々しい世界を」
ゼノは泥で汚れた膝をつき、目の前の小さな生き物へ、そっと手のひらを差し出した。 これまで何万という「高価値なもの」を指し示してきた手だ。だが、今のゼノにとって、指先にかすかに触れたこのネズミの柔らかい毛並み以上に、確かな価値を持つものなどこの世に存在しなかった。
「ここはひどくボロいけれど、静かさだけは保証しますよ。……どうでしょう、私と一緒に来てくれませんか」
ネズミは返事をしない。ただ、ゼノの手のひらに鼻先を寄せ、くんくんと匂いを嗅ぐと、当然のような顔をして彼の手を足場に、肩の上へとよじ登った。 そのままゼノが鞄を開けると、中にある焙煎器の横に自分専用の居場所を見つけたかのように、丸くなって収まった。
ゼノは笑った。帝国で一度も見せたことのない、力の抜けた笑いだった。
「名前も知らない君。……よろしく。今日からここが、私たちの隠れ家だ」
ゼノはネズミ――ハクを背負ったまま、番小屋の扉を静かに開けた。 これから一時間かけて、豆を焼き、火を熾し、お湯を沸かす。 誰のためでもない、自分のための「無駄な時間」が、ようやく始まった。




