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クッキングシンフォニー  作者: 双鶴


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9/12

8話

放課後の帰り道。校門を出て並んで歩く二人の影が夕陽に伸びて、アスファルトの上で寄ったり離れたりする。湊は何度も心の中で台詞を並べ替え、喉の奥で躓いた言葉を飲み込んで、また組み直す。指先が制服のポケットの縫い目をなぞる癖が止まらない。夕陽が美咲の髪に金色の縁を作り、横顔の睫が長く見えて、そのたびに勇気が少し削がれる。けれど、今言わなければ、この気持ちはまた棚に戻されてしまう。息を整え、胸の鼓動を数え、湊は足を半歩だけ前に出した。


「……あのさ、美咲。今度の日曜日、横浜の中華街に行かない?飲茶、食べ歩きしながら、いろんな料理を見て、アイデアのメモも取ってさ」


料理部員らしい理屈を被せた言葉は、最後の「さ」で少し震えた。心の奥では「ただ一緒にいたい」という本音が渦巻いていて、料理研究という建前に隠すことでしか勇気を出せなかった。美咲は驚いたように目を丸くし、それから頬がふわりと熱を帯びて視線が下がる。制服の袖口を指で触れながら、小さく息を吸う音が聞こえた。


「……うん、行こう。楽しそう。勉強にも、なるしね」


その「勉強にも」が照れ隠しだと互いに分かっていて、言い終えた瞬間、二人の間に柔らかい安堵が落ちる。言葉はそれ以上増えなかったけれど、靴のステップが少し軽くなる。別れ際、またね、と手を振る美咲の指先が夕陽を跳ね返し、湊は胸の奥で小さくガッツポーズをしていた。


---


日曜日までの時間は、期待と不慣れが交互に波のように押し寄せる。美咲は鏡の前で何度も立っては座り、トップスを替え、スカートとパンツを入れ替え、スニーカーを履いてはローファーに戻し、髪を下ろしてはハーフアップに結ぶ。光の下で布の色がどう見えるか、屋外で風が強かったら髪がどう乱れるか、肩のラインが強調されすぎないか、鞄を斜めがけにしたら子どもっぽく見えないか――ひとつひとつに心臓が反応する。手首に薄くハンドクリームを塗ると、甘い香りが広がり、ふと「近くで匂うかな」と想像して頬が熱くなった。教科書の間からメモ帳を取り出し、「料理の香り」「食べ歩き向きの構成」「屋台の導線」などと真面目に見えるキーワードを書き散らすが、ページの端には小さく「緊張しすぎない」と自分宛のメモ。


湊も慣れない街歩きの段取りに右往左往する。歩きやすい靴、汚れても気にならないトップス、でも写真を撮ったときにだらしなく見えない組み合わせ。鞄にはノートとペン、消毒ジェル、ミニサイズのウェットティッシュ、そして「小籠包は熱い」という注意を書いた付箋。無意味に思えるほどの準備が、心の揺れを少しずつ落ち着かせる。鏡の前で襟を整え、前髪を微調整し、深呼吸をしてから、またやり直す。スマホのメモには「待ち合わせ、駅改札。天気→晴れ。横浜中華街ルート案:善隣門→屋台通り→点心→胡麻団子→杏仁→休憩」と妙に具体的なプラン。最後に「笑う、焦らない、歩幅を合わせる」と三本線で引いた。


---


日曜日、駅の改札前。緊張で少し早く着いた二人は、互いを見つけた瞬間、ぎこちない笑顔を交わす。近づく足音、照れた「おはよう」、服の色の第一印象の新鮮さ。並んで歩き出すと、街の喧騒が遠くでわっと膨らんで、それが背中を押した。


中華街の門をくぐると、世界が色を変える。赤と金の装飾が視界に咲き、龍の彫刻が陽を受けて光る。屋台から立ち上る湯気は白く濃く、冬の空気に線を描く。八角の甘い香りと花椒の痺れる香りが風に乗って鼻腔をくすぐり、油が弾ける軽い音、鉄鍋が火を抱く「ごぅ」という低い音が背中に響く。観光客が写真を撮り、子どもが団子を頬張り、屋台の店員が威勢よく声を張り上げる。人々のざわめきの中で、二人の間だけが少し違う空気をまとっていた。


最初は小籠包。竹籠の蓋を開けると、湯気の向こうで薄い皮が半透明に震えている。レンゲに乗せると重さが指先に伝わり、皮をほんの少し裂いた瞬間、熱い肉汁が一気に溢れ出して、湯気と香りが顔に押し寄せる。豚肉の旨みと生姜の香りが舌の奥に広がり、熱が耳の内側まで届く。


「これ、熱いから気をつけて。ゆっくりね」


湊がレンゲを差し出す。美咲の指先が湊の指にかすかに触れただけで、二人の呼吸が一拍分ほど乱れる。レンゲの滑らかな縁の冷たさと、指の温度の差が意識に入り込み、視線を逸らした先にも互いの横顔がいる。美咲が「ふう」と息を吹きかけると、その吐息が湯気に混じり、ほんの少し湊の頬に当たる。彼はそれに気づいたのか、目の焦点が一瞬だけ揺れた。小籠包を噛むと、香りが鼻に抜け、舌の上で肉汁が広がり、熱が落ち着いたところで旨みの厚みがはっきりする。二人は目を見合わせ、言葉の代わりに笑った。


次は胡麻団子。真っ白い胡麻がぎっしりと表面を覆い、揚げ油から引き上げられたばかりの団子は、指先にじんわり温度を残す。噛んだ瞬間、胡麻の香ばしさが口内に弾け、もちもちとした歯ごたえが楽しい。中の餡は控えめな甘さで、胡麻の香りが主役になる。口元を拭うとき、渡した紙ナプキンでまた指が触れて、美咲の耳朶に淡い色が差す。二人とも気づかないふりをするけれど、胸の鼓動はそれぞれの身体の中でよく響いている。周囲では観光客が「熱いね」と笑いながら頬張り、屋台の店員が次々と団子を油に落とす音が響いていた。そんな賑わいの中で、二人の間だけが静かに熱を帯びていた。


麻婆豆腐の屋台では、赤い油の層の向こうで豆腐が揺れ、匙がすくうたびに花椒の香りが立ち上る。ひと口食べれば、痺れが舌の側面にじわりと広がり、辛さの熱が喉の奥へ滑り落ちる。美咲は「痺れる……!」と目を丸くして笑い、湊は「この香り、香道の沈香に近い深さがある」と真面目に分析したかと思うと、次の瞬間には美咲の横顔に見惚れて言葉を落とす。店先の大きな中華鍋が火柱を吐き、金属音が一瞬だけ高く鳴って、それが二人の会話に短い間を作った。観光客が写真を撮り、子どもが辛さに顔をしかめる。その光景の中で、二人の笑い声は小さくも鮮やかに響いていた。


杏仁豆腐で熱を鎮める。白い器の上に薄い金色のシロップが光り、スプーンを入れるとぷるんと震える。口に含むと、冷たさが舌の上から喉に落ち、杏仁のやわらかな香りが鼻腔の奥でほどける。美咲が「好き」と言って目を細めると、湊はその「好き」が料理なのか、この時間なのか分からなくなって、結果的にどちらにも頷いた。スプーンを渡す手が重なり、金属の冷たさを介して、指先の体温が混ざる。二人はまた目を逸らして、同時に小さな笑いが漏れる。周囲の人々は甘い香りに誘われて列を作り、店員が器を次々に並べていたが、二人にとってはその一皿が世界の中心だった。


人の波から少し外れて、路地の影に入ると、香りの層が薄くなる。屋台の看板の赤が夕方の光で柔らかくなり、紙提灯の光はまだ昼と夜の間で揺れている。歩き疲れた足の裏には軽い熱があり、食べたものの香りが服の繊維にうっすらと染み込んでいる。そのまま足を延ばして、海へ。


山下公園。海の青は午後の名残と夕方の始まりの間で少し灰色がかり、波の縁だけが白く光る。潮風が頬を撫で、髪をほんの少し持ち上げる。遠くで船の汽笛が低く鳴って、鳥の影が海面に短く落ちては消える。歩道の石の冷たさが靴底越しに伝わり、ベンチの木目は手のひらに滑らかで、わずかなざらつきが心地よい。観光客が写真を撮り、家族連れが子どもと走り回る。その賑わいの中で、二人の沈黙は特別なものだった。


並んで座る。沈黙は今日のどの場面よりも優しい。中華街で重ねた匂いが薄れて、潮の匂いがそれに取って代わる。目の端で互いの横顔を確かめて、視線がどこへ向かっているかを感じ取る。指先がベンチの縁で少し動いて、ふと触れ合う。触れたのは一瞬。けれど、その一瞬に詰まっている意味が、二人にはよく分かる。


「……」


言葉はまだ呼吸の手前で留まり、かわりに心臓の音が内側から肩に届く。美咲がゆっくり湊の方を向く。睫が影を落とし、頬の上に風の線がひとつ引かれる。湊も同じ速度で顔を上げる。目と目が合う。逃げないで、見ている。小さな笑いがこぼれる。どちらからともなく、手のひらが近づいて、ためらいが薄く剥がれて、指が絡む。


手を繋ぐ。それは思っていたよりも自然で、でも想像していたよりもずっと深く胸に響く。温度が伝わる。脈が伝わる。指の長さの違い、握る強さの探り合い、汗ばみそうな緊張を軽く笑って流すタイミング。潮風がその瞬間を包むように吹き、遠くの灯りが海面で細かく揺れる。二人の間にずっとあったモヤモヤが、波打ち際で泡になって小さく弾けていくように感じられた。


「ね、今日の香り、たくさん覚えたね」

「うん。たぶん、全部は料理のメモに書けないや」


料理部員としての建前と、今日の本音が、初めて同じ場所に立つ。手のひらの温度は、演技ではない。海の音は、言い訳を洗い流す。中華街で嗅いだ香りのレイヤー――八角、花椒、胡麻、油、蒸気、杏仁――それらが目に見えない糸になって、今繋いでいる手の上にやわらかく重なる。互いを意識する気持ちは、香りに似ている。目には見えないのに、確かで、ふとした瞬間に強く感じられて、思い出しても蘇る。


帰り道、海から街へ戻る途中、手は離れない。歩幅を合わせるのがこんなに難しくて、こんなに嬉しいことだと今日知る。信号待ちの赤の下、靴の先がかすかに触れて、そのたびに胸の内側で「大丈夫」と小さく頷く声がする。二人の影はさっきより近く、夜の手前の光に溶けていく。今日の匂いは、髪と服と、心の奥に残る。この事はメモに書かなくても、ずっと忘れない。


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