第99話 損だからな
悲鳴が連鎖し、若い女性が何人か、校舎の方へ逃げて行った。
総理が目を見開いたまま後ずさる。
門番たちは顔を強張らせ、誰かは腰を抜かし、誰かは銃を構えたまま固まっていた。
茜の指が、俺の服をぎゅっと掴む。震えているのが分かる。
「た、大佐……」
総理が掠れた声を漏らす。
──だが、様子がおかしい。
振り下ろされたはずのΣの腕が、そのまま止まっていた。動かない。
いや、違う。力を込めて何度も腕を上げようとしているが、動けないでいる。
「……どうした?」
准尉が眉をひそめる。
次の瞬間だった。
ブチッ──と。
肉の裂ける音が、やけに生々しく響いた。
Σの腕が、根元から引きちぎられる。
ドス黒い血が噴き上がり、砂埃の中へ飛び散った。
その場の空気が凍りつく。
誰も、何が起きたのか理解できていない。
ゆっくりと砂煙が晴れていく。
その中心に、立っていたのは……大佐だった。
その右腕——いや、もう腕とは呼べない。
肩口から先が、真っ赤な結晶に包まれている。
血をそのまま固めて削り出したような、禍々しく巨大な異形の腕。獣の前脚じみた湾曲。鋭い爪。脈打つように赤黒い光を内包した結晶体。
まるで、血の彫像だ。
その異形の腕が、Σから引きちぎった腕を無造作に掴んでいた。
そして——
それを、ゴミのように地面へ捨てる。
鈍い音を立て、千切れた腕が土の上を転がった。
「ひっ——」
「ば、化け物……!」
さらに悲鳴が広がる。
門の前は一瞬で恐慌状態になった。
誰かが尻もちをつき、誰かが逃げ腰になり、誰かは震える手で引き金に指をかけたまま動けない。
「は、晴翔さん……あ、あれ……が、晴翔さんの言う……?」
茜の声は、泣き出す寸前みたいに震えていた。
「……」
俺も、すぐには言葉が出なかった。
見覚えがある。
あの血のような赤い結晶。
魔王が使っていた大鎌——永遠の別れを告げる赫
あれによく似ている。
なぜ、大佐がそれを——
ダメだ、思考が追いつかない。
「おい、春日 晴翔」
大佐が振り返らないまま、俺の名を呼んだ。
低く、静かな声だった。
「これは、俺が望んだことだ。あいつに非はない」
俺の胸の内を見透かしたような一言だった。
呆然と立ち尽くしていた准尉の顔が、時流れ始めたかのようにようやく動く。
「……撃て!」
怒鳴り声と同時に、乾いた銃声が連続した。
門番たちの小銃が火を噴く。
弾丸が大佐へ降り注いだ。
だが——
甲高い音が立て続けに響く。
大佐の肩、胸、頬に触れる寸前、その部分の皮膚が赤い結晶へと変質した。
硬質な赫が瞬時に盛り上がり、銃弾を弾く。火花が散る。何発受けても、傷一つつかない。
結晶は弾を受けた次の瞬間には形を変え、血肉のように滑らかに戻る。
「な……」
「効いてない……!」
隊員たちの顔から血の気が引いていく。
「散開! 距離を取れ!」
命令が飛ぶ。
だが遅い。
大佐の姿が掻き消えた。
地面が爆ぜる。
次の瞬間には、一番前にいた隊員の眼前にいた。
「が——っ!?」
赤い結晶の腕が横薙ぎに振るわれる。
隊員は銃ごと吹き飛ばされ、門柱に叩きつけられた。金属音と悲鳴が重なる。
別の一人が震えながら引き金を引く。
至近距離からの連射。
それすら、大佐は避けもしない。
胸から首筋にかけてが瞬時に結晶化し、弾丸をすべて受け止める。
砕けたのは弾の方だった。
そのまま大佐は相手の銃身を掴む。
赤い指が金属に食い込む。ぐしゃり、と粘土みたいにひしゃげた。
「ひぃっ!」
武器を失った隊員の腹に、結晶の膝がめり込む。
身体がくの字に折れ、そのまま地面へ沈んだ。
「ショットガンを出せ! 頭を狙え!」
誰かが叫ぶ。
後方にいた隊員が、慌てて散弾銃を構えた。
轟音。
散弾が大佐の上半身をまともに打ち据える。
しかし、その瞬間——
大佐の頭部から肩口にかけて、赤い結晶が花のように広がった。
赫い装甲。
散弾はその表面で砕け、弾かれ、欠片になってばらまかれる。
無傷。
まるで最初から、効くはずがないとでも言うように。
隊員の目が絶望に見開かれた。
大佐は無言のまま踏み込む。
一瞬で間合いを詰め、ショットガンの銃身を掴んだ。
赤い腕が軋み、金属製の銃身が飴細工みたいにへし曲がった。
大佐は淡々と前へ進み、手近な銃を叩き折り、隊員を一人ずつ沈めていく。
腕を振るうたびに悲鳴が上がる。
蹴り飛ばされ、壁へ叩きつけられ、武器を砕かれ、意識を刈り取られていく。
殺してはいない。
だが、徹底的だった。
立ち上がれる者を一人も残さない。
「Σ! Σを動かせ!」
准尉が叫ぶ。
片腕を失ったΣが、ぎこちなく身体を揺らし、残った腕を振り上げる。
センサーが赤く点滅する。声は無いものの、全身を震わせ威嚇するようにうめいた。
大佐はようやくそちらを向く。
無言のまま、一歩。
Σが吼えるような唸りを発し、突進する。
その巨体を前にしても、大佐は退かない。
真正面から踏み込んだ。
赤い結晶の腕が、深く引き絞られる。
次の瞬間。
振り抜かれた一撃が、Σの胸部へ叩き込まれた。
鈍い衝撃音。
手榴弾すら効かない装甲代わりのコートが、がひしゃげ、砕け、陥没する。
衝撃が巨体を持ち上げ、そのままΣは地面から浮いた。
ありえない。
あれだけの重量が、殴り飛ばされた。
Σは数メートル先まで吹き飛び、門扉に激突する。
鉄が悲鳴を上げ、歪み、門ごと崩れ落ちた。
まだ終わらない。
大佐は地面を蹴る。
一瞬で距離を詰め、倒れたΣの頭部を結晶の腕で掴んだ。
ミシ、ミシ、と嫌な音が響く。
頭蓋がへこみ、ヘッドギアが悲鳴を上げる。
「や、やめ——」
准尉の声。
直後、握り潰された。
Σの頭部が、赤い腕の中で果実みたいに砕け散った。
火花と黒い液体が飛び散り、機械の駆動音が途切れる。
沈黙。
さっきまであれほど騒がしかった場が、嘘みたいに静まり返った。
地面には倒れ伏した隊員たち。
砕けた武器。
潰れたΣ。
そして、その中心に立つ大佐。
真っ赤な結晶の腕から、どろりと黒い血が滴っていた。
誰も、動けない。
総理も、門番も、呆気に取られていたその他全員も。
ただその異様な背中を見つめることしかできなかった。
俺も同じだった。
あまりにも、人間離れしている。
だが——
その背中には、確かに意志があった。
かつて裏切り、見捨てた者達をその背に護り、大佐が小さく呟いた。
「せっかくの力だ。使わなかったら、損だからな」




