第90話 人では無くなるがな
気がついたら、地面が近かった。
地面に、横たわっているのか。
頭だけ縁石に乗っかって、身体は道路に投げ出されているらしい。
動こうとしたが、指の一本も言うことを聞かない。全身が燃えるように熱かった。
滲む視界の中に、ゾンビの死骸が見えた。
無惨……と呼ぶほかない。十数体が、どれも綺麗に真っ二つになって転がっている。
もちろん俺がやったわけじゃない。ナイフで人間を両断なんてできるか。
——誰かが、いる。
夕焼けの中に、影が一つ。
逆光で顔は見えない。ただ、ゴシックのドレスの裾が、風に揺れていた。
……いつぞや、倉庫で見た女だ。
「……ほぉ、まだ生きておったか」
女が微笑を浮かべて、俺を見た。
「……よく、会うな」
喋ると口から血が吹き出た。
「あぁ」
女は氷のように冷たい笑顔のまま、ゾンビの死骸を踏みつけながら数歩こちらへ近づいてくる。
「お前、名は?」
「……野田」
「そうか」
何を考えているのか。一瞬口をつぐんで、ふと面白そうに笑った。
「ノダ。お前、もう死ぬぞ」
「……分かってる。何の嫌味だ」
「まぁ、そう邪険にするな。ここで会ったのも何かの縁だ。先日の礼もせねばな」
夕陽が女の目を照らした。緋色の虹彩が、一瞬ぞっとするほど鮮やかに光った。
「助けてやろう。人では無くなるがな」
何だこいつ。イカレてるのか。
……いや、そもそもこいつは本当に人か?
こないだといい、今回といい、明らかに常人離れした気配がある。あの死骸の山も、きっとこいつがやったんだろう……。
ふと全身が震えているのに気づいた。
失血で死にそうなのか、それともゾンビになりかけているのか。どのみち、もう時間は無いようだ。
もう、考えてるのも面倒だ。
「……乗った」
女が小さく頷く。
その手がドス黒い影に包まれて——そこで、意識が消えた。
……
どれくらい経ったのか。
夕焼けだった空に、薄らと星が昇っていた。
……いや、空の様子なんか気にしているということは。
助かったのか?
自分の身体を見る。
驚いたことに——傷が、一つもない。
「目が覚めたか」
近くのベンチに座っていた女が、ハイヒールを鳴らしてこちらへ近づいてきた。
「……何を、した」
「なに。言わば悪魔の契約だ」
まるで悪魔のように笑った。
「なるほど。で、俺は何をすればいい? 人間の魂でも集めてくればいいのか?」
「……何だそれは? まったく、面白い男だな」
俺を小馬鹿にしているのか、それとも……一才感情のこもっていない笑顔が向けられる。
「何も望まぬ」
「……は?」
「我の邪魔をしなければ、それで良い」
意味が分からない。
命を救っておいて、見返りは無いと?
それでこいつに何の“得”があるんだ?
「そういえば、一緒に居た若いのはどうした。死んだのか?」
「……いや。あいつは安全な場所だ」
一瞬、間が開く。
「そうか。ならお前はなぜ一人でここに?」
「人を探している。秋山茜という女子高生を知らないか」
「いや」
即答。
眉ひとつ動かない。本心か嘘か、疑うだけ無駄だろう。
「そうか。……なら、春日 晴翔という男は」
その瞬間だった。
彫刻のように微動だにしなかった女の表情が——ほんの一瞬だけ、動いた。
「その男に、何か用が?」
「大した事じゃないが。……世界の真相じみた話を持っていってやろうかと思って」
「……そうか。まぁ、その男なら。世界を変えるかもしれんな」
女はふと、街の方を指差した。オフィス街の方角だ。
「あそこに白い大きな建物が見えるか? おそらくその辺りだ」
「……何故、知っている」
「気配を探れば、容易い」
本気とも冗談とも分からない答えに戸惑っていると、女はふと歩き始めた。
「我も行こう。そろそろ挨拶くらいしておかねばな」
その佇まいは、まるで城の庭を優雅に散歩する女王。
俺は、付き従う従者のように、その後ろに従った。




