第88話 たった数キロバイトのデータ
食堂の隅に、大型のポータブルバッテリーが置かれていた。
そこからケーブルが伸びて、窓の外へ。持ち運び式のソーラーパネルに繋がっている。なるほど、これならノートパソコンくらい問題なく使えるな。
バッテリーの傍らには、一人の少女が座っていた。ノートを広げて、何かを書き込んでいる。
総理が声をかけた。
「仕事、ご苦労。総理特別権限だ。重要案件につき、少し使わせてもらえるか?」
少女がノートに目を落とす。
使用履歴とバッテリー残量が、細かい字でびっしり記されていた。
そういえば、いつぞや祖父を補給部隊に参加させたときに揉めていたガキか。……すっかり大きな顔をしている。
「しょうしょうお待ちください!」
そう言って、ノートに何かを書き込んだ。それからぱっと顔を上げて、
「はい、どうぞ」
満面の笑みだ。すっかり受付係のつもりらしい。
総理が笑顔を返す。ノートパソコンを持ってきた部下が、バッテリーにケーブルを繋いだ。
しばらく待って、パソコンが無事起動した。
蒼がUSBメモリを差し込む。マウスを操作すると、ウィンドウが開いた。
中にはフォルダがふたつ。
ひとつは「Re-Memory Protocol」
もうひとつは——「想起記憶定着療法」
そして、「蒼へ」とファイル名がついたテキストファイルがひとつ。
フォルダをクリックすると、中に大量のデータファイルが入っていた。
「……何のデータだ」
総理が覗き込む。
「分かりません。一つずつ確認していくしか。ただ——」
蒼が一方のフォルダにカーソルを乗せた。
「想起記憶定着療法。これは父と母が研究していたものです。事故や病気で記憶障害になった患者に、記憶を再定着させる。つまり、記憶喪失の治療法です」
「そんな技術があるのか」
「まだ研究中で、世間には普及していません。ただ……」
蒼は一瞬躊躇うような素振りを見せた後、少し声を落として口を開いた。
「現状、唯一の被験者が——茜、妹と聞いています」
総理が静かに息を飲んだ。
なんだか、やっかいになってきた。
「もう一つの方は?」
「こちらは聞き覚えが無いです」
——いや。
「そっちは俺が聞いたことがある」
二人が俺を見た。
「詳細は分からないが、基地内で研究されていた何かだ。隊員や研究者どもの持ってたファイルに何度かその文字を見たし、会話にも出ていた」
全員に沈黙が走った。
蒼は無言のまま、「蒼へ」と書かれたテキストファイルを開いた。
中は改行すらろくに打たれていない文章だった。急いで打ったのだろう。日付は昨日の2時少し前。騒ぎの直前か。
『蒼、茜へ。まずは二人に謝罪を。私と母さんの研究が、世界を壊してしまった。
私たちが開発した想起記憶定着療法は、脳波による記憶の「呼び起こし」と、神経薬理による記憶の「定着」を組み合わせた治療法だ。記憶を失った患者が、自分の過去を取り戻せるように。それだけを願って、研究を続けてきた。
だが軍はその技術に目をつけた。記憶を「呼び起こす」のではなく、「書き換える」ために。恐怖や反発の記憶を消し、命令への服従を刷り込む。そして神経系への介入で身体能力を底上げする。逆らわず、疲れを知らず、戦い続ける兵士を作るために、私たちの研究は悪用された。
それがRe-Memory Protocolだ。
実験は、失敗した。記憶の階層を強引に書き換えた結果、脳の抑制機能が崩壊した。自我が消え、本能だけが残った。——今、街を歩き回っているものたちが、その成れの果てだ。
全ては私たちの研究から始まった。すまない』
誰も、声を出さなかった。
食堂の外で、子どもたちの声がした。遠く、のんきな笑い声だ。
……呆気ないものだ。
たった数キロバイトのデータ。その中に、この世界の全てが書かれている気がした。
蒼と総理は無言でその他のファイルを開き、中を確認し始めた。
俺は興味を失って、ただ椅子に座る。どうせ見ても分からないし、それに——何だかそれ以上のことを知ろうとも思わない。
……
途中、総理と蒼に食事の差し入れがされた。持ってきた男が去ろうとしたところに、総理が「彼にも」と俺を指した。
男は一瞬何か言おうとしたが、黙ってカウンターへ向かった。戻ってきて、俺の前に乱暴にパンを置いて去っていく。
受け取って、黙って食った。
── 一時間ほど経って。
総理がため息と共に大きく背伸びをした。
「世界の真理でも分かったか?」
俺の問いに、何とも言えない笑みを返す。
「……少しずつ、見えてきた気がします」
蒼がモニターから目を離さずに言った。
「感染の仕組みも、ファイルに記されていました」
「どういうことだ」
「Re-Memory Protocolは、記憶の書き換えに薬剤を使用しています。その薬は体内に入ると、自ら増殖し、血液を通して他者へ伝染。つまり、感染者は噛みつきという接触行為を通じて、その脳波パターンを伝播させるんです」
「つまり、自分のコピーを作り続けるわけだ」
総理が深いため息をつく。
「……何のために?」
「……理由は、分かっていないそうです。薬剤が増殖する性能自体は、元々コスト削減のために組み込まれていたようですが、それ以上の事は。何せ失敗から産まれたイレギュラーな存在らしいので」
なるほど。発生の原因と感染の仕組みは分かったが、それはさして重要じゃない。
『噛まれればゾンビになる』その事は何も変わらない。重要なのは……
「で、対処法は?」
俺の問いに、蒼と総理は一瞬顔を見合わせた。
どちらが先に言い出すか少し譲るような素振りの後、蒼が一言。
「ありません」
総理も、ひとつ、鼻から大きく息を吐いた。
「……ただ」
蒼が少し間を置いた。
「おい、いいのか? こいつは……」
総理が間に割って入る。
「野田さんは、僕の恩人です」
何を恩に感じてるかは知らないが、蒼はじっと俺を見た。
「……データの中に、妹……茜のことが、書いてありました」
俺は、パンを持ったまま動きを止めた。
「茜は、中学の頃に交通事故の後遺症で、記憶障害を発症しました。父と母はその治療のために、想起記憶定着療法を施した。結果、記憶の大部分を取り戻せたのですが、ただ——その過程で。茜の脳には逆位相の脳波パターンが定着したようです」
「逆位相?」
「Re-Memory Protocolが伝播しようとする同期の波形と、真逆の状態です。同期しようとする波が来ても、茜の脳はそれを打ち消してしまう。だから——」
蒼が、静かに続けた。
「茜は、ゾンビに感染しない。唯一の、例外です」
総理がそっと目を閉じた。
『あの子は、唯一の希望だ』
秋山の言葉が、頭の奥から湧き上がってきた。




